人気

紅緒べにを🦚
咄嗟に、鍵もせず家を出た。〇時五分。キッチンの窓格子から聞こえる主人の笑い声は、私には余所余所しい。
ここに、私の住所はあっても、居場所はない。 悔しさと憎しみと、悲しみと怒りと苛立ちのまま奥歯を噛み締めた。涙が滲む。
行く宛てもないのに、ズンズンと進む足に任せ、近所の小さな公園にたどり着く。
適当なベンチに腰を下ろし、なんとなく大きな集合住宅を見上げた。立派なファミリーマンションには、まだ明かりが点いている部屋もあった。それぞれの窓のカーテンの開き具合や、窓際に飾られたぬいぐるみのシルエットに、きちんとした人の営みを見て、羨ましくなった。
私は今、人に憧れているだけの、人ですらないものなのかもしれない、と怖くなる。
初夏の夜は冷える。適当に羽織ってきたパーカーのチャックを閉じていると、ポケットに何かが入っていることに気付いた。
古い携帯音楽プレーヤーとイヤホン。先日の帰省でたまたま発掘し、持ち帰って充電したことを忘れていた。学生時代の相棒は当時のまま、あの頃の思い出を背負って、今、主婦の手の中にあった。
電源を入れると解像度の低いメーカーロゴが表示される。プレイリストを遡ると、記憶の底で鈍く光ったタイトルがあった。
懐かしさに衝き動かさるまま、イヤホンをし、再生ボタンを押す。エレアコのシンプルなストロークが始まった。
気怠げなスリーピースバンドのちょっとしたヒット曲だ。ロックナンバーをアコースティックに編曲したアルバムは、曲順を覚える程度には繰り返し聴いた。
目を瞑り、歌詞を追う。どこまでも抽象的なそれは『フワフワと』掴みどころがない。
少し掠れたボーカルの声も、ドラムのリズムも、ジワジワと熱を持ち、タイトル通りに色付くサビに入るころ、不意に肩を叩かれた。
ビクりと縮こまり、そっと見上げると自宅でテレビに笑っているはずの主人がいた。困った顔で、困ったように立ち竦んで、ただ私を見る気難しい男に、思わず吹き出す。いつの間にか、家を出たときの沢山の感情は小さく畳まれて胸に仕舞われていた。
「私に何か言うことはありますか?」
「ごめんなさい」
「私こそ、ごめんなさい」
ベンチの隣に促し、イヤホンの片耳を差し出すと、主人は不思議そうな顔をした。
「この曲知ってる?」

紅緒べにを🦚
ぎっと堪えた吐き気が鼻腔を抜ける。喉に残る異物感も目頭に溜まった涙も、不快だった。しかし不本意に、痺れるような快感が脳を支配する。背中に当たるフローリングはどこまでも冷えていた。
嗚咽とも喘ぎともつかない声を、口元に置いた手の甲で押し戻しながら、ただただじっと、二律背反な感覚の波が通り過ぎるのを待つ。
彼は私が拒まないことを知っていた。激しい虚しさを私に叩き付けるくせに、組み敷いた私の髪を柔く撫で、抱き締める。彼はきっと、私を正しく慈しんでいると思っている。
ベッドに息の上がった彼の裸がどさっと転がる。ワンルームの狭い床に、私は落ちたままだ。
「愛してる」
シングルサイズのパイプベッドは、毎日二人で使うせいか、酷く軋む。彼の囁きにもギィギィと雑音が混ざって、私に降ってきた。
私はただ黙って、西日で一筋の線が浮かぶ天井を仰いだ。
去年の春、一人暮らしを始めるために借りたアパートの四階は、階段もなく不便だが、天井が高く、小さな窓から日の光が差し込むところは気に入っていた。
どうしてこうなったのか。ズルズルと半同棲のような生活になってから、一年近くが経つ。いつからか、彼は突然不機嫌になると、黙って私の下着を剥ぎ取るようになった。彼とのこれまでをチクチクと思い返しながら、まどろみに身を任せる。
気が付くと天井に差す西日は消え、部屋は暗くなっていた。壁時計の秒針の音と彼の寝息だけが聞こえる。
私は音を立てないように起き上がり、足首に引っ掛かったままの下着を履いた。ベッドと反対の壁の間接照明を頼りに、ワンピースの乱れを直す。あちこちに散らばる衣服を集め、彼の足元に畳み、タオルケットをそっと掛ける。
−−−あなたのスマホの中の彼女たちは、こうやってタオルケットを掛けてくれますか?
胃の内容物と嫌悪感が腹の底から止めどなくせり上がってきて、トイレに駆け込む。自分の吐瀉物の臭いにまた、腹を絞られるような嗚咽が出た。
分かっている。一番嫌いなのは、求められることを求めて、そうすることでしか立っていられない私自身だ。トイレに流れていくのは、私から剥がれ落ちてしまった自己愛だ。これまで私を正しく慈しんでくれた人たちのぬくもりだ。
彼の寝息は規則正しいままだ。

