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大文字屋市兵衛(二代目)←わらた
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とりとめのない話し(その54)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その14)

幕末に京都と盛岡の交易で財を成した「小野組」は明治維新の変革期に「三井組」と「小野組」の共同出資で、渋沢栄一らが三井小野組合銀行を設立し、その後に銀行法による初の第一国立銀行が設立されたが、明治維新の新政府による官全抵当増額令による預かり金全額の担保を提出出来ず、「島田組」とともに破綻した。
「小野組」の番頭であった古河市兵衛は倒産した「小野組」の資産や資材を提供することで第一銀行の連鎖倒産を防いだことで、渋沢栄一の信頼を得、古河財閥と言われるまでに登りつめた。第二次世界大戦後、財閥はGHQに解体されたが、現在は古河山水会として、グループを形成している。主な企業は、古河電工、富士通、朝日生命保険、みずほ銀行など。

●古河 市兵衛
1832年 - 1903年(明治36年)明治期の日本の実業家で、古河財閥の創業者。京都出身。幼名は木村巳之助、幸助。陸奥宗光の二男の潤吉を養子とした。従五位。生家の木村氏は京都岡崎で代々庄屋を務めたが、父の代には没落しており、巳之助は幼少の頃から豆腐を売り歩く貧乏暮らしで苦労を重ねた。継母が病に倒れた際、盛岡南部藩で高利貸しを営んでいた母方の叔父が見舞いに訪れ、その際、その親族のもとで修行をすることを希望し、1849年盛岡に向かう。盛岡では叔父のもとで貸金の取立てを手伝う。やがて南部藩御用商人の鴻池屋伊助店(草間直方が旧名時代に起こした店)に勤めるが、まもなく倒産する。その後、1857年叔父の口利きで京都小野組の番頭だった古河太郎左衛門の養子となり、翌年には古河市兵衛と改名した。太郎左衛門は、京都にある小野組の生糸買付を担っていたが、病気で倒れると、代わりに市兵衛が小野組の使用人になり、生糸輸出・米穀取引・蚕糸などの取引で活躍。幕末期において三井組(のち三井財閥)と並ぶ有力な番頭になった。

明治維新期の時流にも乗り、東北地方の生糸を横浜に送り巨利を挙げるなどの成功を収めるが、明治新政府の公金取り扱い業務の政策変更の結果、小野組は壊滅的な打撃を蒙り、市兵衛は再び挫折を味わうことになる。しかしその際、政府からの引き上げ金の減額などを頼みに陸奥宗光のもとへ談判に行き、これが縁でのちに宗光の次男を養子に貰った。また、小野組と取引があった渋沢栄一の経営による第一銀行に対し、市兵衛は倒産した小野組の資産や資材を提供することで第一銀行の連鎖倒産を防ぎ、渋沢という有力な協力者を得ることに成功した。

1872年(明治4年/明治5年)には鉱山事業家・岡田平蔵と提携し、秋田県下の鉱山経営を行なったが、2年後に岡田が死去。鉱山経営は小野組が引き継ぐことになるが、1874年(明治7年)に破綻。翌1875年(明治8年)に独立し、鉱山事業に自ら取り組むことになった。これが古河財閥の始まりであり、今日の古河機械金属の前身である。

