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マサヤス 龍之介
☆『スイングジャズの花形ボーカリスト.17』
ハリージェイムスのバンドによる初のスタジオREC.は1937年12月1日で、初っ端のボーカリストはヘレンヒュームズだった。ハリージェイムスの後にカウント・ベイシーのバンドへ移籍して開花したボーカリストだった。シナトラにせよ、ヒュームズにせよ、ハリージェイムスのバンド時代には彼・彼女らの良さを活かせなかった。最初にジェイムスがバンドを結成した時はベニーグッドマンやカウント・ベイシーのバンドメンバーが多数名を連ねていた。生来のハリージェイムスの人間性が好人物であり友達の輪が瞬く間に拡がり、バンドボス達からも愛されたのであった。
特にリズムセクションのウォルターペイジ-b
ジョージョンズ-ds.がベイシーバンドから、バッククレイトン-tp.もバックアッパーとして2回目の録音まで付き合っていた。ベニーグッドマンバンドからはハーシャルエヴァンス-ts.ジェスステイシー-p.らが参加して凡そ3回目まで付き合った。
ハリージェイムスがベニーグッドマンバンド時代にスタープレイヤーとして君臨したことによるベニーやジョン・ハモンドプロモーター人脈からの賛同もあっただろうし、カウント・ベイシーもメンバーを貸出すのに快諾したことも、ハモンド効果であろう。初期のジェイムスバンドは"白いベイシーバンド"と揶揄されたものだったが、ハリーはそのフレコミを気に入っていた。ハリーはカウント・ベイシーのバンドスタイルが大好きだったので、揶揄を好意的に受け止めていた。しかしハリージェイムスのこうしたバンドサポートに賛同した同時代ミュージシャンではデューク・エリントンも進んでメンバーを貸出した。デュークはハリーとは後に共同で作曲までものしている。1938年4月27日の第4回録音ではデュークの所からハーリーカーネイ-bar.saxがサポートしており、黒っぽさを演出していた。この録音に限りベニーのところからデイブタフ-ds.も参加していた。デイブタフは'38.1.16のベニーグッドマンのカーネギーホールコンサートでズタズタになったリズムセクションの要であったドラムスを矯正する為にベニーはジーンクルーパを解雇して替りにタフを起用してバンドの立て直しを図った。デイブタフはジーンと違って派手で、矢鱈ドラムスを叩きまくるパフォーマンススタイルではなく、スネアを有効的に活用出来るドラマーとしてベニーのバンドのリズム矯正に寄与した。デイブタフはエディコンドン率いるシカゴ派のメンバーでジェスステイシーらとは同僚だった。1939年に入り第5回録音の頃になるとかなりオリジナルメンバーが出揃って出張メンバーの姿は粗方消えた。同年2月20日の第5回録音ではバンドテーマ曲となった♫Ciribiribin やハリージェイムスの後の十八番となる♫スイート・ジョージア・ブラウン、それにこれもハリーのリサイタルやライブでは必ず取り上げる♫Two O'Clock Jump もこの日に録音された。この日の録音ではボーカリストはバーナイス・バイアスだったがこの日と次の第6回録音、1939年4月6日と2回分の録音で降ろされて翌5月24日の第7回録音からは新進のコニーヘインズに取って替わる。そして次の第8回録音、7月13日から例のフランク・シナトラがバンドに加わる。当初、シナトラという名前は余り馴染みが無かったからハリージェイムスはシナトラという名前を変える様命じたらしいが、シナトラが頑強に本名に拘ったのでそのままで行くこととなった。1939年11月8日、シナトラのハリージェイムスバンド最終録音日にシナトラが唄ったバンドテーマ曲
♫Ciribiribin を本回はお聴き頂く。
※ 画像は初期ハリージェイムスバンドの音源が多く所収されているドイツFLAPPARレーベルの1枚。30年以上前に新宿・帝都無線で購入した。

Ciribiribin (They're So in Love)

