これはあくまで私のバタイユ読解なのですが、内的体験において内在性と超越性は共に無化される。超越性とは社会規範であり、道徳であり、ラングであり、他者であり、客観であるわけですが、それらが根本的に空虚に支えられていることを痛感する経験が恍惚には串刺し刑にはあります。超越性=空虚。では内在性とは何か。それが交流、伝達なわけです。裂傷を抱え、自閉した実存の無為の共同体。それはエラン・ヴィタール的な生命の連続性といえばそれまでですが、実存的にはむしろ孤独と自閉症の極北にあるようなもので、極めて稀です。共同の不可能性による共同。それが無神学大全を書くバタイユの動機でしょう。そして超越性は事後的に崩壊されるわけですが、だからと言って否定されるわけではない。別にバタイユはアナーキズムを掲げているわけではない。むしろバタイユは内在的に道徳を再建しようとします。「もしも人が死ぬほどまでに笑わねばならないのだとしたら、この内在的な道徳は抗しがたい笑いの運動ということになるであろう」(ニーチェについて,354)彼は笑いを社会学的主題として把握します。なぜ、笑いなのか。そのことを考える前に内的体験の先に何があるのか考える必要があります。自我の溶解、他者との交流といった文字面では見えにくいですが、そこには「私」と呼ぶ他ない経験の残滓がある。コギトすら相対化され、残りの者たちと共生関係を持続する他ない。でないと、死ぬ他ない。生き永らえることと自殺することは殆ど同じことですが、敢えて生きることを選択したと仮定すると、もう共生の道しかないわけです。善悪の彼岸において、他者、否、私と共生する。その時、私は哲学者になるスタート地点に立つでしょう。それは僕の場合、全く「哲学」的ではない予感がしますが。
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これはあくまで私のバタイユ読解なのですが、内的体験において内在性と超越性は共に無化される。超越性とは社会規範であり、道徳であり、ラングであり、他者であり、客観であるわけですが、それらが根本的に空虚に支えられていることを痛感する経験が恍惚には串刺し刑にはあります。超越性=空虚。では内在性とは何か。それが交流、伝達なわけです。裂傷を抱え、自閉した実存の無為の共同体。それはエラン・ヴィタール的な生命の連続性といえばそれまでですが、実存的にはむしろ孤独と自閉症の極北にあるようなもので、極めて稀です。共同の不可能性による共同。それが無神学大全を書くバタイユの動機でしょう。そして超越性は事後的に崩壊されるわけですが、だからと言って否定されるわけではない。別にバタイユはアナーキズムを掲げているわけではない。むしろバタイユは内在的に道徳を再建しようとします。「もしも人が死ぬほどまでに笑わねばならないのだとしたら、この内在的な道徳は抗しがたい笑いの運動ということになるであろう」(ニーチェについて,354)彼は笑いを社会学的主題として把握します。なぜ、笑いなのか。そのことを考える前に内的体験の先に何があるのか考える必要があります。自我の溶解、他者との交流といった文字面では見えにくいですが、そこには「私」と呼ぶ他ない経験の残滓がある。コギトすら相対化され、残りの者たちと共生関係を持続する他ない。でないと、死ぬ他ない。生き永らえることと自殺することは殆ど同じことですが、敢えて生きることを選択したと仮定すると、もう共生の道しかないわけです。善悪の彼岸において、他者、否、私と共生する。その時、私は哲学者になるスタート地点に立つでしょう。それは僕の場合、全く「哲学」的ではない予感がしますが。