小野組破綻後、市兵衛は独立して事業を行うことにした。まず手始めに秋田県にある当時官営であった有力鉱山、阿仁鉱山と院内鉱山の払い下げを求めたが、これは却下された。続いて新潟県の草倉鉱山の入手を企て、渋沢から融資の内諾を得るものの、やはりこれも最初は政府の許可が得られなかった。しかし市兵衛は小野組時代から縁があった旧中村藩主相馬家を名義人に立て、市兵衛が下請けとして鉱山経営を行う条件で、明治8年(1875年)に政府から草倉鉱山の払い下げを受けることに成功した。草倉鉱山の経営は順調で、明治10年(1877年)には市兵衛は鉱山業に専念する決意を固め、いよいよ足尾銅山を買収することになる(現在の古河機械金属)。同年、市兵衛は草倉鉱山と同じく相馬家を買い取り名義人として立てて足尾銅山を買収した。相馬家では家令であった志賀直道(志賀直哉の祖父)が市兵衛の共同経営者となり、のち渋沢も共同出費者として名を連ねた。当時の足尾銅山は江戸時代を通じて無計画に採掘が行われた結果、旧坑ばかりの生産性が極めて低い状態にあり、長年採掘が続けられていたことなどから再生の可能性は低いと判断されていた。そのため一時官営化されていたものの、市兵衛の経営権取得時にはお雇い外国人であったゴットフリイの調査結果に基づき民間に払い下げられていた状態であった。しかし市兵衛は足尾銅山不振の真の原因は旧態依然たる経営状態の中で計画的な探鉱、採掘が行われていないことにあると見抜き、足尾銅山の経営に乗り出した。しかし市兵衛が足尾銅山の経営に乗り出した当初は、経営にならない状況が続いた。まず当時の足尾銅山で採掘の現場を仕切っていた山師集団の強い反発に遭い、経営権を入手したものの、市兵衛が実際に足尾銅山の経営を行えるようになったのは約半年後のことであった。続いて山師集団の反発を抑え、足尾銅山の再建に取り掛かったが、約4年間も成果が挙がらない状況が続いた。現場責任者の坑長も立て続けに3人交代し、4人目のなり手が現れなかった。明治13年(1880年)、市兵衛は4人目の坑長として当時まだ20歳代の半ばであった甥の木村長兵衛を抜擢、そして翌明治14年(1881年)、木村坑長のもとで待望の大鉱脈を掘り当てた。その後、足尾銅山では立て続けに大鉱脈が発見され、銅の生産高は急上昇し、大銅山へと発展した。古河財閥は足尾銅山発展の中で形成されていった。しかし鉱山の急発展の中、日本の公害問題の原点とも言える鉱毒問題が発生していくことになる。鉱山経営を進める一方で、銅山を中心とした経営の多角化にも着手する。明治17年(1884年)には、精銅品質向上による輸出拡大と、銅加工品の生産による国内市場開拓を目指して本所溶銅所を開設した。この事業は後の古河電気工業へと発展した。

市兵衛がビジネスの基本を学んだ小野組は元は近江商人で、陸羽地方の物産を京都・大阪の物産と交易していた。後に事業を拡大し、明治維新の当時は三井組、島田組と並ぶ大金融業者であった。1868年(明治元年)、小野組は三井組、島田組と共に政府の為替方を命ぜられ、新政府の租税の収納・送付を取り扱った。小野組は、更に生糸貿易、製糸・鉱山・米相場・油相場などへも進出し、第一国立銀行(現・みずほFG)を三井組と共に出資設立するに至った。しかし、事業拡大に伴う放漫経営と大蔵省為替方としての任務懈怠が主因で大蔵省より閉店処分を受け、1874年(明治7年)に破綻。小野組の事業資金は、第一国立銀行からの借入で賄っていたから、第一国立銀行も共倒れする可能性があった(同行の貸出金総額約300万円のうち、約140万円が小野組に貸し出されていた)。
そこで、第一国立銀行総監役(頭取)の渋沢栄一は、面識のあった市兵衛に善処を依頼。市兵衛はこれに応じ、市兵衛と小野組の所有する株式や鉱山やその建造物などの十分な担保を提供し、第一国立銀行の損失を2万円弱にとどめた。しかしその結果、市兵衛は裸一貫となって小野組を去ることになる。渋沢栄一はこの時の市兵衛の行動に感謝し、以来、親密な関係となった。現在、澁澤倉庫が古河グループに属しているのには、このような経緯もある。

●足尾銅山
市兵衛は、第一国立銀行頭取・渋沢栄一の資金援助を得て独立。草倉銅山・幸生銅山・永松銅山・足尾銅山の経営に乗り出し、1882年(明治15年)に足尾銅山において大鉱脈を掘り当て、そこからの増大する産銅をマジソン商会との有利な販売契約を締結することに成功し、多大な利益を上げた。更に、市兵衛は足尾銅山の開発と並行して、その他の金山・銀山・銅山の経営にも積極的に乗り出し、特に阿仁鉱山・院内鉱山を工部省より譲り受け大胆な合理化と技術的改良を行ない、成功を収めた。その結果、1883年(明治16年)には古河の産銅量は日本一となり、1907年(明治40年)までその地位を守り続け、銀の生産量において大きな比率を占めるに至った。
市兵衛が阿仁鉱山・院内鉱山から得た物は、豊富な銅や銀だけでなく、工部省管轄の官営鉱山であり、当時としては最新鋭の外国製機械・設備と共に、高度に教育された技術者を確保し、これらの技術者が後に古河系各鉱山を運営し、経営幹部に育った。例えば、後に古河鉱業会社(現・古河機械金属)の理事長となる近藤陸三郎は、工部大学校(現・東京大学工学部)を卒業後、阿仁鉱山で技術者だった。
1890年(明治23年)に日本初の水力発電所を足尾に建設し、鉱山経営の電力利用による技術革新(イノベーション)を行なった。次に、大通洞開削により、採鉱・排水・運搬の統一的操業による総合化を達成し、製錬について日本初のベッセマ式転炉を採用した。
一方、このような一連の鉱山や鉱山関連事業の発展の陰の部分ともいえる足尾鉱毒事件で知られる公害問題に対しても、真摯な対応による善処を尽くしたのち、1903年(明治36年)に病没した。その間に、後の古河グループの発展の元となる確固とした資本の蓄積が行なわれた。

