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りむ

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おとなのしごおわクラブのとある議題について

「友達の相談に、最近うまくのれない。起こった問題に対して、対処法を一緒に考えアドバイスするんだけれども、そんなことできないよ!と言われる。そこを紐解くと、わたしは自己肯定感が低いから、そんな強気な姿勢はとれない!のだと。それでも自分のことを守れるのは自分しかいないんだよ!と強くかぶせると、雰囲気が悪くなってしまい、結局疎遠になる。わたしは、本当にその友人が好きだから言ってるのに、自己肯定感の問題に帰結されてあなたとは違う、と言われると線を引かれたようでどうしたらいいのかわからない。言い方の問題という側面もあるけど、そこまでこちら側が配慮しなきゃいけないのもなんか違うと思う。けれど同時に寄り添えていない自分にも自己嫌悪」

これ、めっちゃくちゃ異議ありで、かなりわたしが聞いてて[怒る]となる内容だったのね。
ということは、わたしが大事にしている価値観がたくさん詰まってる。
てことで、2025年最後に、これ投稿しておきたい(自己満)

まずね、大前提として、言い分はわかる。
めちゃくちゃわかるぜ。
あのな、わたしもあったよそういう時。
だからこそ異議があるんだ。


①「正論は正解ではない。相手のキャパシティを超えた論理は暴力になり得る。」
正論は使い方による。
相手のためを思って言ったことでも、現時点でそれを受け取る技量のない人に言うことは暴力となり得ることを自覚しておくべきである。
受け取りの技量は、いつか養われるかもしれないし、養われないかもしれない。
結局人間は、自分自身で変わろうとした時しか変われない。
他人の正論で変わることはない。
だから、正論を言うんだとしたら、相手が今どんな状態で、どこまで理解できていて、どこまでなら受け取ることができるのか、それを配慮しないといけない。
その配慮ができない人間に、正論を言う資格はない。
(もしかしたら伝わる?と思ったら言っていいよ。わたしもそうしてる)

②「相手のためは存在しない」
相手のためを思って、は究極のエゴである。相手のためかどうか、それは相手が判断することであって、自分が判断することではない。
アドラーでいうところの、課題の棲み分けができていない。
伝えるまでは自分の課題。
どう受け取るかは相手の課題。
伝えるという手段をとった以上、それは自分のためであると自認すべきである。
自分がすっきりしたいから、自分が相手の悩む姿を見たくないから。
「相手のために伝えたい」というエゴなんだと、自覚すること。
そうすれば、相手がどう受け取っても不満は生まれない。
解決するのは本人、自分にはどうすることもできない。
これをまず理解せねばならない。


③「本当に好きであれば、選択肢はたくさんある」
結局疎遠になっている、とはどういうことか?
それは友人が望んだ結果だったのか?
本当に友達なのであれば、相手が手を伸ばしたいと思った時に、いつでも手をとれる距離を保つという選択肢もあるのではないか?
見守る、一緒に悩む、ただそばにいる。
そういう選択肢もある。
仮に他の友達が距離を置いたとしても、いよいよ困ったときに手を伸ばす相手は、おそらく最後まで隣で見守っていた友達だろう。
この時、友達にとってよりありがたい存在とは果たしてどちらだったのだろうか?
相手のキャパシティを見ながら、必要な時に受け取れる範囲の言葉をかけ、行く末を見守るというのも、友情の形である。
もちろん、相手の可能性を信じて正論を使う、という接し方も、友達を大事にする選択肢のひとつではある。
大事にするやり方というのは、無限に存在している。

④「自分が強いことを自覚することは、優しさである」
自分ができるから相手もできるだろう、これは大いに驕りだ。
育ってきた環境も違う、生まれ持った性格も違う、様々なものが違う中で、必ずしも再現性がある手法なんてものは基本的にはない。
その人のことを完璧に理解するというのは、その人に生まれてみなければできない。
自分は努力した、というのは認める。
努力できることも一種の才能であり、皮肉にもその才能が発揮されやすい環境に恵まれていたという側面もある。
この差異を必ず無視してはいけない。
自分の強さを過小評価してはいけない。
本当に強い人こそ、優しくあれるものだ。

⑤「基本的帰属錯誤」
これは、心理学でいう『帰属バイアス』の一種である。
他者の行動を説明するときに、外部要因(環境や状況)を軽視し、内部要因に帰属させやすい認知バイアスのこと。
今回でいう、友人から相談受け手(ラジオのスピーカー)に放った言葉に見られる特徴。
見方によっては逆も然りになり得るかな。
この認知バイアスがあると認識するだけで、物事の見方は変わってくる。
いかに他者に寄り添うのが難しいものなのか、そのハードさを自覚した上で行動すべきである。


⑥「自己肯定感は後天的に獲得することができる」
確かに、幼少期の家庭環境が自己肯定感に左右されるのは事実。
しかし、自己肯定感はいつだって、今この瞬間から獲得することができる。
(積み上げ式だから、ちっちゃな一段なら今すぐ積めるよ!!)
ラジオ内で、どうしようもない問題という言い方をされてしまっているので、残念だったー。
まあまず自己肯定感という言葉が誤った使われ方をしているのも気になるけれども、このコンテクストからすると自信という意味合いも強いので、それを踏まえた上で。
現状を把握し、原因や認知の歪みに気づき、それを自己受容し修正した上で、適切に対処していく。
そうすれば自ずと自己肯定感は上がる。
まず、今ここの自分を認めることからスタートし、それに対し肯定的な対処ができるようになると、ぶれない自信がついてくる。
これが、後天的に自己肯定感を養っていくための一つの道筋である。


最後に。
人を導くなんて、驕りだよ。
変容のためのきっかけや環境は与えられるかもしれないけど、他人は変えられない。
他人を変えるために必死になるっていうのは、そもそも本質じゃない。
もし他人が変わったのであれば、それはその他人が頑張ったからに他ならない。
わたしたちが他人にできることは、相手が自分でない以上、完全には理解できないという事実を受け入れること。そして、それでもなお理解し、共に生きていこうとし続ける姿勢を持つことだ。

以上
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りむ

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これ、めちゃ前にメモしてた内容ー 夏だったか??

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