マサヤス 龍之介
☆『スイングジャズの花形ボーカリスト.16』
ハリージェイムスバンドは国中を演奏して回った。ワンナイトスタンド即ち一晩演奏すると翌日はまた違う町。食事は酷くて寝るのはバスの中、コンサート後ニューヨークに戻ってダンスホールのローズランドで深夜の演奏、ということもあった。これは何もハリージェームズに限った話では無かった。当時楽団員で後にスタープレイヤーになったバディ・リッチやジーン・クルーパなどの往年の人達がスイングエイジを振り返るとき、口を揃えて出る話なのである。シナトラがハリージェイムス楽団に入団前の1939年2月4日、かねてより付き合っていたナンシーバーバトーと結婚した。ハリージェイムス楽団の活動や所謂、楽隊稼業には付き物の楽旅が付きまとう。まだ新婚だったシナトラは当然の様に妻のナンシーを連れ添った。楽団を立ち上げて間がない時期のハリージェームズ楽団で何もかもが不足していた時期だったがしかし、シナトラはとても幸せな状態にあったと言える。妻を迎え念願の家族を持つことが出来たからだ。週給75ドル。2人暮らしなら十分やっていける程の給料だった。シナトラが在籍した時期のハリージェイムス楽団はそう言う時期であった。
西海岸ロスアンゼルスにバンドが着いた時には、出演先のパロマーボールルームが火事で無残にも焼け落ちてしまうと言うアクシデントに見舞われた。そして、代替仕事としてビヴァリーヒルズにある高級レストラン、ヴィクトルユーゴーに仕事を見つけたものの、ソフィスティケートされたレストランではハリー楽団の音楽は喧騒が激し過ぎて日に日に客足は減るばかりであった。
最終的には、そこでの仕事も途中破棄され報酬も不問に伏された。
この時の楽団のマネージメント能力にも疑問符が残るがハリージェイムス楽団はここで、重大な経済的危機に立たされてしまう。
ハリーはそんな困難な中、踏ん張り続けて女性歌手コニーヘインズを含む数人のミュージシャンを解雇しながらも東へ進む。それでも偶にはニューヨークで開かれた世界大博覧会と言う身入りの良いイヴェントに呼ばれたりもした。
シカゴに着いたハリージェイムス楽団ご一行様はシャーマンホテル内のパンサールームでの仕事にありついた。
丁度同じ期間、シャーマンホテルから数ブロック先のパルマーハウスでトミードーシーが楽団を率いて出演中であった。
この時期のドーシー楽団は人気歌手ジャックレオナードに去られて困惑していた。
ジャックは実力派人気トランペッターだったバニーベリガンの華麗なソロが入った♫マリー がヒット中で、すっかり株が上がったばかりだったがこの勢い宜しくジャックは独立を目論でいると言う根も歯もない噂が出回りそれを信じてしまったドーシーはジャックをしつこく詰問し、遂にジャックはそんな親分の元ではやっていけないと、退団する結果となってしまったのだ。
そんな折、ドーシーは予てからハリージェイムス楽団でのシナトラ のレコードを聴いて気に入っていた。ドーシーは人を立ててパルマーハウスでのオーディションの話をする。
シナトラは悩んだ。
当時のドーシー楽団はボーカルにはお誂えの環境であり、バンドシンガーなら一度はドーシー楽団で歌いたいと願った。
又、提示された週給は目の玉が飛び出るほどでありなんとその額週給125ドル、ハリーの所より50ドルも上乗せされていた。