●市兵衛の個人事業から古河鉱業への発展
市兵衛は、1875年(明治8年)は家業と事業が未分離な「古河本店」(現・古河機械金属)という組織で発足したが、1897年(明治30年)、2代目当主の古河潤吉の強い主張に基づき、家業と事業を分離し、古河本店を「古河鉱業事務所」と改め、更に市兵衛が亡くなった後、1905年(明治38年)に古河鉱業事務所を合名組織として「古河鉱業会社」(現・古河機械金属)が設立され、古河潤吉が社長となり、他の社員は古河虎之助・吉村萬治郎・原敬・木村長七であった。
古河潤吉は陸奥宗光(のち外務大臣)の次男で、宗光が小野組糸店時代の古河市兵衛の人柄に感服し養嗣子とする約束をし、古河家に入った。古河虎之助は市兵衛の実子長男であり、原敬(のち総理大臣)は陸奥宗光に才幹を認められ、外務次官や逓信大臣を歴任した政界の重鎮であるが、古河潤吉の要請を受けて新会社に参加した。木村長七は市兵衛の小野組時代からの部下であった。

●古河財閥の形成
合名組織に改組後の古河鉱業会社は、日露戦争(1904年(明治37年) - 1905年(明治38年))後の世界的な銅ブームに乗って好調に業績は推移し、足尾銅山での相次ぐ富鉱脈の発見もあり、日露戦争後の恐慌(1907年(明治40年))にもかかわらず着実な歩みを続け、1911年(明治44年)に商法の改正に伴い「古河合名会社」(現・古河機械金属)に改称した。この間、古河潤吉の病没(1905年(明治38年))の後、3代目当主の古河虎之助が社長となった。日露戦争後に発展したのは、山口喜三郎が中心になって進めていた鉱業から工業への事業展開であった。1906年(明治39年)、細尾発電所の竣工により日光電気精銅所(初代所長・山口喜三郎)(現・古河電気工業)において電気精銅を開始し、精銅・伸銅・製線の一貫生産体制が整った。
この頃から古河は、関連事業部門への積極的な投資を始めた。1908年(明治41年)に横浜電線製造(現・古河電気工業)を関連会社化(52%資本参加)し、日本電線(現・三菱電線工業)にも経営参加した。
1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦は、日本に空前の好況をもたらし、重化学工業の形成・貿易の増大・企業規模の拡大が行なわれた。古河の諸事業もこの大戦ブームを受けて規模を拡大し、それに伴う資金需要の増大に対処するために持株会社を設立し「古河財閥」(コンツェルン)を形成した。その手法は、1917年(大正6年)11月に古河合名会社を「合名会社古河鉱業会社」(現・古河機械金属)に改称し、営業部門を古河商事(のち破綻)として分離・独立させ、他に新しく持株会社として「古河合名会社」(現・古河機械金属)を設立するという「3社分立」によった。
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とりとめのない話し(その55)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その15)

近江商人「小野組」から派生した「古河財閥」は1946年に財閥解体となったが、1954年に古河山水会として、グループを再形成している。古河市兵衛は渋沢栄一と関係が深く、グループへの円滑な融資等を目的として、渋沢栄一創立の第一国立銀行(現・みずほ銀行)が合流しており、また渋沢倉庫なども合流している。

