もし完全な善が存在するとしたら、全て人類はそれに従うのか、またその世界に自由はあるのか。
もし誰もが認める完璧な善が存在したと仮定する。
その善に人類は従うことができるのか。
このとき、人類に本質的な自由は残るのか。
古今東西、哲学者は完璧な善とは何かを議論してきたが、もしこれが見つかれば我々の生きる指針が見つかるとともに、善とは何かを探索する自由も失われるのではないか?
完璧な善を疑うことは悪とされるような気もする。その時、真の意味での自由は悪になるのか。
なんだか、自由と善悪という概念はすごく食い合わせが悪いなぁと思ったので、質問します!

はるき
MoMA
今の日本の状況見ればわかる。
えぶりでいそろぱりぴ
…? / ̄ ̄\
/ 〇・ >
/ ε │
/ 〇・ >
(つ_と\__/
∪ ∪
自分で考えた善を信じるしか無いかな
極力だれかに負担をかけさせたり悲しませないようにって行動をしてるつもり

ぼーず
仮定を否定しまって申し訳ない。
完全な善は存在しない。
善と悪、感情と理性、真実と嘘、
戦争と平和、幸せと不幸、裕福と貧乏、
美と醜、自分と他者、
様々に反対のものが同時に存在し、
矛盾に満ちていて、そのままが本来の状態。
なので完全な善のある世界は、
この世ではない。
そこに循環や輪廻はなく、動きのない。
無の状態。
それはある意味では自由であり、
ある意味では不自由。

ねむ
全ての人類は、それに従っていません。
なぜなら個人の考えのもと逆らっているひとも
いるからです。完全な善が存在していたと
しても悪は無くならず、善と悪がある世界に
人は自由を見出してるんじゃないでしょうか...
多分ねw

愛善院
「自由こそが完全な善である」
他人称の知覚を全て除けばこれで通らないこともないような気がしています。
ただ
善たる意図があろうと悪である評価はつけられる
ので、完全なる善は天涯孤独で隔離されている状態。昔ヨーロッパで流行った「隠者飼い」の隠者のような。
さて、これは飼われているというのに「真に自由」であるか。
すると
選択の余地が他に考えようもない状態になっていればその一人称において自由であり、完全な善である、と、およそ人間的ではなくなってきましたね。
完全な善だと確信できるものがたとえあったとしても、それは「ひとりよがり」であり、どれだけ多くの賛同があれど従わねばならないものではなく、むしろ自由をいかに知覚するかによって善を究極や完璧に近づけようとする営為があるのではないか、と思われます。

ロック

シトー@修行者

憂い顔の騎士

おと
澄みすぎた水では魚は生きていけない。
表面的には善でも本質的には悪なものは存在するし、その逆ももちろん。
不完全な善にしか触れていない私たちは、完全な善の中で自由には生きられないのでは…?
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