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ネジバナ

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ドラえもんをAudibleで聴いて感じたことメモ。
アマプラで映画も見たことある。
ネタバレ含む。

『小説 映画ドラえもん のび太と空の理想郷 小学館ジュニア文庫』
ストーリー:のび太たちの出会った理想郷の正体とは。誰でもパーフェクト小学生になれる?


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まただいぶ攻めてるお題目だなぁと思った。

"いい子"は"聞き分けのいい子"?
"いい子"は"都合のいい子"?
"いい子"は"無個性"?

個性ってなんだろうね。

"パラダピアンライト"は愛情の暗喩的なものかな。
子に向ける愛情ゆえの期待と支配、それに応えたいという愛情ゆえの諦めと自制。

個性尊重時代になって久しいけれど、個性迷子たちは"いい子"の選択肢も奪われてしまうと途方に暮れてしまいそうだよ。
自分自身の形を自覚できるタイミングってそれこそ千差万別だから、"あなたの個性を大事にして伸ばしましょう"みたいなのはスタート地点で躓いちゃう子もいるんじゃないかな。
自分の良いところ探しは難しい。いやおそらくはとても簡単なことなんだけど、土壌が必要なんだよ。
(積み木の三段目に一つの到達点があるとして、一段目や二2段目をずっと横に伸ばして積んでいく人もいれば、まっすぐ三段積む人もいる)

そして様式美のようにエピローグでジャイアンとスネ夫がのび太をからかう。
「よーし!すっきりしたところで、みんな野球やろうぜ!」
「いいね!のび太、足引っ張るなよ」
「エラーしたらただじゃおかないからな!」

野球が下手なのび太をいつまでもメンツに加えるジャイアンやスネ夫も、野球でエラーして殴られても何度でも野球に参加する(逃げてはいるけれど)のび太も、実はおかしい。
私の感覚ではどちらかが見放すし、卑屈になるし、自信喪失する。

どうしたらそんな関係性が築けたんだろう⋯⋯と、大人になった私は思ってしまうのだった。晴れやかなエピローグの最中に。

#Audible
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塩分

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子どもの権利条約は日本で本当に機能しているのか

2025年12月、日本は子どもの権利条約を批准してから31年目を迎えた。

政府は「こども基本法の制定」「留保の完全撤回」「こども家庭庁の設置」を成果として掲げる。だが、冷静に数字と現実を見れば、条約は日本の土壌に根を張ったとは到底言えない。

まず、体罰の全面禁止が未だに実現していない。世界で体罰を合法的に残している国は50か国を切ったが、日本はその中に名を連ねている。児童虐待の相談対応件数は21万件を超え、過去最高を更新し続けている。法律が「しつけの範囲」を曖昧に残している以上、条約第19条は形骸化している。

次に、子どもの意見表明権はほぼ死文化している。いじめ重大事態の調査委員会に子どもが参加した例は全国でほぼゼロ。児童相談所の面接でも「子どもの意見は参考程度」と明記されている運用指針が現存する。条約第12条は、現場では「聞くふり」で終わっている。教育現場では過剰な校則が横行し、不登校は34万人を超えた。

「ツーブロック禁止」「下着の色指定」といった規則は、子どもの尊厳を日常的に踏みにじっている。文部科学省は「見直しを促す」と繰り返すが、強制力はない。条約第28条・29条が保障する「人格の完成を目指す教育」は、どこまで行っても掛け声に終わる。認知度の問題はさらに根深い。

日本ユニセフ協会の最新調査では、条約の存在を知る成人は4割、子どもは2割にすぎない。北欧諸国では9割を超えるのと比べると、31年経っても「知られていない条約」なのである。政府は「予算を増やし、組織を新設し、報告書を丁寧に提出している。

しかし、肝心の現場は変わらない。児童福祉司1人あたり平均150件以上の案件を抱え、子どもシェルターは全国で50か所しかない。予算が増えても、肝心の「実行力」が伴わないのは、もはや構造的な病巒である。条約を批准した国が守らなければ、国際社会での発言力は失われる。