●古河財閥
古河市兵衛が設立した財閥。十五大財閥の1つ。
古河財閥の源流は、1875年(明治8年)に創立された古河本店(現・古河機械金属)にさかのぼり、足尾銅山における鉱山開発事業の成功を経て事業の多角化・近代化を強力に推進、一大コンツェルンを形成した。しかし、第二次世界大戦敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により解体された(財閥解体)。戦後は古河グループ(古河三水会)を称し、金属・電機・化学工業などを中心とした企業集団を形成、現在に至る。
古河財閥の主要な傘下企業は以下の通り。古河鉱業(現・古河機械金属)、古河電気工業、富士電機製造(現・富士電機)、富士通信機製造(現・富士通)、横濱護謨製造(現・横浜ゴム)、旭電化工業(現・ADEKA)、日本軽金属、帝国生命保険(現・朝日生命保険)、古河銀行(現・みずほ銀行)、大成火災海上保険(現・損害保険ジャパン)、古河商事(破綻)、日本農薬、関東電化工業、東亜ペイント(現・トウペ)、大日電線、日本電線(後の大日日本電線、現・三菱電線工業)など。また、戦後に設立された主要な古河系企業として日本ゼオン、富士通ファナック(現・ファナック)、UACJ(旧・古河スカイ)、古河電池などが挙げられる。

●古河財閥の確立
 旧・古河合名会社の3社分立に先立ち1917年(大正6年)6月に、古河の諸事業の拡大に伴い増大する資金需要の解決を図るために、東京古河銀行(1921年(大正10年)に古河銀行と改称、現・みずほ銀行)が設立された。このことは、企業集団(古河財閥)が拡大発展するためには、古河家創業後の資本の蓄積と鉱山からの収益のみでは不十分で、企業集団以外の一般公衆資本の調達が必要なことを如実に示している。
古河商事の設立は、第一次世界大戦の軍事特需による古河の諸事業の発展と取扱商品の多様化に伴い、古河合名会社の営業部という組織では対処できず、営業部門を分離・独立させたことによる。古河商事設立後、従来からの銅・電線・石炭に、鉄・鉛・亜鉛・錫が加わり、更に雑貨類にまで拡大された。この雑貨類のうち、大連出張所で取引が開始された大豆・豆粕の扱いに将来の問題の種が宿されていた。
3社分立により設立された合名会社古河鉱業会社から鉱山・金属加工部門を引き継いだ古河鉱業株式会社(現・古河機械金属)が設立された。古河鉱業株式会社が設立された後の合名会社古河鉱業会社は、1929年(昭和4年)に合名会社古河林業部を経て、現在の古河林業につながっている。
これら直系の古河鉱業・古河銀行・古河商事、横浜電線製造などの傍系会社を全て株式会社化し、持株会社である古河合名会社は、株式会社には転換せず合名会社として、傘下の株式会社化した子会社群を持株により統括支配する財閥体制が確立した。また、今日の古河グループにおいても、グループ各社同士が互いに株式を相互保有している。その中心的な存在が、戦後の財閥解体以降に古河グループの持株会社的機能(戦前の古河合名会社の役割)を引き継いだ古河機械金属である。

●古河商事の破綻
第一次世界大戦期の軍事特需の中で、古河商事は従来の取扱品を拡大し、朝鮮・台湾はもとより欧米まで販売網を展開していたが、1920年(大正9年)の反動恐慌に見舞われ、商品価格の下落により大きな損害を被った。その上、大連出張所での満洲特産品(大豆・豆粕・粟・高粱など)に絡む投機的な取引により多大な損失を被り、古河商事のみならず、古河銀行、ひいては古河財閥全体を大きく揺るがすことになった(いわゆる大連事件)。日本電線、日本電線製造(のち大日電線)の古河財閥からの離脱もその一例である。
また、この大連事件で、古河の神戸船舶事務所が大幅な縮小を迫られたことは、後の古河財閥に大きな影響を与えた。というのは、第一次世界大戦後の海運ブームに際し、古河合名会社が山下汽船から譲り受けた3000トンの貨物船2隻、アメリカから輸入した8000トンの新造貨物船、更に新造船3825トン貨物船を合わせた社船隻と、そのほか傭船十数隻を擁し、主に古河関係の輸出入品を取り扱い、帰り荷には他社の貨物も積載して、アジア地域のみでなくスエズ・欧米の航路においても活躍していたが、大連事件と不況の煽りを受けて社船を転売、事務所を縮小した。
古河商事の蹉跌がなければ、古河財閥は鉱業・製造業・流通業(商社・海運)・金融業の4分野の全てに展開した総合財閥になれたものと考えられる。古河商事そのものは、1921年(大正10年)にわずか4年間の経営活動の後、古河鉱業(現・古河機械金属)に吸収合併され消滅した。

