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べらぼう第47話「饅頭こわい」の感想です

松平定信は、一橋治済を捕え、治済に瓜二つの能役者・斎藤十郎兵衛を替え玉として据えようと企んでいた
その仇討ち計画は治済に気づかれたが、重三郎は定信に将軍・家斉を巻き込んだ驚きの策を提言する
家斉は、かつての乳母・大崎が残した治済の悪行を記した文に背中を押され、茶室で自らも身代わりになり治済に眠り薬を飲ませ、斎藤十郎兵衛と入れ替え、人知れず阿波の孤島へ幽閉するという、人を殺めない仇討ちを成功させる
その後、定信は耕書堂を初めて訪れ、「(恋川)春町は我が神、蔦屋耕書堂は神々の集うやしろであった。あのことは我がまつりごと、唯一の不覚である。揚がった凧を許し、笑う事ができれば、すべてが違った」と、自らの過ちを認め、重三郎に和解の意を示し江戸を後にする

定信がカッコ良すぎます♪
定信は重三郎の敵方としてこのドラマを支えました
長く見てきた視聴者は、春町を偲ぶこの言葉の重さを実感したと思います
春町が亡くなった回、一室で定信が悲しみと共に自身への怒りを爆発させていたシーンを思い出します
井上祐貴さんの演技も圧巻でした

ドラマでナレーションがあったように定信は史実でも隠居後は和歌を読み、随筆や古宝物図録を残すなど、文化人としても世の中に貢献した人物だと言われています
そんな定信が寛政の改革の風俗統制で芸術文化を一時的に停滞させたことは本当に苦渋の決断だったのではないかと思います
自身の感情よりも合理性を重視した定信らしいエピソードだと思います

定信が現代の政治家だったら、どんな世の中を作ったのか興味が尽きません

#べらぼう
#大河ドラマ
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とりとめのない話し(その63)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その23番外編)

多くの「近江商人」が信仰している「浄土真宗」は、聖徳太子、七高僧、法然、親鸞の絵像が祀られている。「浄土真宗」の開祖である親鸞の夢に出たとされ、聖徳太子が強く信仰されている。

1つ前の投稿で紹介した事件「承元の法難」で、法然の弟子たちが陰茎を切り落とされたように、過去にも生臭坊主は多かった。当時、僧侶がそういう行為をすることを「女犯」とされ、戒律違反で破門とされていた。ましてや人の女房を寝取ることは死罪も同様だ。親鸞も同様の葛藤があり、危うく難を逃れた気分だったかもしれない。過去には、どちらかというと、人よりも欲が強すぎて、欲を捨てるために僧侶になろうという動機で出家することも数多くあったのだろう。最近99歳で亡くなられた瀬戸内寂聴も性欲を捨てきれず、出家して、地位を得ている。織田無道もキャバクラ通いで、有名だった。

僧侶の結婚が正式に認められたは、1872年の明治維新以降である。

親鸞も性欲を捨てきれず、聖徳太子ゆかりの寺院を回ったり、浄土宗の法然に教えを乞うなど、かなり性欲に悩んでいた。子だくさんの聖徳太子が強く信仰され、庶民から深く信仰されていることに矛盾を常に感じ、羨ましかったのかもしれない。性欲を捨てなくて良い理由を聖徳太子の夢のお告げと吹聴してまわり、性欲を捨てずに布教活動しようと開き直った最初の僧侶である。

俗世間には受け、信者を着々と増やしていったイケイケな親鸞の「浄土真宗」は、前途多難な道を歩むことになる。

鎌倉時代、奈良県(大和)の興福寺は、専修念仏を称えた「浄土宗」の法然や師と仰いだ親鸞とその弟子を訴え、後白河上皇に流罪とされ、地方を転々とすることとなった。

室町時代、浄土真宗の中興の祖と言われる蓮如の頃には、比叡山延暦寺に仏敵とみなされ、大谷本願寺が破壊された。

戦国時代、「浄土真宗」も抵抗勢力の大名や寺院に対抗すべく、大坂の石山本願寺で寺領を形成・武装していた。そして、守護大名らと呼応し、織田信長との石山合戦に突入していく。

●親鸞聖人の夢告
親鸞聖人が比叡山での修行に行き詰まりを感じていた際、京都の六角堂(頂法寺)に百日間参籠し、その95日目の夜明けに夢告を受けた。 

夢告の内容 
夢告は、六角堂の本尊である救世観音(如意輪観音)の化身とされる聖徳太子から受けたもの。 
「行者宿報設女犯、我成玉女身被犯、一生之間能荘厳、臨終引導生極楽。」 
「もし修行者が前世からの宿縁によって妻帯(女犯)しなければならない境遇にあるならば、私が玉女(美しい女性)となってその妻となり、一生の間、伴侶としてあなたを支え、臨終には極楽へ導きましょう。」

