あなたの考える「思いやり」と「思い込みの押し付け」の違いとは? また、それらの対比を詩や短歌のように創作的に表現していただくのも歓迎します♪ ※詳細注意です。
「思いやり=優しさ」「思い込みの押し付け=お節介」といったシンプルすぎる回答はお控えください。
構造的な説明を望みますが、独自の表現であれば自由に示していただいて構いません。

未来
「思い込みの押し付け」は相手にじゃなくて
自分の価値観が正しいという自分勝手な自己主張という自分主体の行為

モ!
相手の傷口に包帯を巻いてやることで、
思い込みの押し付けとは、
傷がない場所に包帯を巻き付ける行為だと思います

𖤣𖤘▸kaii◂𖤘𖤣
それは
「手当て」と同じく
優しく手を差し伸べて当てること
「思い込みの押し付け」
それは
単に自分自身の尺度しか持たない人間の
身勝手な自己満足

亀吉
思いやりは相手の気持ちを考えますが
思い込みだって相手の
気持ちを考えてると思い込みます
思い込みは客観視できてません
思いやりは客観視できても相手の本当の
気持ちを100%理解はできません
結局は思いやりも思い込みも
ひとつ間違えば意味が違ってくるので
紙一重です

はむさんど

愛善院
彼の人がホームから外に出た瞬間に「こんなことしてやいまいか」「こうなったら大変だ」と逡巡するのを思い込みという。
トモモ
①素直なAが、悩めるBの力になりたいと行動する。しかしBにとってAの行動は神経を逆撫でるもので、結果関係は悪化する。
②悩めるCに、Dが「そんな大したことないのに悩んでるからダメなんだよ!」と思い込みがさつなアドバイスをする。ところがその助言はCを奮わせ状況を好転させ、結果Dは好感を得る。
何が言いたいかと言うと、「思いやり」と「思い込みの押し付け」に客観的な線引きができるのは、当事者でなく第三者である、ということだ。上記ドラマの例で言うところの「我々視聴者」である。
「我々視聴者」であれば、①に対して「Aの思いやりはBに伝わらなかったんだね…。Bにとっては押し付けだったんだ」と判定でき、②に対して「Dは完全に自分の価値観押し付けてたけど結果オーライだったね。今回Cにとって偶々良く作用してたけどさ」と判定できる。
実際ドラマでは恐らく、Aが「私の行動は押し付けだったんだ…」と自省するくだり等あるだろうし、DはCを祝福しながら自分の価値観に自信をつけ、いずれまた「押し付け」をするだろう。(まぁそのあたりはドラマ製作陣の腕の見せどころだが、それは置いといて)
では何故「我々視聴者」は判定できるのか。それは、登場人物たちのパーソナリティと関係性を把握しているからである。「素直なAのなりふり構わない利他」を「押し付け」と捉える第三者はまずいないだろうし、「Dのがさつな助言」を「思いやり」と捉えるのも難しい。
となると、我々が視聴者でなく当事者になった場合、どのように判定できうるのか。私はやはり、そこには「周りの目」が要素として加わってくると考える。
「相手にも周りにもどう思われたって構わない。とにかく相手の状況が好転することを望む」という感覚による行動なら「思いやり」として映り、「私が同じ立場ならそうして欲しいし、周りの意見を聞いたって絶対良いことだと口を揃えて言うだろうから、長い目で見ればきっと相手のためにもなる」という感覚が割高で内在すれば「押し付け」感は自ずと滲み出る。
不思議なことに、そういった「心根」は何らかの形でいずれ相手にも伝わる。論理的ではないが、ここまで読んでくれたあなたなら、冒頭に示した①のドラマでAとBはいずれ和解するのだろう…その想像が共有できることを、根拠とさせていただきたい。

Karma
思い込みの押し付けは自分の意思に基づくもの。相手に確認しないこと。

オメガシード
私が思いやりと思ってやっていることが、相手にとって押しつけになってしまっていることがよくあるので、自分の中で違いがわからないです。
ただ、何もしないよりはいいかなと思っています。
天照(てる)
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