「偏見」の存在意義は?
「偏見」によって多くの人が苦しんできました。しかし、今も根強く「偏見」は残っています。気づいていないだけで、私にも何らかの「偏見」は持っていると思います。「偏見」は悪い結果を引き起こす元になるというのに、いつの時代にも、誰にでもあるのはなぜでしょうか。何か意味があるのでしょうか。

愛善院
経験的な危険信号であって、即時のラベリングによってそれを遮断できるよう意味づける。生存本能の延長にあるといえるが、いわばそれは、
一側面をみて値札をつける行為
ともいえる。
裏が素晴らしい可能性も内側が素晴らしい可能性も、裏が高慢な危険性も内側が邪悪な危険性もまたある。

グン

マルコ・アモレッティ
存在意義の有無ではなくて、結果論として「偏見」という減少がある
そこに意味があるかどうかを評価して、さらになにか意味のあるものが出てくるようには思えん

ぎゃくりゅうさん
回答を待っているよ!

伯爵
質問者さんは偏見を一元的に「悪」と捉えているようですが、それもまた「偏見」であるのです。
人は得た情報を「真実のまま」記憶することはできません。育った環境や経験により、必ずなんらかの“主観”でフィルタリングしてそれを処理します。それを「偏見」といいます。
その偏見を自覚せず「自分の主観こそが一般論である」と多くの人が主張します。それが「よくない偏見」です。
私の大嫌いな言葉「普通は」は、その“偏見に気づいていない偏見持ち”がよく口にしますw
偏見は、個性であり、また視野の広さをもたらしてくれるものです。自分ではない人が、自分以外の価値観を持ち、思考を持ち、選択を持っていることが、世の中を発展させ、人を豊かにしてきています。
「何が善であり悪であるか」
この二元論に基づいた一元的な「決めつけ」や「思い込み」は、視野を狭くし、可能性を奪います。
それがすなわち「悪い偏見」です。

きゃべつ
自分が生きてきた中で蓄えた知識、偏見と世間のそれの無意識的集合体を人は常識と呼んだりするわけだし
としゆき
"「偏見」は悪い結果を引き起こす元になる『のに』誰にでもあるのはなぜでしょうか"の『のに』の部分から、
それが何故存在しているか問う理由を考えることはできないし、論理的な筋道もない。
また誰にでもあるのはなぜかという問いも当然論理的な筋が通っていないのは一目見れば明らかである。
すなわち質問者は、
世の中や世間一般に対して、自身の道徳観や善中心の世界観が理解できないという自身の思想と反りが合わない不満を解決するために理由を求めようとしている。それは質問文最後の、"何か意味はあるのでしょうか"という文章からも明らかである。
しかし、これは質問者の思想にとっての存在意義であって、
人類や世界における存在意義ではない。
ところが質問文は偏見の存在意義を問う意図の質問なのに、質問文最後の一分より、自身にとっての偏見への納得のための理由の意義を求める話しにすり替わっている。
よってそもそも質問文に著しい不備があると判断する
くまのプーちん
つまり他人の意見を「偏見だ」と思う人間が存在しなければこの世に偏見は存在しないことになると思うんだ
あまやどり☂ °

リリイ
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