「偏見」の存在意義は?
「偏見」によって多くの人が苦しんできました。しかし、今も根強く「偏見」は残っています。気づいていないだけで、私にも何らかの「偏見」は持っていると思います。「偏見」は悪い結果を引き起こす元になるというのに、いつの時代にも、誰にでもあるのはなぜでしょうか。何か意味があるのでしょうか。

モウダ
言葉の意味がブレないようにメモします
偏見...物事に対して偏った見方をする事。物事の詳細を知らない、もしくは無視をして見方を固定してしまう事。
存在意義...存在する意味、重要性、価値。
⚫︎偏見の存在意義について
まだ浅い見解ですが、
偏見は物事をあまり知らない状態でも、物事に対して意見を持ったり、判断を下したりできるという面で存在意義があると思います。
ただ「どのタイミングで、物事の見方が偏見となるのか」も個人的には気になりますね。これによって存在意義にも影響しないでしょうか?

〆さば
なので、偏見は認知の状態であって、実は実体は存在しないのかもという立場です。でもたまに認知が固着し過ぎてにっちもさっちもいかなくなってること、自分も他人もある様な気がします。定期点検ちゃんとしないとですね。

kaosu

コーユー
私たちは毎回ゼロから考えていたら生きていけません。過去の経験からパターンを作り、それを次の判断に使う。これはとても合理的な仕組みです。
問題なのは、偏見の「内容」よりも、それを絶対化して更新しない“態度”ではないでしょうか。
もし偏見の本質が硬直した姿勢にあるなら、偏見を手放すために価値観を全部壊さなくてもいい。
「例外があるかもしれない」「間違っているかもしれない」と余白を持つだけで、偏見は経験知に変わるかもしれません。
偏見は完全な悪ではなく、扱い方次第の人間的な機能。だからこそ否定するより、柔らかく持つことが大切だと思っています。

Yatsuha

ぬらぺっちょ
思考の平均化より偏った思考が混ざった方が多様化してよいのでは?

そら
としゆき
"「偏見」は悪い結果を引き起こす元になる『のに』誰にでもあるのはなぜでしょうか"の『のに』の部分から、
それが何故存在しているか問う理由を考えることはできないし、論理的な筋道もない。
また誰にでもあるのはなぜかという問いも当然論理的な筋が通っていないのは一目見れば明らかである。
すなわち質問者は、
世の中や世間一般に対して、自身の道徳観や善中心の世界観が理解できないという自身の思想と反りが合わない不満を解決するために理由を求めようとしている。それは質問文最後の、"何か意味はあるのでしょうか"という文章からも明らかである。
しかし、これは質問者の思想にとっての存在意義であって、
人類や世界における存在意義ではない。
ところが質問文は偏見の存在意義を問う意図の質問なのに、質問文最後の一分より、自身にとっての偏見への納得のための理由の意義を求める話しにすり替わっている。
よってそもそも質問文に著しい不備があると判断する
くまのプーちん
つまり他人の意見を「偏見だ」と思う人間が存在しなければこの世に偏見は存在しないことになると思うんだ

きゃべつ
自分が生きてきた中で蓄えた知識、偏見と世間のそれの無意識的集合体を人は常識と呼んだりするわけだし
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