●古河銀行の破綻
東京古河銀行(1922年(大正11年)に古河銀行と改称、現・みずほFG)は1917年(大正6年)に設立され、第一次世界大戦特需と古河財閥傘下企業の好調な発展に支えられ、預金・貸出ともに急成長したが、その時に発生したのが古河商事の大連事件であり、また、深刻な第一次世界大戦後の反動恐慌であった。
大連事件の一時的な善後処理は乗り切ったが、その後、預金の大幅減少が続き、これも第一銀行(のち第一勧業銀行、現・みずほFG)の援助を受けながら凌いだ。そして、恐慌沈静後は預金が増勢に転じ、関東大震災の発生後も順調に回復した。
しかし、その後、関東大震災に伴う震災手形処理問題の難航から、鈴木商店の破綻に代表される全国の銀行を巻き込んだ1927年(昭和2年)の金融恐慌が発生し、引き続いて1929年(昭和4年)の世界恐慌とそれに基づく翌年からの昭和恐慌に直面した。
そして、銀行業務と支店の移管について第一銀行と東京貯蓄銀行(のち協和銀行、現・りそなHD)との合意を得て、1931年(昭和6年)に大蔵大臣に解散認可願を提出し、認可された。

●第一銀行(現・みずほFG)と古河グループ
古河グループ(古河三水会、旧・古河財閥)は、銀行系列としては第一銀行(のち第一勧業銀行、現・みずほFG)系列に所属する。古河グループと第一銀行の関係の歴史を振り返ると、以下のように要約できる。
第一銀行の前身である第一国立銀行(小野組と三井組との共同出資で設立された)は1873年(明治6年)に日本初の銀行として創立され、1875年(明治8年)に渋沢栄一が頭取に就任し、官金出納のほか一般銀行業務を取り扱った。1874年(明治7年)、小野組の破綻により第一国立銀行は経営危機に直面したが、前述のように小野組で商事部門を担当していた古河市兵衛が進んで抵当物件を提供するなどの誠実な態度によって、その危機を回避することができた。それ以降、渋沢栄一は古河市兵衛との強い信頼関係を保ち、1875年(明治8年)に市兵衛がほとんど無一文で鉱山事業に取り組む際には、第一国立銀行から資金援助を惜しまず、更に足尾銅山の事業の経営に関し、自ら参加するまでになった。
また、第一銀行は、1896年(明治29年)から始まる足尾銅山の鉱毒予防工事に際して、古河鉱業(現・古河機械金属)に巨額の工事費用を提供した。更に、1917年(大正6年)創立の古河銀行が、古河商事の破綻や金融恐慌の影響を受けて苦境にあった折に、同行業務と支店・従業員を引き継ぐなどの支援協力を行なった。このような緊密な関係はその後も(第二次世界大戦の敗戦に伴う財閥解体後も)一貫し、古河グループ各社と第一銀行は幾多の試練を相互に援助しながら乗り越えて、互恵的パートナーシップ関係を維持し、今日に至っている。第一銀行は1971年(昭和46年)に日本勧業銀行と合併して第一勧業銀行となり、2002年(平成14年)には第一勧業銀行・日本興業銀行・富士銀行が合併しみずほFGが設立され、その傘下のみずほコーポレート銀行(後のみずほ銀行)となったが、古河三水会の理事会社として古河グループ各社の事業に深い理解と協力を提供している。

