存在しない事を想像できるということはそれも存在してるということではないか

re:ゆきだるま☃️

せいた
tarepansky
そもそも存在は、ラディカルにいうと実在の射影ですから、ひとつの実在に対して複数の射影が視点に対応する数だけあります。だからひとつの実在に対して複数の存在が認識し得るのです。
だから、ある出来事(これは実在です)に対して、複数の解釈(これが存在です)があり得るのです。たとえばある戦争が視点によって、独立のための聖戦であったり、安寧に対する破壊行為であったりするのです。
実在しない事(これが仮に空集合であっても)に対応する射影は複数あり得るので、この場合は複数の存在が認識されることになります。だから設問を「実在しない事を想像できるということは・・・」と言い換えると、必ずしも想像できるという事をもって、それの実在が保証されるわけではありません。ですから、この問いに対する答えは「否」となります。
少し乱暴なな記述ですが、出題者や諸賢の意見が聞ければ幸いです。
私の論の弱点、あるいは論拠は実在と存在を分けて考えるというやり方です。この考えの是非についても論議いただければと思います。

なーなー

のワの

comesunday
「存在する」という言葉を「想像する」という言葉と分けてあえて用いるならば、想像しうるもののなかで〇〇の条件をみたすものを「存在する」という、としておくほうが、言語として有用なはず。
想像し得ないことは言語化もできないので、それを表す言語は必要ない。つまり、言語化する対象はすべて想像しうるもの、としてよい。
つまり、「存在する」という言葉は、言語化する必要があるすべての対象(想像し得るもの)のうち、何かの条件に合うものと合わないものを2値の値でラベル付けする言葉としてのみ意義をもち得る。
典型的な定義では、「再現性があり、観測可能」であることを「存在する」という。想像できる対象が必ずしもそうであるとは限らない。

心
想像の産物

なお

マルコ・アモレッティ

伯爵
ほぼ言葉遊びです。
この課題は「存在」の定義により回答が変化します。
「存在≒実在」を前提とするならば、主観的評価だけでは証明となりません。客観的に第三者がそれを認識できて、ようやく「存在が証明」されます。ツチノコは1人が見たと言っても証明とはなりませんが、2人以上の第三者が共通した特徴を認識できたることで、証明がされます。
(※回答の厳密性はこの際無視して理解しやすさを重視します)
「存在≒概念」であるならば、主観のみで存在が成立します。ツチノコは個人の想像だったとしても、概念としては「何らかの存在をしている」ということになります。
「人の想像できるものは存在しうる」というやつですね。
その昔、臨死体験をした神学者が「顔が5億個くらいあって、羽が10億個くらいある天使が存在していて……」と、天国の様子を説明したことがありましたが、
「お前それほんまに見たんか?」と、総ツッコミされていたことをら思い出しました。本当だったとして、5億個を数える(数えさせてくれる)気の長さに脱帽です。
(数字は曖昧。“天使の事典”に掲載項目あり)
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