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兵庫の星
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ガチなマニアさんから、興味あるけどよく分からない、今度イベント行ってみようかなというビギナーさんまで幅広く歓迎します。楽しくやっていきましょう😉
知識のある方はビギナーさんにいろいろ教えてあげるようにしましょうね😊
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自衛隊の星
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てめえ
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鈴
梅川忠兵衛
#tabjun1422

たかち
マミ
* 初代
1842年8月7日
旧暦:天保13年7月2日
実業家
伊藤忠商事
丸紅創業者の誕生日🎂
ぼーすん
自由が丘チュべ・ド・ショコラ行ってきました[泣き笑い]
2kgの袋が並べた瞬間売れてたよ[びっくり]





なっつん
貧しきからは奪わず
っていうのが本格盗賊の3か条というのは、池波正太郎の小説の中の話だけなんだろうか
舟影の忠兵衛(三国連太郎)みたいな人

たかち

芋苗刑

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たまかしわ〜
二人してさす一張の
傘に姿をつつむとも
情の雨のふりしきり
かわく間もなきたもとかな
顔と顔とをうちよせて
あゆむとすればなつかしや
梅花の油黒髪の
乱れて匂ふ傘のうち
恋の一雨ぬれまさり
濡れてこひしき夢の間や
染めてぞ燃ゆる紅絹うらの
雨になやめる足まとひ
歌ふをきけば梅川よ
しばし情を捨てよかし
いづこも恋に戯れて
それ忠兵衛の夢がたり
こひしき雨よふらばふれ
秋の入日の照りそひて
傘の涙を乾さぬ間に
手に手をとりて行きて帰らじ

🌴たかし⛺
関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その19)
綿業は、三井、三菱などの財閥と並ぶ戦前期、日本の産業発展の柱で、「関西五綿」・「船場八社」と言われた時代があった。「関西五綿」の1つ目は東洋棉花で、1920年(大正9年)に三井物産棉花部から分社し、戦後はトーメンと呼ばれ、現在は豊田通商に吸収合併。2つ目は日本綿花で、戦後には日綿実業、略称ニチメンと呼ばれ、現在の双日という商社の一つの源流になった。3つ目が江商で、兼松に吸収合併。「関西五綿」の残る2社は、伊藤忠商事と丸紅は総合商社。
朝鮮戦争特需の反動不況後、関西の繊維商社「五綿八社」はどうなったか。「関西五綿」は持ちこたえたが、これらにたいして、「船場八社」のうち岩田商事は破綻。丸永と田附は、関西五綿の日綿実業(日本綿花から社名変更、現双日)と合併。竹村商店は帝人のグループ企業と合併。又一は金商と合併後、三菱商事の系列に。竹中は住友商事の系列に入った。豊島商店は親族の豊島半七の山一商店と合併し、豊島株式会社となった。
船場八社は敗戦後の綿業の斜陽産業化、とりわけ1954年(昭和29)の不況で大打撃を受け、船場に本社があるのは八木商店だけとなった。
●竹村商店
起源は京都市の竹村藤兵衛商店で、竹村清次郎が竹村商店を創り発展。彼は京都府の出口家に生まれ、幼少より竹村藤兵衛商店に奉公していた。この竹村藤兵衛商店を船場八社に含めれば、1869年(明治2)に八社の中では最も早く船場に綿花、綿糸、綿布を扱う支店を設置。
●岩田商事
創立者は岩田惣三郎。1843年尾張国(現愛知県)中島郡、今の一宮の辺りの生まれ。1874年(明治7)に大阪船場に出て、綿糸商として後で有名になる兄の常右衛門と一緒に綿糸布を販売し、1881年(明治14)に独立。北久太郎町で綿糸商を開業し阪神間を奔走。1918年、岩田商店は株式会社に改組。第一次大戦で綿糸価格が大きく変動した時期に、莫大な収益をあげたが1920年(大正9)の恐慌で、綿糸価格が短期間に1/3に暴落して中外綿業は破綻。惣三郎は浄土真宗大谷派の熱心な信者で、その関係を中心に多額の寄付をしている。
