「偏見」の存在意義は?
「偏見」によって多くの人が苦しんできました。しかし、今も根強く「偏見」は残っています。気づいていないだけで、私にも何らかの「偏見」は持っていると思います。「偏見」は悪い結果を引き起こす元になるというのに、いつの時代にも、誰にでもあるのはなぜでしょうか。何か意味があるのでしょうか。

Yatsuha

ぬらぺっちょ
思考の平均化より偏った思考が混ざった方が多様化してよいのでは?

そら
としゆき
"「偏見」は悪い結果を引き起こす元になる『のに』誰にでもあるのはなぜでしょうか"の『のに』の部分から、
それが何故存在しているか問う理由を考えることはできないし、論理的な筋道もない。
また誰にでもあるのはなぜかという問いも当然論理的な筋が通っていないのは一目見れば明らかである。
すなわち質問者は、
世の中や世間一般に対して、自身の道徳観や善中心の世界観が理解できないという自身の思想と反りが合わない不満を解決するために理由を求めようとしている。それは質問文最後の、"何か意味はあるのでしょうか"という文章からも明らかである。
しかし、これは質問者の思想にとっての存在意義であって、
人類や世界における存在意義ではない。
ところが質問文は偏見の存在意義を問う意図の質問なのに、質問文最後の一分より、自身にとっての偏見への納得のための理由の意義を求める話しにすり替わっている。
よってそもそも質問文に著しい不備があると判断する
くまのプーちん
つまり他人の意見を「偏見だ」と思う人間が存在しなければこの世に偏見は存在しないことになると思うんだ

きゃべつ
自分が生きてきた中で蓄えた知識、偏見と世間のそれの無意識的集合体を人は常識と呼んだりするわけだし
さんかく

はるた
ティリル
例えば「長いロープ」と言った時に自動的に「短いロープ」の存在も発生させているようなものです。
だから偏見は消えません。

グン
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