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れき

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これはあくまで私のバタイユ読解なのですが、内的体験において内在性と超越性は共に無化される。超越性とは社会規範であり、道徳であり、ラングであり、他者であり、客観であるわけですが、それらが根本的に空虚に支えられていることを痛感する経験が恍惚には串刺し刑にはあります。超越性=空虚。では内在性とは何か。それが交流、伝達なわけです。裂傷を抱え、自閉した実存の無為の共同体。それはエラン・ヴィタール的な生命の連続性といえばそれまでですが、実存的にはむしろ孤独と自閉症の極北にあるようなもので、極めて稀です。共同の不可能性による共同。それが無神学大全を書くバタイユの動機でしょう。そして超越性は事後的に崩壊されるわけですが、だからと言って否定されるわけではない。別にバタイユはアナーキズムを掲げているわけではない。むしろバタイユは内在的に道徳を再建しようとします。「もしも人が死ぬほどまでに笑わねばならないのだとしたら、この内在的な道徳は抗しがたい笑いの運動ということになるであろう」(ニーチェについて,354)彼は笑いを社会学的主題として把握します。なぜ、笑いなのか。そのことを考える前に内的体験の先に何があるのか考える必要があります。自我の溶解、他者との交流といった文字面では見えにくいですが、そこには「私」と呼ぶ他ない経験の残滓がある。コギトすら相対化され、残りの者たちと共生関係を持続する他ない。でないと、死ぬ他ない。生き永らえることと自殺することは殆ど同じことですが、敢えて生きることを選択したと仮定すると、もう共生の道しかないわけです。善悪の彼岸において、他者、否、私と共生する。その時、私は哲学者になるスタート地点に立つでしょう。それは僕の場合、全く「哲学」的ではない予感がしますが。
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にこちゃん

にこちゃん

面白いからあえて消さないけど、自分の過去の投稿がキモい(笑)
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ゆうほ

ゆうほ

なんか嫌な事思い出した、、
勉強してる時に父さんに勉強してる振りとか言われてやる気なくなったのもあるんだけど、お前覚える気ある?難しくない簡単やから。とか言われた記憶ある、、こんな無茶苦茶な教え方ありますか?
そん時も1回で全部覚えさせられたし、、夏休みしかり受験勉強の時、ガクガクしながら勉強してた、、怖かったよ。(ó﹏ò。)ウゥゥ
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ノーーーーーン

ノーーーーーン

ポイ捨てする人、クチャラーの人、店員に態度悪い人とは付き合いません
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よしこ

よしこ

私の物言いのせいで
上司に怒られてしまった。

謝ったけど不穏な雰囲気、、

辛いな🥺

親しき中にも礼儀あり。

以後気をつけます。
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̳ᓀ ·̭ ᓂ ̳

̳ᓀ ·̭ ᓂ ̳

恋人に不意に「会いたい」って言われると…どうする?恋人に不意に「会いたい」って言われると…どうする?
できることはしようと思いますけど、1回ちゃんと冷静になりますね🤔その後の予定を見て現実的かどうか、お互いに負担がかかるような会い方でないか。今後に響くようなら会わないと断ることもありますよ。
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よっち

よっち

人間関係充実してる?人間関係充実してる?

回答数 154>>

人間関係は、充実してない。一人で過ごすことが多い
INFPの星INFPの星
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もっちー

もっちー

なんでか知らんけど髪の毛いつ切るの?って聞かれる頻度が最近アホほど高いのでいっそのこと切ったろうかな、、、って思い始めてる。
でも髪長いなぁって自分で思うの好きなんですよね、ってことはもっちー自身はたぶんもっちーが思うより長い髪気に入ってるんですよな。
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これはあくまで私のバタイユ読解なのですが、内的体験において内在性と超越性は共に無化される。超越性とは社会規範であり、道徳であり、ラングであり、他者であり、客観であるわけですが、それらが根本的に空虚に支えられていることを痛感する経験が恍惚には串刺し刑にはあります。超越性=空虚。では内在性とは何か。それが交流、伝達なわけです。裂傷を抱え、自閉した実存の無為の共同体。それはエラン・ヴィタール的な生命の連続性といえばそれまでですが、実存的にはむしろ孤独と自閉症の極北にあるようなもので、極めて稀です。共同の不可能性による共同。それが無神学大全を書くバタイユの動機でしょう。そして超越性は事後的に崩壊されるわけですが、だからと言って否定されるわけではない。別にバタイユはアナーキズムを掲げているわけではない。むしろバタイユは内在的に道徳を再建しようとします。「もしも人が死ぬほどまでに笑わねばならないのだとしたら、この内在的な道徳は抗しがたい笑いの運動ということになるであろう」(ニーチェについて,354)彼は笑いを社会学的主題として把握します。なぜ、笑いなのか。そのことを考える前に内的体験の先に何があるのか考える必要があります。自我の溶解、他者との交流といった文字面では見えにくいですが、そこには「私」と呼ぶ他ない経験の残滓がある。コギトすら相対化され、残りの者たちと共生関係を持続する他ない。でないと、死ぬ他ない。生き永らえることと自殺することは殆ど同じことですが、敢えて生きることを選択したと仮定すると、もう共生の道しかないわけです。善悪の彼岸において、他者、否、私と共生する。その時、私は哲学者になるスタート地点に立つでしょう。それは僕の場合、全く「哲学」的ではない予感がしますが。