●丸永商店
源流は近江商人・不破家の分家不破栄次郎家で、本家と同じ呉服卸商。初代不破栄次郎は1882年(明治15)に近江国(現滋賀県)犬上郡彦根から大阪に出て東区北久太郎町に綿糸問屋の永楽屋不破糸店を開業。インド綿糸の取引から始め、その後東区内で店舗を移し繁栄を続け、栄次郎が東区南本町に店を構えていた頃、近隣に谷口房蔵が谷口綿布という店舗を構えた。この谷口は明治30年代に経営不振の紡績会社を吸収合併して大阪合同紡績を創業し、栄次郎は谷口と囲碁を通じて仲良くなり、1900年(明治33)頃から不破糸店は大阪合同紡績が製造する綿糸を一手販売し、初代栄次郎が死の間際に谷口に不破糸店の将来を託したところ、彼は支援を惜しまず、谷口の後援が不破糸店の発展の大きなきっかけとなった。
●田附商店
創立者、田附政次郎は近江国神崎郡の近江商人の五男。1884年(明治17)、姉婿の田附甚五郎の経営する大阪東区本町の呉服店を助け、1889年(明治22)に分家し、大阪市東区安土町に店舗を借り綿布商・田附商店を創設。その後、叔父伊藤忠兵衛の助言を容れ、1890年(明治23)に金巾製織(大坂紡に吸収され、後に東洋紡)に入社。1893年(明治26)、政次郎は岩田惣三郎と同じく大阪の三品取引所の前身機関の創設に関わり、それ以降、晩年まで三品取引所を舞台に綿糸投機の達人「田附将軍」として有名になった。金巾製織を一旦退職したが、1900年(明治33)、役員として復帰し、同社が大阪紡に合併された後の東洋紡の時代まで政次郎は紡織製造業に関係した。
1920年(大正9)の恐慌では田附商店も大きな打撃を被り、多くの損害を出したが、数年で克服して1930年代に業績を回復。この恐慌対策の一環として1921年(大正10)田附商店は個人商店から株式会社に改組。取扱品目も綿製品を中心としたが、新製品のレーヨン(人絹)の糸や織物、毛糸、そして加工度の高い綿製品などの繊維製品を扱った。
他方で日露戦争の終わり頃から第一次大戦前までに政次郎は多くの企業の設立、経営に関わった。その中には又一を経営する阿部一族の関係企業である金巾製織と並ぶ江商と東津農業があった。
京大医学部に50万円という当時では巨額の寄付をして、それで大阪市北区扇町に北野病院が設立された。
●豊島商店
初代豊島久七は、綿織物が盛んであった尾張国中島郡で輸入綿糸の販売に成功した二代目豊島半七の実弟。1885年(明治18)、二代目半七が亡くなり、16歳の長男が三代目半七を襲名し、叔父の初代久七の補佐により成長。1903年(明治36)、初代久七は大阪市東区で綿糸商の豊島商店を開業。三代目半七の弟の民三郎を養子に迎え、1913年(大正2)、民三郎が家督相続し、二代目久七を襲名。
第一次大戦頃まで豊島商店は綿糸の国内取引に専念し、外国への輸出には進出しなかった。1918年(大正7年)個人商店の豊島商店は資本金200万円で豊島商店に改組。二代目久七が社長となった。1928年(昭和3)には、愛知県の豊島一族と協同で設立。尾張一宮で繊維製品を扱っていた山一商店(1918年設立)など多くの企業に投資。大阪市会議員、大阪商工会議所常議員も務め、二代目は大阪の綿糸商同盟会や大阪綿布商同盟会といった団体の中心メンバーとなり、人を取り纏める才能も持ち得た。1841年初代豊島半七が「綿屋半七」の屋号で綿花の仲買を始め、1918年(大正7)6月、豊島半七糸店を改組。株式会社山一商店を設立。1942年(昭和17)7月には豊島商店を合併し、豊島株式会社となる。現在は愛知県名古屋市に主力拠点をおく、大手繊維商社。
●又一
近江三福の商家の1つである神崎郡能登川の阿部市郎兵衛家の商社。四代目阿部市太郎が基礎を築く。本家は阿部市郎兵衛家で、市太郎家は分家。元々は綿製品以外の商品をいろいろと扱っていた。
