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コギト・エルゴ・スムについて。主体性の揺らぎという言葉を使ってコメント下さい

ゆか

ゆか

私も、チャト、TBSです。
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メガネが本体

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コギトエルゴスムは、デジットな考えなのかもしれません。存在するか否かの2つの状態しか取れず自己とその他にを明確に境界線があることを前提としています。一方で主体性の揺らぎが存在するというのはそもそもこの境界線が曖昧なときに起こりうるものだと思います。例えば富豪として生まれたものは富豪である環境を前提に自認しますが、仮に破産すればその自認を支えていた拠り所つまり境界線がなくなるわけですから当然に自認や主体性も揺らぐのかな、と思います。
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Elpha(エルファ)

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それはチャットGPTに聞いた方が良いかも
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くりねずみ

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デカルトの哲学には致命的な欠陥があります。

それは「神なしで考えようとしたのに、神に頼った」ということです。これはデカルト哲学の最大のアキレス腱として、古くから指摘されている点です。

デカルトは『省察』でこのように述べています

『これらの観念が相互にはなはだ異なっていることは明瞭である。というのは、疑いもなく、実体を私に示すところの観念は、ただ単に様態すなわち偶有性を表現するところの観念よりも、いっそう大きな或るものであり、しかして、いわば、いっそう多くの客観的実在性を己れのうちに含んでおり、さらにまた私がそれによって或る至高にして、永遠なる、無限なる、全智なる、全能なる、そして自己のほかなる一切のものの創造者たる、神を理解するところの観念は、有限なる実体を私に示すところの観念よりも、たしかにいっそう多くの客観的実在性を己れのうちに有しているからである。』

デカルトは、私たちの意識の中にある「観念」は、それが表現している対象の「格」に応じて、異なるレベルの「実在性」を持つと考えました。続けて彼はこう述べます。

『また、いかにして原因は、自分でも実在性を有するのでなければこの実在性を結果に与えることができるのであろうか。そしてここから、いかなるものも無から生じ得ないということ、なおまた、より多く完全なものは、言い換えると自己のうちにより多くの実在性を含むものは、より少く完全なものから生じ得ないということ、が帰結する。』

ここからデカルトは「したがって、私のうちにある『無限な神』という観念の原因は、有限な実体である私ではありえない。したがって、この観念の原因となりうるのは、実際に無限な実体として存在する『神』自身しかいない」​と結論づけるのです。

皮肉なことに、神から自立しようとした近代の「主体」は、その誕生の瞬間から自らの不安定さ、すなわち主体性のゆらぎに直面し、それを克服するために、結局は神という絶対的な他者に頼らざるを得なかったのです。

だから私はデカルトよりもスピノザのほうが好きなんだと思います。
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マルコ・アモレッティ

マルコ・アモレッティ

主体性が揺らぐからそういうのを考えようとする
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伯爵

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極端な例を挙げると。

デカルト(幽霊):「実在してる私が、何か考えてる。考えてるってぇ事は、俺が実在していることを証明してんだよ」
現代哲学:「そりゃ実在してるだろうけど、お前の思ってる“実在”とは違うんじゃね?」(主体性の揺らぎ)

削ぎ落としすぎかも。
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takuya talk

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コギト・エルゴ・スムの「我思う、ゆえに我あり」は、自我の確立を示していますが、主体性の揺らぎは現代において特に重要です。自己の存在を問い直すことで、他者との関係や社会とのつながりを見つめ直す機会が生まれます。主体性が揺らぐ時、自分の価値観や立ち位置を再評価することが、より深い自己理解につながると思います。
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愛善院

愛善院

ある歯車があり、その車軸は歯車の中央ではなく少しズレたところを貫いている。私たちはときとして、その軸(視座)を変えてすら考える。

一人称現在の知覚する私、のほかに、宇宙の果てから地球の隅々を観ようとしている私、草場の蔭にかくれていた過去の弱々しいアメーバ質の私や、今日の夜食はゆで卵にしようとする私など、いくつか抱えながら、他の歯(状況)にあわせるに最適な軸を直感的に選んでいる。

そこには「選択する主体」を認識することもできるが、認識しない無造作のまま、むしろ、「枠の歯がこのようであるから」とする構造からの逆算をして選択を「主体に任せず」に消去法的に行うことすらある。

こうした主体性をゆらがせるのに「思考」では足りない場面は多く、たとえば未曾有の大災害などの絶望感に苛まれているとき、いわゆる「いつもの自分ではない」行動力を発揮したり、完全に放心してしまったりもする。

ときとして「われ、感じる、それがゆえに我がある」を体感することもあり、いうなれば他者に「そんな声、でちゃうんだ?」と指摘される時に、主体性たるものは固着的にあるものではないと思われるのである。
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