当時妻のナンシーのお腹には最初の子を身籠もっていたので、そのタイミングでの移籍話はまさに天の配剤でもあったが、シナトラがハリージェイムスと別れることは決して本意では無かった。
自分を見出してくれたボスを見限ってライバルバンドへ移籍する、しかも契約期間はまだ1年半も残っていた。それでも思い切ってハリーに直談判をしに行った。
どれだけ自分本位な主張であろうか?……
ボスはきっと烈火の如く怒るであろう…
契約はまだ1年半も残っているのに…
様々な想いを胸にハリーと対面したシナトラ にハリーは意外なリアクションをした。
「君はトミーのところへ行きたいんだろう?」
「申し訳ないが出来ればそうしたいんだ」
「私のところじゃ大して稼げないからな笑…」
そこでハリーは手を差し出した。
握手を求めたのである。
それは、将来有望のシナトラのことを思ってのハリーからの花向けであった。
シナトラ はそれでもハリーの所に自分の後釜が見つかる迄楽団に留まった。
ハリーとシナトラ の友情はハリーが亡くなる1983年まで終生変わらなかったと言う。
やがて、ハリーの元にはディックヘイムズがシナトラの後釜として入団することが決まった。ディックは後にハリージェイムス楽団で
♫アイルゲットバイ を歌い見事にビルボードチャート第一位を獲得する。
因みにビルボード誌がヒットチャートを始めて最初の第一位はトミードーシー楽団にパイドパイパーズのコーラスとフランクシナトラがボーカルを取った♫アイルネバースマイルアゲイン であった。
年が明けた1940年1月 バッファローでのステージがシナトラとハリージェイムス楽団との最後の仕事となった。ステージがハネてハリーたちは次の公演地ハートフォードへ、シナトラ は妻の待っニュージャージーへ行く時が遂に訪れた。シナトラの回想談である。
「雪の降る夜だったと思う。バスは私だけを残して行ってしまった。私は皆にサヨナラとつぶやいたが、周りには誰もいなかった。私は雪に覆われたスーツケースを持ってひとりぽつんと立ったまま、遠く離れて行くバスのテイルランプをじっと見ていた。すると、突然目に涙が溢れ気がつくとバスの後を追い始めてた。。。あのバンドには気概と熱気があった。皆んなと別れてしまった自分がつくづく厭になった」
こうしてシナトラは更なるステップアップを求めてトミードーシー楽団へと移籍して目論見通り、いや、本人も予期しなかったほどの人気を呼ぶことになる。ハリーはハリーで、バンドカラーをより鮮明に打ち出す為に大胆にも20人近いストリングスをバンドに組み入れてスイートミュージックを中心に男女ボーカルを交互に録音して行く。一方ハリーの鋭いtp.の響きを生かしたジャンプナンバーやムーディーなスローバラードなどのインスツルメンタルナンバーを絶妙なバランスでリリースして行った。すると1940年に始まったビルボード誌の週間ランキングでみるみるハリーのバンドは人気が急上昇し出す。
次回からはディックヘイムズなどのMale ボーカルと名花🌷と呼ばれたFamale Vocalヘレンフォレストなどハリージェームズの黄金期に突入する。
本回はシナトラとハリージェイムス楽団との最終吹込み曲♫エヴリデイ・オブ・マイ・ライフ をお聴き頂く。


