感情と理性というのは共存できるのでしょうか?
仕事上、トラブル対処していると「ルール」という理性に抗う形で感情が問題を困難にさせます。感情を無視すればそれは「縁の切れ目」。だからといって、感情第一にしてしまったらそれは「秩序の崩壊」そのものです。僕のような白黒はっきりつける人間にとって、感情と理性というのは二元論だと考えます。そもそも、感情と理性は共存できるのでしょうか?できるとすれば、どのように共存させるべきなのでしょうか?

狼
【A1 まず主題の話を。】
既に同じ話を仰っている方々が居ますが、「私は理性的なはずだし、理性的であらねばならない」という感情で“理性的な意見を感情的に振り回す状況”も多々見受けられますので、感情と理性は共存しないどころか、共依存する場合すらあるものです。
故に共存はしますが、共存させるばかりが良いことでもありません。本当の意味で感情をコントロールしなければならないのですが、理性のガワを被せて野放しにしているというケースの場合には、先ずそれに気付く事が肝要でしょう。
ただ、説明文を見るとその話では無いように思います。
【A2 次に説明文の内容に対する言及です。】
文章上の問題は理性と感情の共存によって解決するものではないと考えます。
話の中には
トラブル 感情 VS 理性 規則(ルール) 秩序
という対立関係が見えます。
気になるのは、感情との対立を意識するばかりに、理性、規則、秩序が1つのチームのようになってしまっている所です。実際はそれぞれが感情との対立関係を内包しているだけで、先ほどの話の通り共存も共依存もするのです。絶対的ではない関係性を固定化し、敵味方で分けてしまっているように見受けられます。
事の本質はトラブルVSルールの衝突ではないでしょうか?
トラブルがルールを無視するのが問題なのであって、感情がそれを下支えしているのは状況でしかありません。
この問題に必要なのは、感情をトラブル側から引き剥がし、ルールの側に擦り寄せる技法(要するに相手を納得させること)なのではないでしようか?
このように考えましたが如何でしょうか。
的外れで無ければ参考にして頂ければと存じます。

レート
ノクスト

P
様々な感情は生命活動のセンサー、理性は感情から受け取った情報を元にどう動くかを決めるものではないでしょうか。
みんな共存はしているはずですが、極端に偏った人がいるのも事実ですね。

なずむ

こうた

シス
それではこの二つの言葉の持つ意味から考察していきたいと思います。
感情たは自己意識の中で誕生するものであり、自己起因で生まれるモノと他者起因で生まれるモノと大きく二つに別れると思います。
一方、理性とは何でしょう。
これは他者起因がほぼ全てだと私は考えます。
理由としては、この世に生まれ出でて学んだ生きる術とは正に理性の塊の事ではないでしょうか。
それは親から学び、友から学び、教師から学び、上司から学び、後輩から学び、恋人から学び、社会から学んだのではないでしょうか。
全てでは無いでしょうが、本能的理性と言いながら他者から、または外界から与えられた理性は我々のこの社会で生きる大きい知恵となっています。
そして、そのおかげで我々はこの世界で生を謳歌出来ているのだと思います。
つまり、社会性ありきの人間にとって理性は基本装備であり、単体の人間にとっては不要なものであるでしょう。
ここで感情と理性は共存出来るのか?という事ですが、私は自分と社会を繋ぎ合わせるモノこそが感情と理性ではないのかと感じます。
自己存在としての感情、社会存在としての理性、二つの存在無くして社会性ある人間とはなり得ないのではないかと思います。
そしてこれは補足ではありますが、人間が感情的に犯罪や間違いを犯す事を私は社会性における罪であると考えます。社会に存在するモノのみが罪として扱われるという事です。
彼らはこの理性的社会構造の中で感情を優先した罪とされますが、自己のみ存在出来る世界の中では大した罪とは言えないでしょう。
されど人は一人では生きられない、だから我々は理性を発達させたのかもしれません。

トシヤ

Luna
モズク☺
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