阿部市郎兵衛家と市太郎家とは表裏一体の関係で、初代市太郎は、五代目市郎兵衛の次男を婿養子にして二代目市太郎とし、両家は姻戚関係を通じて密接な関係を結ぶ。そして七代目市郎兵衛と二代目および三代目の市太郎は、幕末の開港以来、金巾と唐花(西洋紅)を取り扱い、明治に入ってからは五郎絹・絹五郎・福連などの毛織物と洋綛(機械で紡がれた麻糸)を盛んに輸入し、1881年(明治14)には朝鮮布の輸入も始めた。両家は1871年(明治4)に大阪市南本町に又二大坂支店を開設。1884年(明治17)には共同経営の大阪支店を解消し、大阪市南久太郎町に又一大阪支店を開業。三代目市太郎は金巾製織などの創立にも関係し、1884年、大阪市南久太郎町に独自に阿部市商店を創業。この阿部市商店の屋号が又一となる。三代目市太郎は千石船を使って瀬戸内海から日本海を経て北海道まで廻航し、米、にしん、肥料などを仕入れ、近江麻糸紡織社の経営にも力を入れた。
四代目市太郎は慶應義塾を卒業後、アメリカのコロンビア大学で学び、綿糸布の重要性にようやく気付き、阿部市商店はこれまで中心だった麻布の販売を1913年(大正2)に取りやめた。阿部一族はすでに金巾製織を経営しており、日露戦争後に同社は大阪紡績、三重紡績と共に朝鮮で金巾市場をめぐって激しく競争していた。こうした動きに合わせて阿部市商店は日露戦争ののち1906年(明治39年)、中国貿易を開始し、四代目はさらに朝鮮との貿易も拡大する。
第一次大戦の好況期に阿部市商店は国内取引よりもむしろ外国との取引、特に中国貿易に力を注いた。他方で、四代目市太郎は、関西五綿の1つである江商の最大株主になり、さらに社長に就任すると、次第に江商の経営に活動の重点を移し、阿部市商店の経営からは手を引いた。第一次大戦期、阿部市商店は積極的な拡大策をとったが、それは阿部尚二郎の主導によった。そして1920年(大正9)大恐慌が襲ったが、その時の経営責任者は阿部藤造でした。彼は滋賀県大津市出身の阿部同族の一人で、東大法学部を卒業後、内務官僚を務め、その後横浜生糸の棉花部に勤務したのち阿部市商店に入るが、阿部市商店は恐慌で大損失を出して事業の継続が困難になり、そこで商権を継承した第二会社が又一だった。又一では四代目市太郎は表に立たず、実際の責任者は阿部禎治郎専務が務め、藤造取締役が支えた。なお禎治郎は1873年(明治6年)神崎郡能登川村に生まれ、分家して東京商業学校を卒業。住友銀行に長く勤めたのち、又一に戻った。
又一は阿部市商店が潰れて、その代わりに創られた会社だったが、設立後は非常に業績が回復し、1920年代の不況期でも利益をあげており、経営は成功していた。1928年(昭和3)、四代目市太郎は病のため江商の社長の座を野瀬七郎平に譲り、1930年末に一旦又一の社長になったが、健康状態は良くなく、経営には関わらなかった。
●竹中商店
和歌山の名家であった竹中源助家が二代目の時、油商から両替商に転じ、さらに1882年(明治15)に綿糸商を兼ねるようになり、やがて綿糸取引専業となった。1907年(明治40)、三代目源助の時に大阪市東区北久太郎町に支店を設置し、彼が明治末に病没すると、婿養子の川口兵四郎が相続して四代目源助となった。まもなく第一次大戦の好況が到来し、その頃には綿糸を東洋紡績、摂津紡績、尼崎紡績などから仕入れて、販売先は内地向け6割、輸出4割になった。輸出先は朝鮮、満州、中国で、営業の主力は和歌山ではなく大阪支店となり、四代目は他の会社にも出資していた。竹中商店では明治末に和歌山商業学校を卒業して入社した有能な番頭の谷口嘉一郎が会社を支えた。
●八木商店
八木與三郎は、幕末の1865年京都市生まれ。父親は丹波から京都に出て雑穀商八木家の養子になり、後年米穀商として成功した。與三郎は幼時に父親の友達であった京都の松盛家の養嗣子となり、そこには馴染めず1880年(明治13)に家を出奔し、父親の弟、藤本清兵衛が営む大阪の米穀店で働き、10年勤務して支配人となった。一旦祖母の実弟である八木文之亟の養子となり、八木家に戻った。なお藤本清兵衛の息子・二代目清兵衛は藤本ビルブローカー銀行(現大和証券)を創った。
