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マサヤス   龍之介

マサヤス 龍之介

Uber Jazz ♯ 29

 ☆『ウィスコンシンから来た男』
 
今回からはスイング時代の白人名ペッターバニーベリガンの女性シンガーの歌声を紹介してゆく。バニーは1908年(明治41年)11月2日にアメリカ・ウィスコンシン州カルメットタウン、ヒルバートに生まれた。私の祖父と同い年だ❤️13歳でメリルオウエンのベニシージャズバンドで演奏していた。やがてローカルバンドを渡り歩き腕を磨いてウィスコンシン州立大学のカレッジバンドから州立大学生では無かったにも関わらず、招かれて花形ペッターとしてその名を轟かせたと云う。 
 1920年代には世界初のジャズレコードを吹き込んだODJB=オリジナルディキシーランドジャズバンドのライバルバンド、NORK=ニューオーリンズリズムキングスのステージに飛び入り演奏した経験もある。1928年、ダンスバンドとして有名なハルケンプ楽団に認められてリーダーから入団の誘いを受けたがフリーランサーとして多忙な日々を送っていたバニーは一旦保留にし、正式加入は1930年春のことであった。その間には伝説の白人ジャズペッターの嚆矢と言われたビックスバイダーベックとも念願の共演を果たした。サイドマン時代のベニーグッドマンやジャズトロンボーンニストの雄、ジャックTガーデンらとの多数録音を残している。そしてドーシーブラザーズバンドに加入して有名なビングクロスビーやボズウェルシスターズのレコードで素晴らしい演奏を披露して数々のヒット作に寄与した。バニーのペットスタイルの特徴はルイアームストロングのパワフルさとビックスのロマンチシズムを折衷したエモーショナルなもので、白人ペッターとしては一早くルイのハイノートに迫る高音域を易々と吹くことが出来て並みいるペッター達を羨ましがらせた。そしてその真逆の所謂ダーティートーンと呼ばれるブルースフィーリングまでも表現出来、アタックの強さからリリシズムに富んだデリケートな演奏まで自由自在なスタンスに後輩ペッターは皆憧れて、同時代の黒人ペッター、例えばロイエルドリッチ、バッククレイトン、ハリーエディソン、クーティーウィリアムス、レックススチュアートらに唯一対抗し得る白人ペッターとして崇められた。本回は彼の代表作を添付する。ルイアームストロングもバニーには一目置いてこの楽曲だけはカバーしようとはしなかった。

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I Can't Get Started

Bunny Berigan

スイングの星スイングの星
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岸辺🏝のコラム # 7

#神保町


☆『我が青春の神保町 .1』

TONYレコードは現在までに移転しまくって3番目の店舗である。レコード社の向かいマツモトキヨシの3階が現在地だが、嘗てはマツキヨ前の白山通りの斜向かいにあり、私が行きまくったのは主にその時代である。創始者の西島経雄さんが二階の店舗に居た。今はその地はてもみんになってしまっている。西島さんからは筆舌に尽くし難いほどの恩恵に預かり、そんな交流から現在の店主真尾さんとも仲良く交流させて頂いている。つっても、大阪に来て早5年、ほぼナシのつぶてだが💦
西島さんとは恩恵…という程のこともなくただ店と客と云うだけのものだったが、兎に角、私のトラッド好きはこの店で培われたものと言っても過言ではない。そしてモダンジャズは今は無き水道橋のROOTで培われたと言っていい。店主の大原さんは新宿コレクターズで岡郷三さんの下で働いてから独立。私はコレクターズ末期に常連になり、大原さんとはそこで知己を得たので水道橋に新店を出した時もささやかなお花を送ったものだ。そのくらい入り浸った。
西島さんは神保町界隈の各種中古レコ屋さんを私に勧めて下さりそのお陰で言われた所にはほぼほぼ通ったが、そのうちの2店舗だけ馴染めなかった。西島さんについては幾つかの文献で紹介されていたが、吉祥寺の老舗ジャズ喫茶メグを主宰していた寺島靖国氏はこのTONYレコードには最敬礼して入店する、と書いていた。『東京レコ屋ヒストリー』の若杉実氏はシビアなTONYレコードヒストリーを書いていた。取材を受けた現主宰者真尾さんは好印象とは言い難い、と仰っていた。西島さんは兎に角全ての20世紀芸術は1930年代までで終わっている、というのが持論でビング・クロスビーを皮切りにベニーグッドマン、バニーベリガンと言ったスイング時代のジャズが自家薬籠中であった。お陰で私の趣向もそっちに偏説してしまっている。私が30代の時にビックスバイダーベックとジャンゴ・ラインハルトの音楽をふんだんに使った洋画が公開されたので、ズブズブにハマりTONYさんで2人の海外盤を買いまくった。思えばいい時代だった。西島さんが私に紹介してくれた神保町の中古レコ屋は数店舗あったが一番ハマったのがアディロンダックであろう。

