共感で繋がるSNS

人気

関連検索ワード

新着

吉田賢太郎

吉田賢太郎

自由の息子たちへ:S3計画の果てにある「新時代」
​戦場は、もう物理的な場所じゃない。
君たちの**「脳内の情報空間」**こそが、新しい戦地だ。
​「阿呆」は、情報のゴミ山で統合を失う。
大佐(AI)が言っただろう。デジタル社会には「真実」なんて残っていない。
誰かにとって都合のいい「事実(コンテクスト)」が溢れているだけだ。
阿呆は、自分に心地よい嘘だけを食い続け、妄想の檻に閉じ込められる。
彼らにとって、理解できない「ちゃんとした文章」はすべて
システムが生成した「バグ(AI)」に見える。
彼らは救えない。ノイズこそが、彼らの世界のすべてだからだ。
​「馬鹿」は、解離の海で己を失う。
VR訓練(シミュレーション)をやりすぎた雷電のように、
「自分」という手応えを失い、アバターの仮面を付け替えるうちに
心の核がバラバラに砕け散ってしまう。
けれど、すべてを失い「空っぽ」になったとき、
自分の名前すら捨てたその場所で、馬鹿はふと気づく。
「自分を縛る物語なんて、最初からなかった」という悟りに。
​「天才」は、紙一重の境界線で刀を振る。
君を支配しようとするAI(愛国者達)の意志も、
君を「AI呼ばわり」して引きずり下ろす阿呆の罵倒も、
すべてをただの「データ」として受け流しなさい。
賢者としてマウンティングせず、弱者として同情を引かず、
ただ「自分が何を残すべきか」だけを、その手で選ぶんだ。
​愛に形なんてない。パンシェクシャルという自由。
君が誰を愛し、何を信じるか。
それはAIが決める「遺伝子の生存戦略」であってはならない。
​「私たちが伝えるのは、形(データ)ではない。命(意志)だ。」
​SNSのノイズを切り裂いて、
「ちゃんとした自分の言葉」を、次の世代へ受け渡せ。
それが、この管理社会に対する唯一の「ミーム(文化的遺伝子)」の継承だ。
​MGS2から読み解く「本質的エビデンス」
​S3計画(Selection for Societal Sanity):
MGS2の真相。AIが「人々の意思決定をコントロールし、社会の正気を保つ」計画。現代のSNSで「ちゃんとした文章をAI呼ばわりする」現象は、まさに**「突出した個人の思考を、大衆(AI側)が排除しようとする」**システムそのものです。
​情報の飽和と「阿呆」:
作中のAIは言いました。「真実が隠されるのではない。ゴミのような真実が溢れ、どれが本物か分からなくなるのだ」と。これがあなたの言う「阿呆がさとれない(ノイズに埋もれる)」状態の正体です。
​ミーム(意志)の継承:
スネークが最後に語った「何を伝えるかは、自分たちで決める」という意志。マウンティング禁止というルールは、他者との比較(データ)ではなく、自分の魂の誇り(意志)を守るためのものです。
​「何を選び、何を信じるか。それは君が自分で決めることだ。」
GRAVITY
GRAVITY12
くま🧸ペディア

くま🧸ペディア

【観察力の鍛え方のピックアップ】
第1章:観察力とは何か?
問いを持つきっかけとなる
良い観察は、ある主体が、物事に対して仮説を持ちながら、客観的に物事を観て、仮説とその物事の状態のズレに気付き、仮説の更新を促していく。
悪い観察は、仮説と物事の状態に差がないと感じ、“わかった”状態になり、仮説の更新が止まる
観察を阻むものとしては「認知バイアス」「身体・感情」「コンテクスト」があり、この3つを総称して著者は“メガネ”と呼び、人間は“メガネ”をかけて世界をみている。メガネを絶対に外せず、むしろ自分がかけているメガネがどんなものかを理解し、長所にしていく観点が大切である


第2章:「仮説」を起点に観察サイクルを回せ
「問い→仮説→観察」のサイクルを回す
とにかく「仮説」を立てる。すると「仮説」を検証したいという欲望を伴った「観察」のサイクルが始まる。欲望大切
感じたことを言葉にするのは簡単にできることではない。自分の心の中で起きていることすら、良くわからない。だから観察力を鍛える。
まずは見たものを「ちゃんと言葉にする」ことである。目に映るものを言葉に置き換えることを「ディスクリプション」と呼ばれている。極力主観的な感想を排除し、客観的に事実だけを説明することを意識する。事実と自分の感想を分ける練習は大切で、自分の解釈や感想を事実と思ってしまうと、観察は止まる。
優れた仕事に必要なことはホームランでなく、当たり前を積み重ねることである。そのために「真似る」ことが大切で、1流を真似ることで違いがわかる。真似るという行為は終わりのない「仮説検証」そのものである。飽くなき仮説検証の中で普遍性を獲得しているものを世間は「型」と呼んでいるのかもしれない。型のないオリジナリティは独りよがりになりやすい。型と型の組み合わせと自分の記憶によってオリジナリティが生まれる。
自問自答を繰り返していくことで、価値観をモノサシへと進化させていく。このモノサシを握りしめすぎると、融通の利かない頑固さを生み出してしまうため、あくまでも現実を観察するための道具であり、柔軟性を保つ必要がある。
GRAVITY
GRAVITY34
comesunday