Every Day Of My Life (11-08-39)

マサヤス 龍之介
☆『スイングジャズの花形ボーカリスト.20』
ハリージェイムスの最初のビルボードNo.1ヒット♫I'll Get By が1941年8月8日にリリースされてから彼のバンドは漸く軌道に乗り始めた。
この年の秋にアーティ・ショウ、ベニー・グッドマンのバンドを亘り歩いてきた女性シンガーヘレン・フォレストは更なる高みを目指してハリージェイムスへ売込みを掛けてきた。ヘレンは10代の時に故郷のニュージャージー州アトランティックシティで彼女のファミリーバンドで唄い始めた。この街は当時一流のリゾートホテルが立ち並ぶ夏の避暑地で、近年の様なギャンブルとカジノの街ではなかった。又、地元のラジオ局で6つの番組で唄ったりもしていた、1937年になって活動の拠点をワシントンD.Cへ移しマーディロン・ルームで2週間の契約を皮切りに唄い結局向こう2年間、そこで唄い続けた。その最中に彼女は一念発起して当時最高の人気を誇っていたキングオブスイング、ベニーグッドマンのオーディションを受けたが、採用には至らなかった。が、その直後にキングオブクラリネットの異名を持つアーティーショウのオーディションを受けてショウのメガネに叶い採用された。時代はもう1939年になっていた。
ショウはスイングバンドでも当たり前の演奏をすることを嫌い1935年に初めてバンドを結成した時も始めからサードストリームと呼ばれた弦楽四重奏をバックにスイングコンサートで演奏したりして真っ当なスイングバンドとは趣を異にして脚光を浴びていた。音楽への向上心に溢れ常に新機軸を打ち出すために、バンドの解体、再結成を繰り返していた。1937年頃にはスタンダードなスイング編成にして折からのスイングブームに乗り人気は急上昇をはじめ、翌'38年にはスイングバンドの人気の頂点に達していた。ショウはクラリネットの担い手で人気No.1のベニーグッドマンとは別な意味で人気を勝ち取ったので、ベニーに与えられたキングオブスイングの称号に対し、キングオブクラリネットの称号が与えられたのだ。1938年の第一作♫ビギンザビギン がミリオンセラーを記録すると同じ年にはユダヤ教の陰鬱なイメージを伴うブルース曲♫悪夢(ナイト・メア) を、そして打って変わってのダンスナンバー♫バックベイシャッフル と立て続けにミリオンセラーを飛ばした。更に翌'39にも♫トラフィックジャム がミリオンセラーとバンド絶頂の折にヘレンは入団した。翌'40には後世にも残る名演♫フレネシー 、名ペッター、ビリーバターフィールドの冒頭のオープンが名高いスタンダードでジャズ史に残る♫スターダスト そして♫サミットライドドライブ とヒットを続けていたがこの年末でショウはまたもやバンドをリニューアルする為にヘレンフォレストもお払い箱となるが、情報を聞きつけたベニーグッドマンがヘレンをスカウトした。3年前には不採用にしたが、ショウのバンドでのヘレンの歌声を聴いて考えを変えたらしい。1940年から翌41年の秋まで20ヶ月、ヘレンはグッドマンの専属として活躍した。ヘレンはその42年後に自伝(自伝のタイトルはハリージェイムス時代のヒットナンバーがそのままタイトルになっている)を上梓したがその中でベニーについてこう語っている。
「私は彼を偉大なミュージシャンとして尊敬しています。それは今でも変わりません。でも一緒に仕事をするには余りにも冷たく気難しい人間だと感じました。私がベニーのバンドを辞めたのにはそうした事から早く逃れたいと感じたからでした。私は彼に対し怒りを感じていたわけではありませんでした。ただ、彼の棘のある言い方に、もう耐えることが出来なかったのです。彼は完全主義者で、彼と一緒では誰でも気が変になるのです」失意のうちにいたヘレンは早速ハリージェイムスのバンドのオーディションを申し入れた。ヘレンはハリーのユダヤ的フレイジングが好きだから、彼のペットと唄いたかったと告白する。ハリーのバンドには前回紹介したように既に男性シンガーのディックヘイムスがいた。バラッドを唄わせたら当時は超一流だったから、ハリーはリズムシンガーを欲していたのだ。
ヘレンもどちらかといえばバラッド歌手だった。最初ハリーはそんな彼女に難色を示していたがヘレンは強引にマネージャーに頼んでリハーサルまで漕ぎ着けた。ヘレンは確かにバラッドを数々のバンドで歌いこなしてきただけあって、ディックでは表現し得ないものを秘めていた。こうして彼女は目出度くハリーに採用されることとなったが、結果的にハリーのバンドで一番ヒットを連発したのはヘレンの歌ったレコードだった。
続





I Don't Want To Walk Without You (12-11-41)