1893年(明治26)與三郎は初代清兵衛が亡くなって2年後、28歳の時に、藤本家から独立した番頭の藤本清七と提携して組合組織による小さな綿糸商の八木商店を大阪市東区に開業した。しかし商売がなかなか上手くいかず、藤本との組合は結局解散して独力で経営を続けた。八木商店には中野豊という有能な支配人がいて、他の綿糸商と一緒に神戸の商館に行き輸入綿糸の取引で活躍した話が残っている。しかし八木商店が発足した頃には、日本でも大阪紡績が成功し始め、1万錘規模の紡績工場が大阪を中心に出来て、大いに発展した。そこで八木商店の主な綿糸の仕入れ先も日本の紡績会社になり、最初の頃は主に泉州紡績、摂津紡績、大阪紡績などから綿糸を仕入れていた。
八木商店は1908年(明治41)綿糸だけではなく、紡績が作った広幅綿布も売買するようになり、最初に扱った問屋は八木商店だった。第一次大戦期に八木商店は飛躍的に発展し、1918年(大正7)、個人商店を株式会社組織とした。ところが1920年(大正9)の恐慌で八木商店は大きな打撃を受け、海外出張所を全て引き上げた。1931年(昭和6)末の金輸出再禁止以降、業績は顕著に回復した。




🌴たかし⛺
関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その8)
江戸後期、八幡商人は「最上紅花」を求めて、寛政年間1789年〜1801年、東北の出羽最上地方に10家の八幡商人が進出していた。湖東商人では小林吟右衛門家(丁吟)、塚本定右衛門家(紅定)、阿部市郎兵衛家(紅市)、伊藤忠兵衛家(紅忠)なども「紅花」を扱っていた。また、近江出身で山形に定着し、活躍した商人もいた。十日町の西谷家・中村家・長谷川家・村居家などがあり、現在も近江屋の屋号を残している。
近江商人など「紅花交易」により財を成し、その資金を元手に明治維新や産業革命の時代の波に乗り、伊藤忠兵衛(伊藤忠商事や丸紅の祖)や阿部市郎兵衛(近江三福の商家の1つ)など、活躍した企業も数多くあったが、一方で明治維新や産業革命の変革の波に乗れず、没落した近江商人も数多くあった。
●最上紅花
室町時代頃から山形の出羽最上(現・村山地域) で作られた「紅花」。最盛期は江戸時代中期、米の百倍、金の十倍の価値とされていたため、近江商人などの間で主力商品となりつつあった。奥州仙台や奥州福島などでも作られたが、 特に山形の紅花はその質の良さから、近江(現滋賀県)との紅花交易により「最上紅花」は全国に名を馳せていた。近江商人や山形商人が率いた最上川舟運によって京都へと運び、華麗な西陣織や化粧用の紅などに加工された。江戸後期には奥州より劣り、評判を失い、明治時代に入ると、化学染料の普及や安価な中国紅花の輸入により大打撃を受け、山形の紅花栽培は急速に衰退し、近年には栽培されなくなった。最近は染体験など少しずつ観光用の郷土品として、紅花生産が復活している。
●最上義光
戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名。最上氏第11代当主。出羽山形藩の初代藩主。南羽州に勢力を広げ、縁戚である伊達輝宗・政宗と争う。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、慶長出羽合戦にて上杉家の直江兼続を退け、57万石の版図を築き、東北最大の城下町となる。最上川舟運の開発を進め、元禄年間には上流から下流まで全域にわたり最上川の掘削や拡張を進め、商才のある近江商人を山形へ誘致した。山形城の城下町、現在の十日町~七日町界隈に土地を分けて店舗を構えさせ、山形商人とともに紅花交易を盛んとなる。義光死後、1622年息子の義俊はお家騒動により近江大森藩一万石に移封されたのも、近江商人の交易の繋がりとなったとされる。江戸後期には次第に藩の衰退により、城の荒廃とともに城下町に武士が減り、商業の中心地として発展していった。