紅緒べにを🦚
Audible愛好家です!
不定期でAudibleで聴了した作品のレビューや、オリジナルの1000字小説を投稿しています。
本や作家のお話もできるお友だちが増えると良いなあ🤔
↓ハッシュタグ参照
#べにを読書記録 #1000字小説チャレンジ
📖今読みかけの作品📖
【Audible】
◎流浪の月/凪良ゆう
【Audible更新待ち】
◎本好きの下剋上シリーズ/香月美夜
◎八咫烏シリーズ/阿部智里
◎RDGシリーズ/荻原規子
【持ち歩き文庫本】
◎白銀の墟 玄の月/小野不由美
◎フェルマーの最終定理/サイモン・シン
◎こころ/夏目漱石
🎧Audibleで聴了/今後レビューしたい作品🎧
◎同志少女よ、敵を撃て/逢坂冬馬
◎羊と鋼の森/宮下奈都
◎鹿の王/上橋菜穂子
◎高校入試/湊かなえ
◎ブロードキャスト/湊かなえ
◎モモ/ミヒャエル・エンデ
◎推し、燃ゆ/宇佐見りん
◎コンビニ人間/村田沙耶香
◎赤毛のアン/L.M.モンゴメリ
◎麦本三歩の好きなもの/住野よる
◎劇場/又吉直樹
◎ハリー・ポッターシリーズ/J.K.ローリング
……etc

紅緒べにを🦚
#GRAVITY読書部 #本好き
――――
人の思考回路とは不思議なもので、求めている存在が傍にあるときに限って、考えていることは兎に角どうでも良いことばかりだったりする。
「いらっしゃい」
今日の夕飯の献立だったり、作成中のレポートの期日だったり、気に入って観ていたドラマの最終回だったりが浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返し、その傍にある存在については深く考えない。
「珈琲でも飲む?あ、紅茶派だっけ」
潜在意識がそうさせるのか、意図的にそうなった照れ隠しなのか、そんなことはどうでも良いけれど、私にとって、この男がそういう存在だったことは確かだった。
「シャワー、先に浴びて良いかな」
彼が就職して、遠くに行くことが決まったのが一年半前。それをきっかけに、私たちの関係に必要だったなにかは、ぽつぽつとどこかに去っていった。
「煙草はベランダで吸って?」
実際には、変化なんてのは付き合い始めたときから、少しずつ、少しずつ重なり合って生じていたはずで。あまりにも近くに居過ぎた私たちが気付けなかっただけで。
「声、出さないで。この部屋、壁が薄いから」
その些細な変化に気付いてさえいれば、もっと巧く繕えたのかもしれないけれど。
無垢な男と幼い女でしかなかった彼と私は、子どもが玩具を取り合うように、それはもう目も当てられないくらいに激しく、醜く、お互いを責めては求め合うことしか出来なくなっていた。
「ねえ。もう一回」
そして、遠く離れた関係になって半年。あんなに執着した玩具にも、お互いいつの間にか飽きていた。
「どうして俺を呼んだの?」
私は、この男の質問に対してこう答えるしか無かった。
「ひとりに、なりたかったんだと思う」
人の思考回路とは不思議なもので、近くにあったときにはあんなにも思考から遠ざかっていた存在に限って、遠く離れた途端に脳裏に付き纏って離れなくなる。
「は?」
潜在意識がそうさせるのか、意図的にそうなった後悔なのか、そんなことはどうでも良いけれど、私は一人なのにその存在にひしひしと責めたてられてうざったい。
「もう、連絡すること無いと思うから」
ソファーに、ベッドに、ベランダに、玄関に。
「私、引っ越すの」
君に、あなたに。
『バイバイ』 紅緒

紅緒べにを🦚
#GRAVITY読書部 #本好き
小説レビューと並行して、オリジナルを書くリハビリにやってみようかなと。まずは、10年程昔の過去作品を載せておきます。
――――
「“ハッピバースデートゥーユー ハッピバースデーディア……”ねえ、誰にする?」
文香(あやか)は僕を振り返る。繋いだ僕の左手はいつでも前に引かれていた。見慣れた並木道、同い年の彼女は僕に背を向け、スキップする。散り始めた花びらが揺れる彼女のプリーツスカートに乗り、そして、前に引かれて躓く僕のローファーに踏まれ、黄ばんだ。彼女の膝はこの花よりもずっと白かった。
文香はホテルの帰り、必ず歌い、必ずこの質問をする。この遊歩道で。行為のあとの気だるさを振り払うにはスキップに合わせて歌うのが一番良いのだと、いつか聞いた気がする。それがいつから“ハッピーバースデー”の歌になったのかも、いつからこの質問が添えられる様になったのかも、僕は覚えていない。ただ、僕はずっと答えられないでいた。文香は答えを求めていない気がしていた。気味が悪いほどに真っ白なシーツの上、彼女の膝が薄桃色に染まっていたのを思い出す。
振り返った文香は斜陽に目を細め、薄い唇を動かした。その小さな音は数歩後ろを歩く僕には聞き取れず、白い花びらと共にゆらゆらと落ちた。躓いたまま体勢を立て直せなかった僕足を踏み出せず、左手の力を抜いた。転ぶのは、怖かった。
するりと抜け出た彼女のスキップはどこまでも軽やかで、あのプリーツスカートがひと月もすれば揺れなくなることにふと気づいて、左手を握り締めた。
もうすぐ履き納めのローファーは、やはり僕には少し重くて、引き摺ってしまう。
大人になるには十分な時間とともに、文香の顔も、声も、記憶の中でとうに薄れてしまった。彼女の膝の白さだけは今も厭に鮮やかで、花びらが散るたび、彼女と共に転べなかった子どもの僕をぬるく責め続ける。
この花びらが木蓮だと知るのは、僕らがずっとずっと大人になってからのことだった。
『白い寂寞』 紅緒
関連検索ワード