マサヤス 龍之介
喫茶室☕️岸辺🏝
☆『SWING TIME♫.・*’’*・.♬』
スイングの星🌟惑星主がお送りするスイングタイムキタ━(゚∀゚)━!
本夜の演し物ピックアップ✨️✨️✨️
・1938.1.16史上初のカーネギーホールコンサートから白熱の♫sing sing sing あの熱狂に耳を奪われがちだが、実は10分を超える演奏のもう一つのハイライト🎹を聴き逃すな‼️
・そしてその翌日に余りに素晴らしかった前日のコンサートでのジェスステイシーのピアノソロをもう一度✌️とばかりに強行録音されたエディコンドンの狙いとは?
・あの有名なグレン・ミラーの♫In The Mood
の元ネタ音源を入手‼️その泥臭い演奏が本夜、蘇る!片腕のペッター、ジョー"Wingy"マノンのオリジナル録音とグレン・ミラーのヒット盤、そしてもう一つのバリエーションとは?…。
・トラッドの忘れられた名曲♫いつかは変わるだろうよ と♫まさにあなたに合わせるわ の様々なバージョンの聴き比べ大会‼️
・ジャズのスタープレイヤー達を発掘したジョン・ハモンド、ベニーグッドマン、カウント・ベイシー、ビリーホリデイらは云うに及ばず、ジョンは戦後もアレサ・フランクリン、ボブ・ディラン、ブルース・スプリングスティーンらを輩出した!その辺の音源も飛び出すバラエテー豊かなスイングタイム⏱は19時START❗️
・other SWING TIME lineup
♫アンドリュースシスターズ&グレン・ミラー
♫ルイプリマ ♫ハリージェイムス
♫D.エリントン&C.・ベイシー両楽団の激しいバトルロイヤル
♫スイングエイジの楽団テーマ曲集
♫ベニーグッドマン&カウント・ベイシーのコラボ録音プラス、伝説のギタリスト チャーリークリスチャンのベリーグッドなその妙技。
その他スイングエラの音源多数、お楽しみに(* 'ᵕ' )☆









Memories of You

マサヤス 龍之介
☆『スウィングジャズの花形ボーカリスト4️⃣』
テディウィルソンは昨日紹介したフランセスハントとのレコーディングのほぼ1ヶ月前に同じロスのスタジオで、ブーツキャッスルとの4曲を録音している。最後の♬Coquette のみインスツルメンタルでブーツの声は聴かれない。ブーツキャッスルは資料が殆ど無くテディとのセッションもこの時唯一度きりだけだ。Vo.は昨日のハントと似た様なアルト、正直魅力に欠ける。大成しなかったのも何となく判る。この時期のテディの選曲はティン・パン・アレー系の安手の有り触れた曲を使っているが、それを強力なミュージシャンの演奏力とアレンジで補っている。ブーツキャッスルが唯一録音した'37.7.30の録音にはベニーグッドマンがcl.で入ってそれなりの効果を挙げているが、ハリージェイムスのtp.とヴィドムッソのts.の各ソロもバランス良く配されOrch.編成なのにコンボの様な趣きがある。それが一番顕著に出ているレコードが本日紹介する♬The Hour of Parting であろう。テディウィルソンについてはドイツの著名なジャズ評論家のヨアヒムEべーレントが、エリントンの優れたバンドインコンボのような統合感とは違い、ソロの応酬が特徴でそれでいて優れたユニットを形成している、と賞賛している。
この時期のテディの録音には白人系の中間派ミュージシャンを集めたパターンとビリーホリデイがVo.を取る時には黒人系のカウント・ベイシー系中間派ミュージシャンが付き合っているパターンと、カラーが分かれる。そこから有名なビリーホリデイとレスターヤングの寛ぎに満ちた傑作録音が生まれた。後世に長く語り継がれたのは後者の方であったと云うことであろう。



