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マサヤス   龍之介

マサヤス 龍之介

Uber Jazz ♯ 41

 ☆『スイングジャズの花形ボーカリスト.16』
 

ハリージェイムスバンドは国中を演奏して回った。ワンナイトスタンド即ち一晩演奏すると翌日はまた違う町。食事は酷くて寝るのはバスの中、コンサート後ニューヨークに戻ってダンスホールのローズランドで深夜の演奏、ということもあった。これは何もハリージェームズに限った話では無かった。当時楽団員で後にスタープレイヤーになったバディ・リッチやジーン・クルーパなどの往年の人達がスイングエイジを振り返るとき、口を揃えて出る話なのである。シナトラがハリージェイムス楽団に入団前の1939年2月4日、かねてより付き合っていたナンシーバーバトーと結婚した。ハリージェイムス楽団の活動や所謂、楽隊稼業には付き物の楽旅が付きまとう。まだ新婚だったシナトラは当然の様に妻のナンシーを連れ添った。楽団を立ち上げて間がない時期のハリージェームズ楽団で何もかもが不足していた時期だったがしかし、シナトラはとても幸せな状態にあったと言える。妻を迎え念願の家族を持つことが出来たからだ。週給75ドル。2人暮らしなら十分やっていける程の給料だった。シナトラが在籍した時期のハリージェイムス楽団はそう言う時期であった。
西海岸ロスアンゼルスにバンドが着いた時には、出演先のパロマーボールルームが火事で無残にも焼け落ちてしまうと言うアクシデントに見舞われた。そして、代替仕事としてビヴァリーヒルズにある高級レストラン、ヴィクトルユーゴーに仕事を見つけたものの、ソフィスティケートされたレストランではハリー楽団の音楽は喧騒が激し過ぎて日に日に客足は減るばかりであった。
 最終的には、そこでの仕事も途中破棄され報酬も不問に伏された。
 この時の楽団のマネージメント能力にも疑問符が残るがハリージェイムス楽団はここで、重大な経済的危機に立たされてしまう。
 ハリーはそんな困難な中、踏ん張り続けて女性歌手コニーヘインズを含む数人のミュージシャンを解雇しながらも東へ進む。それでも偶にはニューヨークで開かれた世界大博覧会と言う身入りの良いイヴェントに呼ばれたりもした。
 シカゴに着いたハリージェイムス楽団ご一行様はシャーマンホテル内のパンサールームでの仕事にありついた。
 丁度同じ期間、シャーマンホテルから数ブロック先のパルマーハウスでトミードーシーが楽団を率いて出演中であった。
 この時期のドーシー楽団は人気歌手ジャックレオナードに去られて困惑していた。
 ジャックは実力派人気トランペッターだったバニーベリガンの華麗なソロが入った♫マリー がヒット中で、すっかり株が上がったばかりだったがこの勢い宜しくジャックは独立を目論でいると言う根も歯もない噂が出回りそれを信じてしまったドーシーはジャックをしつこく詰問し、遂にジャックはそんな親分の元ではやっていけないと、退団する結果となってしまったのだ。
 そんな折、ドーシーは予てからハリージェイムス楽団でのシナトラ のレコードを聴いて気に入っていた。ドーシーは人を立ててパルマーハウスでのオーディションの話をする。
 シナトラは悩んだ。
 当時のドーシー楽団はボーカルにはお誂えの環境であり、バンドシンガーなら一度はドーシー楽団で歌いたいと願った。
 又、提示された週給は目の玉が飛び出るほどでありなんとその額週給125ドル、ハリーの所より50ドルも上乗せされていた。
 当時妻のナンシーのお腹には最初の子を身籠もっていたので、そのタイミングでの移籍話はまさに天の配剤でもあったが、シナトラがハリージェイムスと別れることは決して本意では無かった。
自分を見出してくれたボスを見限ってライバルバンドへ移籍する、しかも契約期間はまだ1年半も残っていた。それでも思い切ってハリーに直談判をしに行った。
 どれだけ自分本位な主張であろうか?……
 ボスはきっと烈火の如く怒るであろう…
 契約はまだ1年半も残っているのに…
様々な想いを胸にハリーと対面したシナトラ にハリーは意外なリアクションをした。
「君はトミーのところへ行きたいんだろう?」
「申し訳ないが出来ればそうしたいんだ」
「私のところじゃ大して稼げないからな笑…」
 そこでハリーは手を差し出した。
 握手を求めたのである。
 それは、将来有望のシナトラのことを思ってのハリーからの花向けであった。
 シナトラ はそれでもハリーの所に自分の後釜が見つかる迄楽団に留まった。
 ハリーとシナトラ の友情はハリーが亡くなる1983年まで終生変わらなかったと言う。
 やがて、ハリーの元にはディックヘイムズがシナトラの後釜として入団することが決まった。ディックは後にハリージェイムス楽団で
♫アイルゲットバイ を歌い見事にビルボードチャート第一位を獲得する。
 因みにビルボード誌がヒットチャートを始めて最初の第一位はトミードーシー楽団にパイドパイパーズのコーラスとフランクシナトラがボーカルを取った♫アイルネバースマイルアゲイン であった。
 年が明けた1940年1月 バッファローでのステージがシナトラとハリージェイムス楽団との最後の仕事となった。ステージがハネてハリーたちは次の公演地ハートフォードへ、シナトラ は妻の待っニュージャージーへ行く時が遂に訪れた。シナトラの回想談である。
 「雪の降る夜だったと思う。バスは私だけを残して行ってしまった。私は皆にサヨナラとつぶやいたが、周りには誰もいなかった。私は雪に覆われたスーツケースを持ってひとりぽつんと立ったまま、遠く離れて行くバスのテイルランプをじっと見ていた。すると、突然目に涙が溢れ気がつくとバスの後を追い始めてた。。。あのバンドには気概と熱気があった。皆んなと別れてしまった自分がつくづく厭になった」
こうしてシナトラは更なるステップアップを求めてトミードーシー楽団へと移籍して目論見通り、いや、本人も予期しなかったほどの人気を呼ぶことになる。ハリーはハリーで、バンドカラーをより鮮明に打ち出す為に大胆にも20人近いストリングスをバンドに組み入れてスイートミュージックを中心に男女ボーカルを交互に録音して行く。一方ハリーの鋭いtp.の響きを生かしたジャンプナンバーやムーディーなスローバラードなどのインスツルメンタルナンバーを絶妙なバランスでリリースして行った。すると1940年に始まったビルボード誌の週間ランキングでみるみるハリーのバンドは人気が急上昇し出す。
次回からはディックヘイムズなどのMale ボーカルと名花🌷と呼ばれたFamale Vocalヘレンフォレストなどハリージェームズの黄金期に突入する。
本回はシナトラとハリージェイムス楽団との最終吹込み曲♫エヴリデイ・オブ・マイ・ライフ をお聴き頂く。
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Every Day Of My Life (11-08-39)