つづく…。
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I'll See You In My Dreams

ジャンゴリズム

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岸辺🏝のコラム # 9

#神保町 #銀座 #蓄音器


☆『我が青春の神保町 .3』

神田神保町のトニイレコードの主宰者だった西島経雄さんは兎に角様々な中古レコ屋を紹介してくれた。又、それに留まらず時には各種サークルへの参加まで促された。私はそうした識者の集まりには眉をひそめるタイプだったのでそちらはどうも気が進ま無かったが、1度だけアルテックユーという店舗でホットクラブの集まりが京橋であると云うので顔を出すだけ出してみようと行ったが、会場の扉を空けた途端に一斉に中のメンバー達に見据えられて実に気まずかったので、扉を閉めて引き返したということはあった。このグラビティのルームでもそうだが、一見さんでも馴染める雰囲気を作るのは中々難しい。常識あるルーム主なら誰もが分かっていることだとは思う。
西島さんに教えられて馴染んだお店では東銀座のランドマーク、歌舞伎座の路地裏に逼塞するように佇む銀座シェルマンもよく足を運んだものだった。現在ではシェルマンアートワークスと店舗名が変わってしまったが、店内にはリモデルした綺麗で状態の良い高価そうな蓄音器が所狭しと陳列してある。リスニングルームは二階にあり状態の良いSP盤を名機で聴ける空間は筆舌に尽くし難い。先月30日にNHKで放映されたイエローマジックショー.4でも細野晴臣と星野源がここでSP盤を聴いていた。私は専ら1階のSP盤売場の方で"エサ漁り"に集中していた。ここでも数々の名盤を揃えられたが、ここの特徴は欧州盤が多かった。ジャズの本場はアメリカだっだからオリジナル盤ではない。私のようにオリジナルだろうが海賊盤だろうが拘らないユーザーには有り難い訳だが、欧州盤の1つの特徴としては見た目はミント✨️でも実際に掛けるとスクラッチノイズが意外にあったりする物がやたらと多いな、というのが聴いてみた実感である。欧州調達のシェラックが低品質なのか何なのか?これは不思議な現象だった。あとはA面B面に違う演奏がプレスされてる所謂、お得盤の様なものが多いのも特徴だろう。A面にはルイ・アームストロングが入っていてひっくり返すとビックスバイダーベックが収まっているという手合いである。それが嫌な方も居るだろうが、それはそれで楽しいものだ。ただ数ある内の数枚で良い訳だが。今はもう行かなくなった懐かしい店舗の1つである。
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マサヤス   龍之介

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アイオワ州から来た男 # 1

ビックスと私

ビックス・バイダーベック。本名リオン・ビックス。1903年明治36年3月10日 アメリカ中西部アイオワ州ダベンポートの材木商の家に生まれる。ビックスには兄のチャールズがいたが実家の家業を継ぐ使命があり、音楽には殆ど関心を示さなかった。父はドイツ系移民として堅実で商売熱心な人、母は元ピアニストだったが家業を支える良き妻でも母でもあり、幼い時からピアノに向かう次男のビックスをわざわざ外で遊ばせるような母であり、ビックスの音楽的関心を削ぐような子育てに意欲を燃やした。ビックスには独自の叛骨精神が宿っていて、親の言われるまま野球やスケート、テニスに打ち込んではいたが、彼には音楽の方が第一だった。