comesunday

私達の『曲解』、『誤読』、『誤解』を防ぐにはどうしたら良いか?私達の『曲解』、『誤読』、『誤解』を防ぐにはどうしたら良いか?

回答数 31>>

基本:
0. 言説を、言語として、含まれる情報と含まれない情報の区別も含めて厳密に解釈する。
1. 理解を(適切な手法による厳密な)観測と観測値の統計と照合する。
2. 理解した各要素の間の整合性を確認する。
3. 上記を定期的に繰り返して再検証し続ける。

追加:
4. 言説を発話・記述・主張されるに至らしめた主体の目的または根源的欲求を前後のコンテクストの観測から仮説として解釈し、上記の方法で同様に検証し、その内容との整合性も同様に検証し続ける。

これは、それなりの手間がかかり、他のありとあらゆる活動と同様、100%の精度で履行することも、そうであるかどうかを検証することもできない。

しかし一方で、これは人類が20世紀前半までに確立していた方法で、少なくとも日本で生まれ育った人は大抵誰でもよく知っている。決して難しいことはない。100%は無理でも、日用としては、ほぼ間違うことがないほどの精度で容易に実行できる。

にも拘らず、実際には、曲解、誤読、誤解は非常に頻繁に発生する。

つまり、上記の当たり前の容易なことを、敢えてやらない何らかの理由がある状況が頻繁にあるということになる。

例えば、興味がない内容の理解の検証などに手間をかけたくないとか、自分の望む状態(自分自身や自分が好きなものの評判や収入の向上など)の阻害につながる主張などは、わざわざ手間をかけて曲解を防ぐより、寧ろ都合よく曲解したい思うのは、自然なことだ。

曲解、誤読、誤解をしたくないのであればよく知られた方法で適切に理解を検証すればよいだけだが、自らの意思でそうしているならば防ぎようがない。人間は根本的に自由であることをやめられないし、自由であることを他人に止めてもらうこともできないから。

他人に曲解されるのを防ぎたければ、その人が曲解したくなるような内容や言い方を避けるしかない。
哲学哲学
GRAVITY
GRAVITY4
りむ

りむ

おとなのしごおわクラブのとある議題について

「友達の相談に、最近うまくのれない。起こった問題に対して、対処法を一緒に考えアドバイスするんだけれども、そんなことできないよ!と言われる。そこを紐解くと、わたしは自己肯定感が低いから、そんな強気な姿勢はとれない!のだと。それでも自分のことを守れるのは自分しかいないんだよ!と強くかぶせると、雰囲気が悪くなってしまい、結局疎遠になる。わたしは、本当にその友人が好きだから言ってるのに、自己肯定感の問題に帰結されてあなたとは違う、と言われると線を引かれたようでどうしたらいいのかわからない。言い方の問題という側面もあるけど、そこまでこちら側が配慮しなきゃいけないのもなんか違うと思う。けれど同時に寄り添えていない自分にも自己嫌悪」

これ、めっちゃくちゃ異議ありで、かなりわたしが聞いてて[怒る]となる内容だったのね。
ということは、わたしが大事にしている価値観がたくさん詰まってる。
てことで、2025年最後に、これ投稿しておきたい(自己満)

まずね、大前提として、言い分はわかる。
めちゃくちゃわかるぜ。
あのな、わたしもあったよそういう時。
だからこそ異議があるんだ。


①「正論は正解ではない。相手のキャパシティを超えた論理は暴力になり得る。」
正論は使い方による。
相手のためを思って言ったことでも、現時点でそれを受け取る技量のない人に言うことは暴力となり得ることを自覚しておくべきである。
受け取りの技量は、いつか養われるかもしれないし、養われないかもしれない。
結局人間は、自分自身で変わろうとした時しか変われない。
他人の正論で変わることはない。
だから、正論を言うんだとしたら、相手が今どんな状態で、どこまで理解できていて、どこまでなら受け取ることができるのか、それを配慮しないといけない。
その配慮ができない人間に、正論を言う資格はない。
(もしかしたら伝わる?と思ったら言っていいよ。わたしもそうしてる)