●最上川船運
最上川は内陸の重要な交通路としても利用された。舟運の発達によって最上川の河道整備も必要となったが、最上川は中流部~下流部に掛けて難所が多く、水運発達の最大の懸念となっていた。河口部の酒田は戦国時代には堺や博多と同様の自治港湾都市として、奥羽随一の商業都市に発展していた。関ヶ原の戦いの後に酒田を統治する事となった最上義光は酒田と山形を水運で結ぶ為に、最上川の河道整備を行った。最上川中流部、通称「最上川の三難所」と言われた碁点・三ヶ瀬・隼の瀬(現在の村山市)の三地点を開鑿して川幅の拡張と川底の掘削を実施し、舟運の円滑化を図った。これにより水運は発達し各所に船着場が建設された。その後、流通経済の拡大によって更なる舟運整備が求められ、1659年には幕領米の輸送を請け負った江戸の商人正木半左衛門らが酒田から江戸を結ぶ西廻り航路を開通させ、酒田は更に重要な経済都市として発展していった。1693年第四代米沢藩主・上杉綱憲の時に米沢藩御用商人であった西村久左衛門は、酒田と米沢盆地を結ぶため、1万7千両の巨費を投じて最上川上流部の難所であった五百川峡・黒滝地点を開鑿し、長崎(のちの中山町)から荒砥(白鷹町)の通船工事を完成させた。米沢藩領内にある最上川の荒砥よりも上流は「松川通り」と呼ばれ、糠の目(高畠町)、宮(長井市)、菖蒲(白鷹町)の河岸には藩の陣屋が設置された。
●七代目阿部市郎兵衛(近江三福と言われた商家1つで主に活躍した近江商人)
1837年− 明治37年(1904年)は、明治維新期の近江商人。繊維産業・鉄道・銀行など各種事業の支援者となり、日本の産業育成に貢献した。
1837年近江国神崎郡能登川村(現・滋賀県東近江市能登川町)に生まれ、幼名を元太郎と言った。父は近江商人阿部市郎兵衛家(屋号『紅屋』)の分家阿部市太郎家の2代目当主(通称吉太郎)である。本家市郎兵衛家には継嗣がなく、元太郎が伯父である6代市郎兵衛の養子になり、1857年家督を継いだ。家督継承後、紅屋家業の麻布商を営むと共に、米穀肥料問屋業務を新たに始め、その発展に伴い千石船を十数隻支配して、北海道・九州など各地の物産を江戸・大阪輸送し、販売を行った。明治12年(1879年)には西洋型帆船を建造し、明治15年(1882年)にも千五百石積帆船を新造した。矢継ぎ早の帆船新造は評判となり、東京商船学校の研修も受け入れたと伝えられる。明治維新による産業興隆機運の中、市郎兵衛も新規事業への参入意欲は旺盛で、様々な事業に進出、または支援を行った。
〇関西鉄道
滋賀県議会議員弘世助三郎・馬場新三・高田義助、滋賀県知事中井弘等は京・三重県・滋賀県の有力者に呼び掛け、京より名古屋を直接結ぶ鉄道敷設を計画し、阿部市郎兵衛を始め、三重県桑名船馬町(現桑名市)の諸戸清六、京都市上京区春帯町の濱岡光哲、東京市華族井伊直憲等11名が発起人となり、明治20年(1887年)3月30日関西鉄道株式会社の設立を申請した。明治21年(1888年)3月1日、関西鉄道会社設立(資本金300万円)に対し免許が交付され、翌年滋賀県内の草津・三雲間が開通し、順次営業区間は広がっていった。
〇阿部ペイント製造所
明治21年(1888年)阿部ペイント製造所を大阪に設立し社長に就任した(昭和4年(1929年)鉛粉塗料に買収され現在大日本塗料)。
〇金巾製織
明治21年(1888年)8月滋賀県知事中井弘の勧奨に応じて、阿部周吉・小泉新助・山中利兵衛・伊藤忠兵衛・中村治兵衛・西川貞二郎等滋賀県有力者(近江商人)と共に発起人となり金巾製織株式会社を設立(本社、大阪四貫島)。明治23年(1890年)1月初代社長となり、他に役員として阿部周吉・3代目阿部市太郎・小泉新助・中村治兵衛・高田義甫・田村正寛、監査役として西川貞二郎が就任した(明治39年(1906年)大阪紡績(明治15年(1882年)設立し市郎兵衛は発起人)と合併、大正3年(1914年)三重紡績と合併し、後の東洋紡になる)。
〇阿部製紙所