●財閥解体と古河三水会の発足
第二次世界大戦の敗北に伴う連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策である「経済民主化政策」の3大柱は、農地改革、労働改革、そして財閥解体であった。1945年(昭和20年)に、古河鉱業(現・古河機械金属)、古河電気工業、旭電化工業(現・ADEKA)が指定会社(制限会社)となり、1946年(昭和21年)に発足した持株会社整理委員会によって古河財閥の解体作業が開始された。
GHQによる財閥の解体は、「持株会社の解体」「財閥家族の企業支配力の排除」「株式所有の分散化」の3つの柱からなっていた。持株会社の解体に関しては、古河鉱業と古河電気工業が持株会社の指定を受けたが、純粋持株会社ではなかった(事業持株会社であった)ために解散されることなく、持株会社整理委員会に有価証券を譲渡し、子会社との資本関係を解消した上で、企業再建整備法による再建の道を進み、1950年(昭和25年)に古河鉱業と古河電気工業は共に制限会社の指定を解除された。旭電化工業は、企業再建整備計画の認可条件を満たした1949年(昭和24年)に制限会社の指定を解除された。
財閥家族の企業支配力の排除については、古河従純(古河4代目当主、元・古河鉱業社長)と中川末吉(元・古河電気工業社長)が指定され、両者の所有有価証券は持株会社整理委員会に譲渡された。また、被指定者は会社役員への就任の制限措置がとられた。
株式所有の分散化については、持株会社整理委員会が譲り受けた株式を1947年(昭和22年)に設置された証券処理調整協議会を通じて公衆(会社従業員を含む)に売却することによって行なわれた。
古河財閥は、上記の財閥解体処分により、集中排除・企業再建整備の試練を経て、それぞれ独立の企業として再出発した。しかし、同じ古河財閥の一員として成長・発展してきた同系企業相互の関係は、単に資本的・人的関係が断たれただけで崩れることはなかった。特に古河財閥の場合は、非鉄金属・電機エレクトロニクス・化学などの事業会社が中心となって原料・製品面での関連が強く、それぞれが完全独立会社となってからも協力関係が維持された。その端的な例として、1950年(昭和25年)の日本ゼオンの創立に当たって、古河電気工業・横浜ゴム・日本軽金属の旧・古河財閥(戦後は古河グループと称す)3社の緊密な協力が行なわれたことにも示されている。
古河グループの再結集の梃子の役割を果たしたのは、第一銀行(現・みずほ銀行)による融資系列の形成であった。その基本的機能は、株式の相互持ち合いによる株主安定化である(その中心的役割を果たしているのは古河財閥の源流企業・古河機械金属である)。1954年(昭和29年)に、古河グループに所属する会員相互の親睦・情報交換・協力・共同事業を行なう任意団体として、古河三水会が設立された。

●古河三水会
理事会社は10社で、構成会員は理事会社の主要な子会社・関連会社などから成っている。
理事会社10社は、古河機械金属・古河電気工業・富士電機・富士通・横浜ゴム・ADEKA・日本軽金属・日本ゼオン・朝日生命保険・みずほコーポレート銀行で、特に古河機金・古河電工・富士電機・富士通の4社が中核理事会社である。また、古河三水会という名称は、毎月第三水曜日に古河グループの社長会が開催されることにちなむ。グループ会社数は550社、グループ従業員数は約27万人、グループメッセージは「未来をひらく 古河グループ」、事務局は東京・丸の内の丸の内仲通りビル。
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としゆき

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key作品での推しキャラを教えて!key作品での推しキャラを教えて!

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1人目は古河秋生こと、通称オッサン!!
齢40でこのルックスと持ち前のユーモアセンスがあるんやから反則やわ…
あ、もちろんこれから女性キャラも挙げるから安心してください、グリーン(ユーザー名は伏せてます)さん🙏‼️
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ひろ

ひろ

2025.12.06 旧古河庭園
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ボロ

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この間古河駅前のお祭りに行った!
あれは何祭りだったんだろう?
茨城県の惑星茨城県の惑星
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かつみ

かつみ

年末、小田原旅行の事前勉強
YouTubeでしてます

北条氏政くんが
うちの家康くんに

あんたが
早く降参しないから
切腹になっちゃった
じゃんかーと
言われているシーン

だよねーと言いながら
遠くを見て、黄昏てます氏政🌇

北条は
伊勢宗瑞から始まる
おウチ

伊勢宗瑞を遡れば
平貞盛に繋がるのね

平貞盛が平将門をやっつけて
もう関東には居られないわーと
伊勢に行って
伊勢平氏となった。

その平氏が地元の伊勢という地名を
取って
伊勢氏ができる

伊勢宗瑞は
室町幕府に取り立てられてたけど

室町幕府が傾いたから
幕府を見限って
関東を切り取ろうと
流れてきた男
それが伊勢宗瑞

古河公方
関東管領
をぶっ倒して
関東を切り取った

なかなかの
おウチだわ⚔️

小田原に行ったら
小田原城の総構えと

石垣山一夜城見たい[笑う]

石垣山一夜城を秀吉が作って
小田原城が真上から見えるようになり
万事休す
後北条の終わりとなります
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ℕ𝕒𝕥𝕤𝕦☘

ℕ𝕒𝕥𝕤𝕦☘

先日茨城県の観光・参拝で古河に行ったときに、たまたまお店で買ったのですが、美味しかった[大笑い]とくに炭酸で割ると…
今度は これを買う目的で、古河に行こうかな笑
1人時間を楽しむ星1人時間を楽しむ星
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ひろ

ひろ

2025.12.06 旧古河庭園

少しいびつかもしれないけれど
好きな色味だった
花の星花の星
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ひろ

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