日本は国連安保理改革を訴え、人権理事会で積極姿勢を示すが、自国の子どもに対する人権記録は先進国中最下位グループに沈んでいる。この矛盾をいつまで放置するのか。結論を言おう。

子どもの権利条約は日本で「批准はしたものの、実行していない条約」になっている。

綺麗事はもう十分だ。体罰禁止法を制定し、子どもの声を政策に直接反映する仕組みを作り、予算と人員を抜本的に増やさなければ、条約はただの紙切れにすぎない。31年目の今年こそ、批准した責任を本気で果たすときである。

それとも、この国連に「批准はしたが守る気はありません」と正直に告げるか。どちらかを選ぶべきだ。曖昧な中途半端を続けるのは、もう許されない。
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蘇我霊幻道師准尉

蘇我霊幻道師准尉

情報社会は人間の悪なのか?情報社会は人間の悪なのか?

回答数 26>>

悪な訳が無いんだよ。
ただ「無駄」な情報が人を狂わせ、それを助長する為の「詭弁」が育つ土壌ではあるんだよね。助かる情報も有るが「分別」する知性は各家庭でバラツキがある訳だ。「情報社会」は悪では無いんだよ、ミスター。
哲学哲学
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ゴトー(と🐱)

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将棋の福間香奈女流六冠が、「妊娠・出産」に関するタイトル戦の規定の変更を求めて、日本将棋連盟に要望書を送りました。

日本将棋連盟では今年4月、タイトル戦に臨む女流棋士が妊娠した場合、対局の日程が出産予定日から数えて「産前6週から産後8週まで」の期間と1日でも重なれば、日程変更には応じず、その女流棋士はタイトル戦に出場できない、という規定を施行しています。福間氏の要望は、この規定が「棋士としてのキャリア構築を妨げる過剰な介入である」と感じている、という訴えだと要約できます。

確かに、将棋界に限らず一般的に考えれば、こうした大会や仕事への参加・不参加の判断は、医師の判断と本人の意思に委ねられるのが通常でしょう。主催者側が、妊娠・出産を理由に一律で参加を禁止するような規定を設ける例は、あまり多くありません。にもかかわらず、日本将棋連盟は「あえて」この規定を設けました。その意図はどこにあったのでしょうか。私はまず、そこを考えてみることが出発点であると思い、そこから調べてみました。

そして報道などを手がかりに背景を見ていくと、この規定が生まれた土壌として、女流棋士を取り巻く現在の生活実態の特殊さが浮かび上がってきました。現在の女流棋士の多くは、収入が決して安定しているとは言えず、スポンサー、タイトル、防衛、評価といった外部的な圧力が極めて強い構造の中に置かれており、そのため本来であれば休むべき状況であっても、無理をして対局に臨んでしまいかねない、という危うさをはらんだ現実があるようです。日本将棋連盟がこの規定を設けたのは、そうした構造の中で女流棋士が「自分の意思だけでは休めない」状況に追い込まれることを防ぐための、安全対策としての“盾”的な配慮であった、という見方も成り立つのではないか、と考えました。実際、この規定によって守られる女流棋士が少なからず存在することも、想像に難くありません。

一方で、福間氏のように、それは自らのキャリア形成に対する過剰な干渉だと感じる人が出てくるのも、また自然なことだと思います。では、各棋士が自由に選択できるようにすればよいのでしょうか。いいえ、それでは問題は解決しません。「出場できるなら、出るべきだ」という新たな圧力が必ず生まれます。それは結局、別の形で無理を強いる構造を温存することになり、盾としての意味を失ってしまいます。それでは意味がありません。

この問題は、「個人の自由」と「構造的な弱さから守るための制度的な保護」を、どこでどうバランスさせるのか、という非常に難しい問いを私たちに突きつけています。どちらかを完全に否定すれば、必ず誰かが傷つく。そうした性質の問題なのだと思います。このジレンマは、どうすれば解決できるのか。本当に、簡単には答えの出ない問題だと感じました。
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