ハリー・ジェームス

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コメント

🥀ジュヌ♋Cava

🥀ジュヌ♋Cava

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なんとも感動的な移籍時のエピソードでしょう。栄枯盛衰とは言いますしビジネスライクなアメリカのショービス界でこのようなお話を聞けるとは? シナトラへの先入観が変わりつつあります。

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マサヤス   龍之介
マサヤス 龍之介
トミードーシーから独立した時は例のゴッドファーザーでのエピソードが有名ですが、それ以前にはこの様に純粋な気持ちも持ち合わせていたのは救われますね。
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🥀ジュヌ♋Cava

🥀ジュヌ♋Cava

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昨日、皆さんがお休みになってる頃伺ったんですが、美空ひばりさんと思しき女性シンガーの「水たまりの歌」と、藤山一郎さんなのかな?薔薇色の月の夜という歌詞の歌が流れていてとても素晴らしい歌でした[大笑い]

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マサヤス   龍之介
マサヤス 龍之介
ありがとうございます😊 昨夜は寝落ちしていた2人が残っていた時点で私もアナウンスを辞めてひたすら音楽を流してました。ノンアナウンスでひばりさんや藤山さんの声を聴き分けるジュヌさんは流石です。ひばりさんのは ♫小さな水溜まり '53 藤山一郎は ♫ばら色の月 '53 でした。
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