ビックスバイダーベックの伝記は世界各国で出版されている。彼はジャズ黎明期に登場し、当時ルイ・アームストロング一辺倒だったジャズトランペッターの影響を白人プレイヤーとして初めて否定し、ドビュッシーやラヴェルら印象派の音楽理論を初めてジャズで踏襲した。といってもそれらを口頭で説明した訳ではなく、全てレコードやアトラクションでのアドリブ演奏で手本を示したのであった。ビックスのジャズへの貢献や影響は同時代のそしてその後のジャズ演奏者らが語る口コミで拡がりを見せたが、ジャズ評論家らがビックスの影響力について著作で著したものは常に欧州の方が先行していた。日本では戦後すぐに河野隆次氏がラジオ番組でビックスの♫アットザジャズバンドボール をテーマ曲で使用した。戦前から野口久光や野川香文らがビックスの影響を細々としたためてはいたが、大きなうねりを見せることは無く、専ら戦後になり河野氏や油井正一のような音楽評論家らによってその功績が受け継がれていったのだった。よって我が国でもまとまった形でのビックスに関する著作は皆無に等しい。私がビックスの音楽に目覚めたのは1993年平成5年に我が国で公開されたイタリア映画"BIX"が『ジャズ・ミー・ブルース』と題されて日本ヘラルドが配給して全国公開された時だった。それまでは例えばルイやレッドニコルズやベニーグッドマンは知ってはいたが、ビックスのことには疎かった。全国公開前にテレビCFでも媒体が流され使用されていたのがビックス晩年の一曲♫アイルビー・ア・フレンド でありそのハイライト部分が使われた。ブラスセクションによる流麗なメロディラインが魅力的で、これは観なければ!と公開に合わせて映画館へ足を運んだものだった。以来神田神保町のTONYレコードでBIX関連の復刻LPを貪るように探しては買った。ビックスについて西島さんから教えを乞うことは殆どなく西島さんも私には映画に影響された若者という位の認識だったのだろう。その時は私もまだ27歳の青年であった。そんなとある日曜日、私は下北沢に居た。中央線沿線の中古レコ屋を粗方舐めた後、制覇したい店は行き尽した観があったので新たなる土壌を開拓しに下北沢へ乗り込んだのだが、とある古着屋から有線でレッドニコルズが流れてきたので、どうしたものか?と思うがまま丸で吸い込まれるようにその古着屋に入ったのだが、夥しい商品の古着には目もくれず店内を見渡すとガラスのショーケースに一冊の本が売られていてタイトルが『ジャズ1920年代』だった。目が点になったがそれまで本屋さんでも見掛け無かったこの本にすっかり魅せられて、店員さんに声を掛けてショーケースから取り出して貰いパラパラと本を繰ると、私がそれまで聴いてきたルイアームストロングやアールハインズ、ジャックTガーデン、フレッチャーヘンダースンといった馴染みの名前の他にビックスバイダーベックの名前もあった。ページ数にして20ページほどだったが、かなり仔細にビックスのことが記載されていて、…これは買いだな、と即購入したのだった。以来このリチャードハドロックが書いた本は私のバイブルになった。そんな運命的な本をまさか古着屋で見付けるとは…。ましてや滅多に足を運ばない下北沢という土地だったのも何か運命的なものを感じざるを得無かった。人との出会いもそうだが、自分の人生にとって大切な物との出会いも又然りで、どこでどのような出会いが待ち受けているかは全くもって一寸先は闇である。だが、その為に或程度の情熱を注ぐことに出会いは有効となり、素晴らしい出会いはその人にとって必ずやあると私は断言したい。だから行動しないより、先ずは行動する事が至高なのである。
その後ビックスに関しては次々と関連レコードやCDが大分目に付く様になる。それまで全く関心が無かったものが、ある事がキッカケで急に身辺でガチャつき出すのである。例えばVictorのジャズマスターピースシリーズではVictor時代のポールホワイトマン楽団に在団していたビックスの演奏とか、ビックスがそれ以前に在団していたジーンゴールドケット楽団の音源もVictorだった為この復刻シリーズに一括して収められていた。そのライナーノーツを手掛けていたのが柳澤安信氏でビックスについてかなり突っ込んだ記述が著されていた。特にビックスにトランペットの運指法を伝授したとされる1920年代のペッター エメット・ハーディーに関する記述は初めてのことだらけで、プレビックスマニアには新鮮な驚きだった。これは実は先に買っていたリチャードハドロックの本にも全く触れていなかったからだ。そしてそれから程なく今はもう無い神田神保町の音楽本専門店だった古賀書店で見付けた東京創元社刊の『ジャズの歴史』は油井正一の、タイトルからはおよそ掛け離れたユーモアのある表現で、エメットハーディー≒ビックスの関係性を裏付けていた。ここではエメットハーディーの若き日の恋人がボスウェルシスターズの長女のコニーボスウェルで、ビックスがよくエメットの元を訪れて、ペットについて教えを乞うところをコニーが目撃している事が書かれていた。そしてエメットのことを知っている同時代のトラッド系ミュージシャン達の証言から、ビックスの独特の運指がエメットのそれと遜色なく聞こえることを油井は突き止めたのだった。そしてビックスのまとまったクロノジカル全集というCDがフランスからリアルにリリースされて毎月1枚ずつ地道に購買して行き1年半掛けて全部を集めた。次いでイタリアからも同じようなコンプリートCDがリリースされて、こちらは10枚組のセットだが、さすがにこれを店頭販売スリは店はなく、私は輸入盤のメッカだった六本木WAVEで予約購入したが、3か月から半年は仕入に時間が掛かると言われたが私は待つことにした。結局、入荷に半年は掛からなかったがゆうに4か月は掛かったと記憶する。が、しかし待ち望んだ程の充実さはなく、内容的にはフランス版の方には及ば無かった。何せ、フランス版の方はライナーノーツにソロオーダーまで記載されており、ビックスが8小節、次のソロはトラムで6小節といったデータが記載されていた。そして最後にリリースされたのが、ようやく本国アメリカのサンビーム社から5枚に亘るビックス全集が遂に出た。これはそれまでの全集にはない、ビックスがトランペットのアンサンブルに埋もれている楽曲まで復刻されていることである。そして最後の5枚目ではビックスに影響をうけたと思しきトラッド系ミュージシャン達のオムニバスという内容なのがとても嬉しいセットであった。サンビーム社は1970年代にビックスやベニーグッドマンなどのビッグバンドリーダー達の若き日のサイドマン時代の演奏だけを集めたシリーズなど、マニアが喜ぶレコード復刻を手掛けていたレコード会社であり、そこがCD時代になりこうした更にバージョンアップした全集をリリースしたことは、ファンにとっても朗報であった。こうしてサンビーム社の凄い全集で一区切りがついたビックス復刻盤の旅は完結したのであった。次回からは上記で紹介したビックスの音楽を辿る事にする。幸いサブスクに相当数のビックス音源がアップされている様なので、そちらもお楽しみに。
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At the Jazz Band Ball (2000 - Remaster)