明治24年(1891年)洋紙需要の急増に国産で対応すべく阿部製紙所を大阪西野田新田に設立し、社長に就任。製紙工場は火災にあうなどしたが、明治31年(1898年)新工場を建設、明治34年(1901年)に個人経営から阿部製紙合資会社に改組した(日本製紙(株)を経て富士製紙と合併し、現在王子製紙)。
〇近江銀行
明治27年(1894年)近江銀行創設に加わり、監査役に就任した。
〇近江鉄道
滋賀県湖東の内陸部(中山道沿い)は官設鉄道のルートから外れ、同じ湖東の琵琶湖側(能登川、八幡側)に官設鉄道が敷設され、湖東平野の内陸部を縦断し東海道線彦根駅と関西鉄道深川駅(現甲南駅)を結ぶ鉄道計画が持ち上がった。明治26年(1893年)11月大東義徹(司法大臣)・林好本(彦根市長)・西村捨三等の旧彦根藩士族と中井源三郎・下郷傳平等有力近江商人を中心に44人が発起人となり明治29年(1896年)資本金100万円で近江鉄道株式会社が設立した。設立当初発起人等が役員となったが、資本金100万円では計画の半分も鉄道敷設できず、設立当初より資金繰りが厳しく、明治31年(1898年)役員全員が辞任し、新たに市郎兵衛が社長に就任し、阿部市三郎等が役員となった。明治34年(1901年)3月優先株式2万株(100万円)の発行を決定し、そ大半を丁吟(3代小林吟右衛門)と阿部一族(阿部市郎兵衛家・阿部市三郎家等)が引き受けた(大正13年(1914年)までに彦根-貴生川・多賀線が開通した後宇治川電気(関西電力の前身の一つ)の系列に入り、西武鉄道グループの傘下となる)。
〇その他
・大阪の繰綿問屋の共同出資により明治20年(1887年)設立した有限会社内外綿(後にシキボウ傘下)
・明治28年(1895年)1月設立真宗信徒生命保険(現東京生命)・創業大日本製糖株式会社(現大日本明治製糖)
・明治29年(1896年)開業京都企業銀行(大正元年(1912年)9月破産申請)・愛知県の明治銀行(昭和13年(1938年)8月業務廃止)
・明治31年(1898年)開業七尾鉄道株式会社の他に浪花紡績・京都絹糸紡績・京都硫曹(現日産化学)等の設立発起人、役員になった。
・渋沢栄一が創立委員長を務めた京北鉄道(1894〜1902)では由利公正や大和田荘七、岡部広、岩下清周らとともに役員に名を連ねた。
市郎兵衛は、これら新規事業創設に当たり、阿部一族として活動した。金巾製織では弟である3代目阿部市太郎が市郎兵衛の後社長になり、阿部利兵衛家3代周吉や市太郎の養子房次郎(後に東洋紡績社長)も役員として活躍した。近江鉄道では市郎兵衛の同じく弟である2代目阿部市三郎が、市郎兵衛の後に社長となった。また、従兄弟である阿部市次郎家の2代目阿部彦太郎は、市郎兵衛が展開した回船事業の後を受け大阪商船等の役員となり、内外綿の初代社長となった。
晩年は弟である2代目市三郎の長男を養子とし、市郎兵衛家8代目として家督を譲ったが、養父に先立ち明治35年(1902年)死去した。このため7代目市郎兵衛が亡くなるまでの間家政を見、明治37年(1904年)死去した。







🌴たかし⛺
関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その6)
江戸時代に活躍した代表的な「近江商人」で現在も表舞台で活躍している企業は、西川甚五郎のふとんの西川産業と伊藤忠兵衛の総合商社の丸紅・伊藤忠商事、飯田新七の高島屋などが有名である。
江戸時代に活躍したその多くの近江商人は、明治維新の変革に対応出来ず、没落していく商人も多かった。近江商人の中には、貸金業に転換し、大名貸しなどを行い、巨万の富を得ていた「高島商人」の小野組など、うまく立ち回れず、没落した企業も多数あった。「大坂商人」の淀屋も巨万の富を得て、没落した商人の1人として、有名である。
江戸の幕末から明治維新の政治改革に産業革命に適応した商人も数多く出てくる。近江商人が源流とされる三井、三越などの財閥やトヨタ自動車、西武グループなどがその一例である。
