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れき

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不定期でバタイユの『内的体験』読書会をしようと思います。参加希望の方は連絡下さい。
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4:44を見ると縁起悪いなぁと思うのだけど、見ちゃいけない、見ちゃいけないと思うほど、ついつい見たくなってしまうので、ジョルジュ・バタイユを読まなきゃいけない。
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バタイユ的非–知はヘーゲル的絶対知の全き外部にあるので、それらを同等的に扱う横田祐美子『脱ぎ去りの思考』はミスリーディングしてると指摘せざるをえない
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PEG

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『バタイユ』

Twitterで「そう言えば昔(80年代)マダムエドワルダってポジパン(意味が分からない)バンド居たが多分バタイユは読んでない(笑)」と書いたら熱狂的なファンから「JIN様はバタイユ読んでますよ!」と唐突にDMが来た。どうやらまだ活動しているらしく未だにポジパン(意味が分からない)メイクで同じ様な事をしてるらしい。多分僕より年上のおっさんが。バタイユを読んでいる事になんの意味もないって皮肉だったのだが、ああいったゴシック系のバンギャに通じないのは良く知っている。

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルでもマルキ・ド・サドでもギー・ドゥボールでも良いけれど、僕は海外文学(特に哲学を跨いだ)をほとんど読んでいるが理解はしていない。いや、理解していても、その解釈を自分で疑っている。何しろ違う言語で書かれ間に翻訳者の解釈が入った時点でなんの意味も無いと思っている。

谷崎潤一郎の流麗でブレスの長い陰湿なぬらぬらと輝く文体を英語やフランス語に翻訳したら、全く、何一つ意味が無いだろう。

昔、タイニーキャザムを解散した後に泥臭いロックンロールをやろうと組んだバンドでキングズネークスと名乗って2年ほど活動した事があった。ある時わけ知り顏のライブハウスのマネージャーから「サンハウス好きなの?」と聞かれ、ん?いや、好きだけどもなんでまたサンハウス?と思ったが、後になって、あの悪名高き博多系ロックバンド「サンハウス」にキングスネークと言う曲があるのに気がついた。

サンハウスとは、戦前ブルースマンの人名で、そのまま人名を名乗って居た件のバンドは、数々の洋楽をそのままパクり日本語にしただけで日本のロック史に名を残している。リフもコード進行も全く同じな曲もあるし、歌詞のほとんどはブルースの有名な曲をそのまま日本語に置き換えたテーマのものばかりだ。

そもそも僕らがキングスネークスと名乗ったのは、マディ・ウォーターズのクローリンキングスネークと云う曲の一節から拝借したので、まぁ大した差は無い(笑)即刻バンド名は変更した。

「知っている」事と「理解している」事は別だ。「理解している」事と其処からインスパイアされ新しい物を作り上げる事も別の話だ。

僕が古典落語の熱狂的なファンなのは、噺をみんなが「知っている」からだ。「理解している」からだ。この状況下で噺家達は、自分の解釈の視点と演じ方を競わなければいけない厳しい世界で、これは芸事、芸術に丸裸で挑む特異な文化だと云う所に異様な魅力を感じている。

多分、僕にもっと教養があれば、オペラや能を楽しむ事が出来るのだろうけれど、残念ながら僕の教養は吝嗇窮まりない。

PS、昔、横浜大学でロシア語の非常勤講師をしていたエカテリーナに「ナボコフの小説はまだしも、詩なんて母国語で読まなければ意味ないでしょう?」と聞いた事があった。答えは「確かに響きや意味合いの美しさは損なわれるけれど、ナボコフ自身ロシア語を捨てて英語で書いてた時期もあるし、新しい違う流れが出来てて日本語で読むのも楽しい。」だった。エカテリーナの日本語力は、僕が知っている外国人(有名人含む)の中で一番達者で、何しろ田山花袋(!)を旧語体のまま読んでいた。

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たろう

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某ピンク色のマチアプやってて男にプロフィールの文章について激詰めされる夢見た。某ピンク色のマチアプやってないのに、なんでなんだ。バタイユの引用を安易にするのは良くないんじゃないですか?って言われた、はあ...
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れき

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これはあくまで私のバタイユ読解なのですが、内的体験において内在性と超越性は共に無化される。超越性とは社会規範であり、道徳であり、ラングであり、他者であり、客観であるわけですが、それらが根本的に空虚に支えられていることを痛感する経験が恍惚には串刺し刑にはあります。超越性=空虚。では内在性とは何か。それが交流、伝達なわけです。裂傷を抱え、自閉した実存の無為の共同体。それはエラン・ヴィタール的な生命の連続性といえばそれまでですが、実存的にはむしろ孤独と自閉症の極北にあるようなもので、極めて稀です。共同の不可能性による共同。それが無神学大全を書くバタイユの動機でしょう。そして超越性は事後的に崩壊されるわけですが、だからと言って否定されるわけではない。別にバタイユはアナーキズムを掲げているわけではない。むしろバタイユは内在的に道徳を再建しようとします。「もしも人が死ぬほどまでに笑わねばならないのだとしたら、この内在的な道徳は抗しがたい笑いの運動ということになるであろう」(ニーチェについて,354)彼は笑いを社会学的主題として把握します。なぜ、笑いなのか。そのことを考える前に内的体験の先に何があるのか考える必要があります。自我の溶解、他者との交流といった文字面では見えにくいですが、そこには「私」と呼ぶ他ない経験の残滓がある。コギトすら相対化され、残りの者たちと共生関係を持続する他ない。でないと、死ぬ他ない。生き永らえることと自殺することは殆ど同じことですが、敢えて生きることを選択したと仮定すると、もう共生の道しかないわけです。善悪の彼岸において、他者、否、私と共生する。その時、私は哲学者になるスタート地点に立つでしょう。それは僕の場合、全く「哲学」的ではない予感がしますが。
哲学哲学
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れき

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「Kは、今朝、意気消沈している。ゆえしれない不安の夜、不眠の夜ののち、彼女自身も人に不安をかき立てる様子になっている。そして、たくさんの飛行機の音が聞こえていたので、軽い震えにおそわれている。うわべは溌剌としている––陽気で元気が良い––けれど、かよわそうな感じがする。私自身ふだんからかなりの不安性なので、このようなゆえしれない苦悩を見逃してしまう。彼女は私の窮状と困難、私が進み入っているぬかるみを見抜いて私に心から笑いかけた。突然、彼女の中に、見かけとは反対に、妹のような一人の友人を感じて驚いてしまう…。だがもしもこういうことがないのだったら、私たちはお互い他人になっているのだろう。」(ニーチェについて,230)

バタイユもその彼女もメンヘラやんってことがよく分かる文章
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