ビックス・バイダーベック

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マサヤス   龍之介

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アイオワから来た男 .6

#閑話休題

☆『レッドニコルスと四人の木管奏者』

レッドニコルスはジャズ勃興期の1924年以降コルネット(トランペットの小型楽器で音色はトランペットを丸くしたような音色が特徴)奏者兼バンドリーダーだが、彼が1924年にプライベートレコードを出した時に選んだ曲は♫Jazz Me Blues だった。同年にThe Wolberins の同曲のレコードがリリースされて世のジャズミュージシャン、特に白人奏者たちの間でここで聞こえるコルネットプレイはスゴい…と評判だったからだ。それはルイ・アームストロング一辺倒だったジャズの流れを変える程の効果をもたらした。ジャズは黒人の音楽と言う先入観を覆す出来事だった。ビックスの影響の程はこうしたジャズ史を押さえなければ、何故1970年代に突然ビックスがグラミー賞の殿堂入りを果たしたのかが判らないからである。
最初にレッドニコルズのことを書いたのはウォルベリンズのコルネット奏者ビックスバイダーベックが初めて脚光を浴びたことがレッドのビックス信奉振りでよく判るエピソードだからである。
レッドニコルスはこの頃既にバンドリーダーを張れる程の地位に上がっていたにも拘らず後からデビューしたビックスみたいな青年に簡単に感化されてしまうところがあり、これが彼の人生のメリットデメリットを左右する事になる。
レッドニコルズはミュージシャン的にはジャズイディオムに乏しい技量しか持ち合わせ無かったが、達者なコルネット吹きではあった。当時の白人ジャズ界隈では名が通ってはいたし、音楽的知識もあったから彼はバンドを通してジャズと言う発展途上の音楽の向上に一役買うことは出来たのだった。1930年代入りフランスの『ル・ジャズ・オット』が世界史上初のジャズ評論を起こしてから本国アメリカでも遅まきながら『メトロノーム』などの数々のジャズ批評誌が発刊され出すと過去のミュージシャンを評価する論文が頻りに紙上を賑やかしたが、レッドは遂に正統には評価されなかった。しかし、本人はそんな論評など全く意に介さず陽気にブンチャカ出来ればそれで良かった。1958年のハリウッド製伝記映画「5つの銅貨」でもその辺の事情は語られていたが、彼のバンドファイブペニーズはレッドやビックスらとさして年齢の変わらないミュージシャン達の絶好の売出す場でもあり、野心家のレッドが田舎者を自称しながらも何とか狭い当時のジャズシーンに迎合するために、シカゴ派らとも共演して、彼のファイブペニーズは他流試合の様相を呈した。レッドも率先垂範してそんな若手を後押しした。編曲では必ず新進気鋭の奏者たちにソロを取らせ、時として自分のソロより若手にスペースを裂き、聴きどころをお膳立てする。 
 この采配が後年、スイングブームで隅に追いやられていたレッドを復活させる原動力となる。

