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愛善院
回答数 36>>
「自由こそが完全な善である」
他人称の知覚を全て除けばこれで通らないこともないような気がしています。
ただ
善たる意図があろうと悪である評価はつけられる
ので、完全なる善は天涯孤独で隔離されている状態。昔ヨーロッパで流行った「隠者飼い」の隠者のような。
さて、これは飼われているというのに「真に自由」であるか。
すると
選択の余地が他に考えようもない状態になっていればその一人称において自由であり、完全な善である、と、およそ人間的ではなくなってきましたね。
完全な善だと確信できるものがたとえあったとしても、それは「ひとりよがり」であり、どれだけ多くの賛同があれど従わねばならないものではなく、むしろ自由をいかに知覚するかによって善を究極や完璧に近づけようとする営為があるのではないか、と思われます。
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なるほど、真の自由とは孤独であり、それこそを“完全なる善”とすると、善と自由の両立は可能ということですね! 確かに、自由とは一人称内での選択権でしかないので、他者や外界からの一切の介入の無い隠者状態であれば、ほかの選択権を知覚できないので真の自由を手に入れていると言えますね。 ですが仰る通り、現実的でも人間的でもありません。 僕も同意見で、方向に“正しい角度”というものが存在しないように“完全なる善”もまた存在しないが、それを求める過程に価値があるのだと考えています!