また、破綻した近江商人の小野組から派生した古河財閥は一度破綻し、財閥を解散しているが、古河グループの古河山水会として、再結成して今なお表舞台で活躍している。古河機械金属、古河電気工業、富士通、横浜ゴム、朝日生命保険、みずほ銀行など多数の関係企業が所属している。
●西川甚五郎
<山形屋・初代1549~1644年>
八幡商人。蒲生郡岡山村生まれ。天正14年(1586年)に八幡城下が楽市楽座とされると店を設け、主に能登方面に蚊帳や畳表を行商とし、次第に商圏を広げ、ついに江戸日本橋に出店した。2代目甚五郎は萌黄蚊帳を考案して富を得て、ふとんの西川で知られる「西川産業」の基礎となった。
●西村太郎右衛門
<安南屋・1603~51年>
八幡商人。蒲生郡八幡町生まれ。外国貿易を志して豪商角倉了以の御朱印船で安南国(ベトナム)に渡る。現地で20年間商いを続け、国王に認められ正保4年(1647年)に財産をつんで長崎に帰国したが、日本は鎖国のため上陸出来ず、「安南渡海船額」と言われる額を郷里の日牟礼八幡宮に奉納し、安南に帰りました。
●西谷善太郎
<最上屋・4代目1603~66年>
八幡商人。家祖は神崎郡小幡村(旧五個荘町)の出身で、安土城下に移り、のち八幡城下に移住した。4代目善太郎は出羽地方(山形県)に呉服・古着類を行商し、以降代々同地に出店を構えました。8代目善太郎が活躍した(1751~63年)には、呉服・真綿・古着類を下し荷し、同地の紅花・青苧・絹糸・タバコを上方で販売して巨商の列に名を連ねた。
●西川伝右衛門
<住吉屋・初代1627~1709>
八幡商人。蒲生郡南津田村生まれ。僅かな元手で呉服類を北陸・奥羽地方(秋田県など)に行商し、蝦夷(北海道)が商売に有利との情報を得て、(1661~73年)に松前に出店した。藩の御用商人となり、船を造り大坂方面に産物廻しを行って巨利を得て、場所請負をし危険をおかして有望な漁場を開拓した。
●市田清兵衛
<麻屋・3代目1637~1714年>
八幡商人。市田家はもと六角氏に仕えた武士で神崎郡石川村(旧五個荘町)の出身。1653年頃に八幡町に移り、3代目清兵衛は上州(群馬県)に繰綿・太物類を持ち下り、商いをし、当地の産物を登せ荷し、富を得ました。晩年、家訓を定め、新規事業を慎重に行い、才能ある者は中途採用でも重役に起用した。
●正野玄三
<初代1659~1733年>
日野商人。蒲生郡村井村生まれ。初め商業を志し、18歳から東北地方に行商したのち、母の難病を治した名医に感激し医業に転向した。(1704~11年)に故郷で「萬病感応丸」などの合薬を作り、日野売薬の基礎となりました。日野薬品工業の遠祖にあたる。
〇1943年(昭和18年) 近江日野製薬株式会社として設立。太平洋戦争中の企業整備令によって、日野町にあった30以上の製薬業者が合併して設立された。現在は株式会社大木の子会社となっている。
●小泉武助
五個荘商人。神崎郡山本村の出身。元々農家であったが、所有する田の収穫は年貢にも満たなかった。これを商いで補うため麻布を播磨・丹波地方に行商し、苦労の末、成功する。(1727年)に家督を養子に譲り、田畑を守り、商いに出精するよう諭し、諸国社寺巡礼の旅に出て、その後音信不通となった。
●外村興左衛門
<外与・5代目1682~1765>
五個荘商人。神崎郡金堂村の出身。外村家は代々篤農家でしたが、5代目興左衛門は農業だけでは一家の繁栄はないと考え、農閑期に近江麻布を姫路・大坂・堺などに行商した。(1700年)に大和郡山に出店した。総合繊維商社外与の創業の祖にあたる。外村一族からは外宇・外市・外宗など多くの商家が生まれていた。
●中井源左衛門
<十一屋・1716~1805年>
日野商人。蒲生郡岡本村生まれ。家業は日野椀製造業。19歳から関東各地を行商し、29歳で下野国(栃木県)に質店を開業した。以降、全国各地に支店を置きその数15店におよび、仙台伊達藩の御用商人となった。司馬江漢が日記に「この爺さん一代に三十万両を儲け」と記されている。世界初の複式簿記を考案し、家訓「金持商人一枚起請文」でも有名となった。
●松居久左衛門