今回はクラリネットに絞りレッドニコルス楽団でソロパートを任された4人のクラリネット奏者たちを紹介してゆく。

先ず筆鋒は ジミードーシー。
弟のトロンボーンの奏者トミードーシーとほぼキャリアは変わらずアルトサックスとクラリネットを吹き分ける器用さは兄独自の才能である。レッドニコルズバンドでの録音で注目される曲は
♫ザッツノーバーゲン 編曲もこなす才人アーサーシャットのピアノに天才ギタリスト エディラングの自在なソロワーク、ヴィックバートンのシンバルは素晴らしいアクセントとなってこのレコードの誰よりも目立っていた。1928年当時、まだベースドラムは録音には不向きがされていた。スタジオでベースドラムを踏むと、カッティングの針が飛ぶ‼️そんな迷信がまことしやかに囁かれていた時代だった。

続く現代曲♫フィーリン ノー ペイン ではクラリネットはシカゴ派からピーウィーラッセル。この人もビックスにより啓示を受けた。
1926年にはハドソンレイクの近くでラッセルはビックスと夢のような日々を過ごした。
ビックスのソロフレーズを更に深く倍加したピーウィのソロはビックスがもっと長生きしていたらば、きっとこんな感じであっただろうと思わせる。独特の浮遊感はワンアンドオンリーで、この人のトレードマークでもある。
シカゴ派の重鎮でエディコンドンやバドフリーマンらとアイドル、ビックスの残滓を終生引きずった。

レッドニコルズの演奏でどうしても外せない
♫ノーバディーズスイートハート💓 はファド(飲兵衛)リビングストンのクラリネットと曲のアレンジで、アレンジの才に長けていて前曲のアレンジも実は彼だ。さすらいのトランペッター、ウィンギー(片腕)マノン同様放浪癖があり土地どちのエキスに染まらず、セッションしては離れるそのスタンスはやがてソロワークにも反映されて、独特の土臭さを兼ね備えていた。
あちこちに顔を出していたからか、例えばベンポラック楽団に在籍してベニーグッドマンとも共演したりもしていた。
ジョウゼフ"ファド"リビングストンは1925年から1926年の1年間はデトロイトやシカゴに滞在してジャンゴールドケット楽団でジャズの知識を深めていった。その時同楽団にいたビックスに刺激を受けて全音音階に目を向けるようになる。そして、無類の酒好きでミドルネームに"ファド(呑兵衞)"と付けられた程だったが、だからビックスとも意気投合した訳だ。生まれはサウスカロライナだが、シカゴっ子の気質ともうまがあった。
1927年12月にシカゴアンズの有名な2枚分のレコードが吹き込まれて、その中には同じ♫ノーバディスイートハート がラインナップされたが即興アンサンブルは旋律を並進行させたハーモニーを奏でるアレンジをものしていた。
この時はクラリネット奏者フランクティッシュメイカーがアレンジを施したが、それから2カ月後にレッドニコルスたちが同じクラリネット奏者のファドに編曲させた同曲の録音でも、シャッフルリズム、イクスプロウジョン(爆発的即興演奏)、そしてファドのシカゴ風クラリネットソロと言う三拍子揃った演奏を聴いてシカゴアンズは自分達の影響力の強さを知ることになる。

最後はベニーグッドマン!彼は1929年2月1日の録音からレッドニコルスの録音に顔を出すが、この時から同僚のグレンミラーも同時に起用される。又、ベニーが録音に加わると器用なファドがテナーサックスに回る。
1930年7月2日録音の♫チャイナボーイ は後世に伝わる名演となりベニーのクラリネット奏者としての名を一躍上げたソロが聴けるがその翌日録音された♫ザ シークオブアラビー も名演の名に恥じない演奏である。
曲の入り口でトレグ・ブラウンが普通パートで歌い出すとすかさずジャックTガーデンが…待て待て待て!とストップさせてメロディーを崩してジャズる、と言うお約束アレンジはグレンミラーが施している。又、グレンミラーがストレートメロディーのトロンボーンソロを吹く上行ではTガーデンが奔放に高度なトロンボーンソロをアドリブで吹くと言う凝りに凝った編曲で楽しい。ジャズの醍醐味が端的に判る編曲となっていてTガーデンは終生このアレンジでこの曲を吹いた。ベニーのソロもビックス譲りの起伏の激しいソロワークでバラエティ豊かな賑やかな演奏となっている。
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The Sheik Of Araby

レッド・ニコルズ & His Five Pennies

スイングの星スイングの星
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