The Hour of Parting

マサヤス 龍之介
☆『スイングジャズの花形ボーカリスト.21』
ハリージェイムスの専属になったヘレンフォレストとハリーの仲は程なく、誰の目で見てもそれが恋仲であることは周知の事実となる。二人の関係は実際にそうだったし、ハリーはやがて彼女に婚約指輪まで渡すほどの関係にまで発展していた。ハリーは彼女を楽団に迎入れる際には、彼女の為にヴォーカルがちゃんと映える様な編曲を施した。それまでベニーグッドマンやアーティーショーのバンドではそんな破格の扱いをされたことも無かったから尚のことヘレンはハリーを恋慕うようになる。ハリーの配慮の行き届いた編曲はヘレンにとって大変唄い易く且つ、聴いているリスナーにとってもたまさかの幸福感を与えた。送り手と受け手が共にWin-Winの相対性となったのは云うまでもなく、アメリカン音楽史、いや、世界的音楽史を俯瞰してもこのスイングエラに於けるハリージェイムズ楽団の音楽こそ最も幸福の純度が濃い時期と私は見ている。更に客観的に捉えれば、それまでそうした甘いバラードを得意としていたトミードーシーの楽団は"女泣かせのトミー"と云われる程の甘さでリスナーを惹きつけていた。しかし、dsのバディリッチを雇いフランクシナトラを引き抜き、更にパイドパイパーズと云うジョースタッフォードがメンバーだった男女混合コーラスを売りにする様になったトミーはややジャズマティックに路線変更してゆく。勿論スローバラードはシナトラの持分であり、パイドパイパーズのコーラスを添えた極上のラブソングもそれなりにあったが、その役割は後発のハリージェイムズ楽団の方へと移譲してゆく。ビルボードがチャート式ランキングを大々的に宣伝してゆくと、全ての決定権はボビーソクサーやヤンキーな若者達がヘビーユーザーとなっていった。そんな時代の過渡期に売れたハリージェイムズ楽団のレコードを少し拾ってみよう。女性ヴォーカルからは少し逸れるが、ヘレンフォレストの活躍期とほぼ同時並行だから良かろう。ハリージェイムズ楽団の売りは文句無しにリーダー兼プロデューサーのハリージェイムズの正に"張り"とその切れ味鋭いtpフレーズにある。そのシャープなtpを生かしたブラスセクションと大胆にも編曲に取り入れたストリングスの甘さを小気味よくチェイスさせたスピード感が信条である。それは1942年2月24日録音の♫Truwpet Blues and Cantabile で堪能することが出来る。その前月1月24日録音の♫By The
Sleepy Lagoon は出色の出来でこれはビルボードランクで見事に1位を記録した。和訳すると眠れる静かな入江 となる。リゾーティアスで幻想的なアレンジが施されそれは夢見る楽園を安易に想像させた。この頃第二次世界大戦が始まって数年、日本などの枢軸国と戦闘状態に入っていたアメリカ国民たちの束の間の現実逃避にはもってこいのレコードだったのだろう。
又、季節はぶっ飛んで7月22日録音の♫Cherry
はストリングスとブラスセクションが交互に織りなすミディアムスロウなナンバーで、ハリーのtpソロが最高にイカした楽曲で、魅力に富んだメロウでハイブロウな逸品✨✨。
そして、季節が又戻って6月5日に録音された
♫I Cried For You 君に泣く😭 はヘレンフォレストの泣き節に呼応するかの様なトロンボーンミュートやサックスセクションのオブリガードが哀しくも愛らしく響く魅惑のメロディ🎼でOPのハリーのソロに着いてくるブラスセクション&ストリングスが美しい🤩ハリージェイムズ楽団のヘレンフォレスト効果が上がる一曲となっている。この曲は当時のハリウッド映画でもバンドが丸々演奏するシーンが挟まれた。タイトルも思い出せないがレコードのバージョンとは明らかに違うし、テクニカルカラーだが、旬な頃の楽団とヘレンフォレストが登場するレアな映像なので、是非ご高覧頂きたい。
次回は更にヘレンフォレストのハリージェイムズ楽団ナンバーを深読みする。
続



I Cried for You (feat. Helen Forrest)