<星久・3代目1770~1855年>
五個荘商人。神崎郡位田村の生まれ。農業のかたわら生糸・綿布・麻布類を全国に行商し、やがて江戸・京都に出店した。日常の生活は質素倹約に徹し「奢れる者必ず久しからず」を信条としていたが、有事には出費を惜しむこと無く、社会奉仕に尽力した。商標の天秤棒のマークは「天秤棒を肩にかつぎ朝星夜星を仰いで働く」という意味としていた。晩年は「遊見」と号していた。
●髙田善右衛門
<初代1793~1868年>
五個荘商人。神崎郡北庄村の富裕な家の末子として生まれ、早くから独立を志し、17歳で僅かな元手で山路の険しい紀州に行商した。この地方で必要な商品を調査して販路を拡大する。のち麻布などを関東で販売し、京都にも出店した。常に天秤棒を肩に旅する姿は戦前の国定教科書に刻苦精励を信条とする近江商人の典型として紹介された。
●飯田新七
<高島屋・初代1803~74年>
高島商人。越前敦賀の出身で、京都の呉服屋に奉公中、その勤勉ぶりから高島出身の米屋飯田家の養子となった。家業を呉服商にかえ、高島屋の屋号で他店よりも早朝から店を開け、「おかげにてやすうり」を合言葉に確実な商品を安価で販売した。多くの信用を得て、今日の百貨店高島屋の基礎を築いた。
●塚本定右衛門
<紅屋・2代目1826~1905年>
五個荘商人。神崎郡川並村生まれ。(1851年)26歳で家督を継ぎ、営業方針を「多利僅商」から「薄利広商」へ転換。明治5年(1872年)に東京日本橋に出店し、商店を会社組織に改めるなど近代化を進め、繊維商社ツカモト株式会社の基礎を築きました。また、勝海舟が「氷川清話」でスケールの大きい近江商人として感心した話は有名です。
●市田弥一郎
<市田・初代1843~1906>
五個荘商人。彦根の紙・荒物商の三男に生まれ、13歳頃から商売に従事。その商才を見込まれて神崎郡旭村の市田弥惣右衛門の養嗣子に。はじめ東海道に荒物・呉服類を行商し、一日に10里(40㎞)を旅商するほど敏捷な販売力でした。明治維新の混乱期を飛躍の好機とし、明治7年(1874年)に東京日本橋に京呉服卸問屋を開店し、後の市田株式会社の母体に。晩年は、京都南禅寺に市田對龍山荘を営み、風月や芸術を愛しました。
●藤井彦四郎
<スキー毛糸・1876~1956年>
五個荘商人。北五個荘村宮荘生まれ。明治35年(1902年)に兄4代目善助と呉服・太物を商う藤井西陣店を開く。同40年に絹糸や人造絹糸を扱う藤井糸店となり、兄が政界に出たため社長となる。不況期も「現状維持は退歩なり」をモットーに経営し、五光商会・共同毛糸紡績などの会社をおこし、中国にも進出。
●小林吟右衛門
<丁吟・2代目1800~73年>
湖東商人。愛知郡小田苅村出身。15歳で呉服などの行商を行い、文政11年(1828年)頃より東北地方から紅花を仕入れて染料製造を始める。天保2年(1831年)に江戸に織物問屋丁字屋を開き、のち江戸・大坂・京都で両替商(金融業)を営み、彦根藩両替方御用達に。藩主井伊直弼と親交深く、このため攘夷派浪人に狙われた話が残っています。
●薩摩治兵衛
<丸丁字・1831~1909年>
湖東商人。犬上郡四十九院村の貧農の子に生まれ、9歳で父を失い16歳で丁吟(小林吟右衛門)に丁稚奉公に。奉公中に商人魂を鍛えられ、慶応3年(1867年)に独立し江戸に和洋木綿商丸丁字を開業。明治21年(1888年)に郷里で田畑を買い、その小作料を貧しい農民の救済に当てました。
●伊藤忠兵衛
<丸紅・初代1842~1903年>
湖東商人。犬上郡豊郷村生まれ。安政5年(1858年)に近江麻布の行商をはじめ、馬関・九州地方に地盤を広げる。明治維新の混乱期に社会の動きをよく観察し、明治5年(1872年)大阪に呉服太物店・紅忠を開いた。明治23年(1890年)に対米雑貨輸出を開始し、サンフランシスコに支店を置くなど、後の伊藤忠商事・丸紅の基礎を築きました。









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