夢告の意義 
この夢告は、当時の厳しい戒律(特に僧侶の妻帯・肉食の禁止)に悩んでいた親鸞聖人に対し、俗世での生活(妻帯)を肯定し、それでも念仏によって救われるという道を示唆したもの。 

●妻帯の自由化
長年に渡り日本では法律で禁止されている状況が続いたが、明治維新にあたって、国家神道政策の影響もあり、1872年(明治5年)に太政官布告133号が発布されて僧尼令は廃止され、僧侶の肉食妻帯はこの布告をもって自由であるとされた。当時既に浄土真宗以外にも妻帯していた僧は多数存在したといわれるが、これに対しては戒律復興運動などの反対も起こった。

●延命院事件
江戸時代の享和年間に「延命院事件」と呼ばれる江戸中を騒がせる大事件が起こった。
この事件は延命院住職であった日潤の女犯事件であり、相手に大奥の女中が含まれていたため、大奥を巻き込んだスキャンダルとなり、江戸を揺るがせることとなった。日潤は初代尾上菊五郎の子供であったと書かれている本もあり、大変男前であり、話も上手だったと言われている。そのため、女性の信者に大変人気があり、大勢の女性信者が延命院に参詣するようになった。
こうした情報を得た寺社奉行脇坂安董は、取締りを決意するが、大奥も関係していることから安易に動くわけにはいかず、家臣の娘を密偵として延命院に送り込み確かな証拠をつかんでから摘発をした。享和3年(1803年)7月29日に日潤は斬罪となり、関係のあった婦女子などもそれぞれ処罰された。
延命院事件は『観延政命談』として脚色されて小説化されたのち、河竹黙阿弥によって歌舞伎として『日月星享和政談』と題し、明治11年(1878年)東京・新富座で5代目尾上菊五郎の主演で初演された。日潤は歌舞伎では日当となっているため通称「延命院日当」と呼ばれる。
延命院事件に先立つ寛政8年(1796年)8月には吉原遊郭の周囲に検問所を設け、朝帰りの僧侶69人(17歳から60歳)を一斉逮捕し、三日晒の上に寺持ちは遠島、所化は寺から追放という厳しい処分となった。
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べらぼう第43話「裏切りの恋歌」の感想です

老中・松平定信による「寛政の改革」の影響で、かつて華やかだった吉原は活気を失い、女郎たちが暇を持て余すほどになっていた
その頃、幕府では将軍・徳川家斉が定信に「将軍補佐を外れても祭り事を取り仕切るようにできないか」と問いかけ、定信は“より上”の地位を目指し始めるが、一橋治済の策略により、老中を解任され、胸に抱いていた“大老”への野望は崩れ去る
一方、重三郎に女郎絵50枚の制作を依頼された歌麿は、次第に重三郎から軽んじられていると感じ始め、西村屋から面白い提案を受け、重三郎に「これを最後の仕事にする」と告げる
その後、重三郎の妻・ていが早産し、重三郎は妻と子の無事をただ祈るしかなかった

質素倹約を貫いた寛政の改革は、以前は教科書でも三大改革として語られるほど有名であり、このドラマでも重三郎の商いを揺さぶる存在として大きな役割を果たしています
寛政の改革は、庶民の娯楽を奪うように見える一方で、定信は大飢饉から民を救い、農村の困窮者や浪人、貧民への救済にも力を注ぎました
その姿は単なる倹約家ではなく、弱者に寄り添う理想家としても映ります

もう少し柔軟な改革であれば民や側近から受け入れられたかもしれませんが、万人に受け入れられる政治は難しいでしょう
中途半端な妥協を避け、信念を貫いた定信の姿に、政治の厳しさと覚悟を感じました

賛否両論ある寛政の改革ですが、一万円札の肖像となった渋沢栄一も定信を称賛していたようです
その質素倹約の精神は、形を変えて現代の日本社会にも息づいていると感じています