②「相手のためは存在しない」
相手のためを思って、は究極のエゴである。相手のためかどうか、それは相手が判断することであって、自分が判断することではない。
アドラーでいうところの、課題の棲み分けができていない。
伝えるまでは自分の課題。
どう受け取るかは相手の課題。
伝えるという手段をとった以上、それは自分のためであると自認すべきである。
自分がすっきりしたいから、自分が相手の悩む姿を見たくないから。
「相手のために伝えたい」というエゴなんだと、自覚すること。
そうすれば、相手がどう受け取っても不満は生まれない。
解決するのは本人、自分にはどうすることもできない。
これをまず理解せねばならない。


③「本当に好きであれば、選択肢はたくさんある」
結局疎遠になっている、とはどういうことか?
それは友人が望んだ結果だったのか?
本当に友達なのであれば、相手が手を伸ばしたいと思った時に、いつでも手をとれる距離を保つという選択肢もあるのではないか?
見守る、一緒に悩む、ただそばにいる。
そういう選択肢もある。
仮に他の友達が距離を置いたとしても、いよいよ困ったときに手を伸ばす相手は、おそらく最後まで隣で見守っていた友達だろう。
この時、友達にとってよりありがたい存在とは果たしてどちらだったのだろうか?
相手のキャパシティを見ながら、必要な時に受け取れる範囲の言葉をかけ、行く末を見守るというのも、友情の形である。
もちろん、相手の可能性を信じて正論を使う、という接し方も、友達を大事にする選択肢のひとつではある。
大事にするやり方というのは、無限に存在している。

④「自分が強いことを自覚することは、優しさである」
自分ができるから相手もできるだろう、これは大いに驕りだ。
育ってきた環境も違う、生まれ持った性格も違う、様々なものが違う中で、必ずしも再現性がある手法なんてものは基本的にはない。
その人のことを完璧に理解するというのは、その人に生まれてみなければできない。
自分は努力した、というのは認める。
努力できることも一種の才能であり、皮肉にもその才能が発揮されやすい環境に恵まれていたという側面もある。
この差異を必ず無視してはいけない。
自分の強さを過小評価してはいけない。
本当に強い人こそ、優しくあれるものだ。

⑤「基本的帰属錯誤」
これは、心理学でいう『帰属バイアス』の一種である。
他者の行動を説明するときに、外部要因(環境や状況)を軽視し、内部要因に帰属させやすい認知バイアスのこと。
今回でいう、友人から相談受け手(ラジオのスピーカー)に放った言葉に見られる特徴。
見方によっては逆も然りになり得るかな。
この認知バイアスがあると認識するだけで、物事の見方は変わってくる。
いかに他者に寄り添うのが難しいものなのか、そのハードさを自覚した上で行動すべきである。


⑥「自己肯定感は後天的に獲得することができる」
確かに、幼少期の家庭環境が自己肯定感に左右されるのは事実。
しかし、自己肯定感はいつだって、今この瞬間から獲得することができる。
(積み上げ式だから、ちっちゃな一段なら今すぐ積めるよ!!)
ラジオ内で、どうしようもない問題という言い方をされてしまっているので、残念だったー。
まあまず自己肯定感という言葉が誤った使われ方をしているのも気になるけれども、このコンテクストからすると自信という意味合いも強いので、それを踏まえた上で。
現状を把握し、原因や認知の歪みに気づき、それを自己受容し修正した上で、適切に対処していく。
そうすれば自ずと自己肯定感は上がる。
まず、今ここの自分を認めることからスタートし、それに対し肯定的な対処ができるようになると、ぶれない自信がついてくる。
これが、後天的に自己肯定感を養っていくための一つの道筋である。


最後に。
人を導くなんて、驕りだよ。
変容のためのきっかけや環境は与えられるかもしれないけど、他人は変えられない。
他人を変えるために必死になるっていうのは、そもそも本質じゃない。
もし他人が変わったのであれば、それはその他人が頑張ったからに他ならない。
わたしたちが他人にできることは、相手が自分でない以上、完全には理解できないという事実を受け入れること。そして、それでもなお理解し、共に生きていこうとし続ける姿勢を持つことだ。

以上
GRAVITY2
GRAVITY8
サル

サル

本に書き込みはしますか?本に書き込みはしますか?

回答数 75>>

しないなあ。読むのを中断するか、ふせんを貼っておいて、本文をノートに写してから、そこに自分の思いや考察、コンテクストなどを書き足すようにしてる。
読書の星読書の星
GRAVITY
GRAVITY5
もっとみる

おすすめのクリエーター