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べらぼう第42回「招かれざる客」の感想です

重三郎の尾張へ出張中に母・つよが亡くなる
葬儀には、髪結の腕の良さと人懐こさを偲び、多くの参列があった
耕書堂は身上半減を乗り越え、「書物問屋」を始める再出発を切る
黄表紙や狂歌集を初め、歌麿が描いた町の看板娘3人、水茶屋の「おきた」、煎餅屋の「おひさ」、吉原の芸者「豊ひな」、が評判を呼び、各店に行列を作るなど江戸の町の活気をもたらした
しかし、高額な茶や煎餅が飛ぶように売れるに伴い、市中の物価が上昇し、老中・松平定信はこれを田沼病の再来と捉え、看板娘の絵に女の名を書き入れることを禁じた
そんな中、重三郎とていの間に子が授かり、
ていは喜びをにじませながら、「この子は母上様(つよ)の生まれ変わりだと信じております」と口にする

重三郎は母の死後、文化人・大田南畝に碑文を依頼したといいます
そこには「母と7歳で別れたが、再会して今の自分がある、これまでの母の苦労に報いたい」という蔦重の感謝の思いが刻まれており、南畝は「寛政の改革の弾圧の中、逆境を乗り越え起業を成した、それは母の教えを大切にして努力した結果であり、既に報いているのではないか」だと述べたようです
この碑文は東京都台東区東浅草の誠向山・正法寺の碑に刻まれているようです

人への心からの感謝を自然に抱ける重三郎だったからこそ、人に認められ、人が集まり、自身と関わる人たちを豊かにできたのだろうと思います

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ℕ𝕒𝕥𝕤𝕦☘

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#日光街道巡り#久伊豆神社
昨年10月から今年3月にかけて、日本橋から日光東照宮まで歩た時の写真を載せています。

武蔵国 越谷郷 久伊豆神社(ひさいずじんじゃ)は、埼玉県越谷市越ヶ谷にある総鎮守の神社です。

創建は鎌倉時代とされ、元荒川流域一帯に分布する久伊豆神社の中でも代表的な存在で、徳川家とゆかりがあり、特別に葵紋の使用が許可されています。

祭神は、大国主命、言代主命 です。

本殿は寛政元年(1789年)建立で、令和6年には本殿・神楽殿・手水舎が国登録有形文化財に答申されました。

個人的には、本殿後ろの摂末社のエリアの雰囲気が好きです。

参拝当日は、タイミングがよく、朝のお務めで、大祓詞の奏上がされており、聞こえてきました✨
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寛政の改革の頃、
田沼の積極財政を否定して、緊縮財政をしていた、と、僕は思っている。
それは、武士の社会をぶっ壊すと、大混乱になるから。
実際、西南戦争まで国内で殺し合ってたと思う。
それも1877と、割と最近じゃない?今生きてるなら148歳。

みんなの価値観は、日本人は守られなければならない、と考えていると思う。
でもその考え方、ぶっ壊さないと、日本という国が成り立たなくなると思う。
どこで生まれたから何人とか、あんまり意味がない時代になっていく、そんな気がする。

和を以て貴しと成す、
兵どもが夢の跡、

世界がやってきたスカラーの様なパワー競争は、ベクトルとなり、それは、自分の在り方へと帰属して行くのか…

国単位と言うより、個々になって行く時代になると、分かったからといって、今日も一生懸命働いて、株を買うくらいしかできないけど。
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マミ

マミ

田中たなか久重ひさしげ
1799年10月16日
旧暦:寛政11年9月18日
発明家
田中製造所創業者
(現:東芝)の誕生日🎉
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べらぼう第39回「白河の清きに住みかね身上半減」の感想です

重三郎は、地本問屋の株仲間を設立し、山東京伝の三作品を「教訓読本」として出版する
しかし、老中・松平定信による寛政の改革は倹約令や風俗取締が厳しく、重三郎の出版物は風紀を乱すものとされ、絶版命令が下される
重三郎と京伝は牢屋敷に連行され、幕府から処分を受けることになる
妻・ていの必死の嘆願もあり、結果として重三郎は「身上半減」という処分にとどまり、極刑は免れる

重三郎の身上半減や京伝の「手錠50日間」は史実とのこと、ただ、蔦屋耕書堂の畳や看板が半分没収される描写はフィクションのようです(とても面白いな演出だと思いました)

重三郎が出版した本には″女郎をただの色物ではなく、敬意をもって描いた要素″を含んでおり、尊ぶことが“江戸の教養”と女郎を敬っていたのではないかと思います

現代でも、作家や漫画家、映画監督といった表現者たちは、自身の信念や社会への問いを作品に込め、物語という形で私たちに伝えてくれます
言葉だけでは伝えきれない想いや価値観を、わたしたちはストーリーを通して体験することで、より深くその意味を感じることができます

重三郎は、現代における表現の礎を築いた人と言えるでしょう

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