共感で繋がるSNS

あなたの考える「思いやり」と「思い込みの押し付け」の違いとは? また、それらの対比を詩や短歌のように創作的に表現していただくのも歓迎します♪ ※詳細注意です。

「思いやり=優しさ」「思い込みの押し付け=お節介」といったシンプルすぎる回答はお控えください。 構造的な説明を望みますが、独自の表現であれば自由に示していただいて構いません。
𖤣𖤘▸kaii◂𖤘𖤣

𖤣𖤘▸kaii◂𖤘𖤣

「思いやり」
 それは
「手当て」と同じく
 優しく手を差し伸べて当てること

「思い込みの押し付け」
 それは
 単に自分自身の尺度しか持たない人間の
 身勝手な自己満足
 
ことばりうむの星ことばりうむの星
GRAVITY
GRAVITY34
ぐちきき

ぐちきき

お 思いを受け取る側の気持ちを
も もっとも大切にしていて
い いい意味で放置してくれて
や 「やってあげた感」もない
り 利他的なこと。

お 「お礼の一つもないなんて」とか
し 「してあげたのに」とか
つ 「冷たい人ね」とか
け 結局「何かに期待する」こと。
ことばりうむの星ことばりうむの星
GRAVITY5
GRAVITY12
愛善院

愛善院

「おかえり」「ただいま」を言える関係を思いやりという。

彼の人がホームから外に出た瞬間に「こんなことしてやいまいか」「こうなったら大変だ」と逡巡するのを思い込みという。
ことばりうむの星ことばりうむの星
GRAVITY2
GRAVITY11
天照(てる)

天照(てる)

「違いなどない!どちらでも一向にかまわんッ」って言ってる人にわたしはなりたい(´・ω・`)
ことばりうむの星ことばりうむの星
GRAVITY9
GRAVITY11
junchi

junchi


「思いやり」…その人のことを理解しようとする(分かろうとする)態度と否定しないこと。

「思い込みの押し付け」…自分が絶対的に正しいと正論ばかりを吐きながら、問題解決しようとする行為。

考察
この相反する心の内側に、前者には肯定的な要素がほぼ含まれており、話しやすく、ひとりの人として、尊厳を守ることができている。即ち精神レベルが相当高い。後者は、残念なことに正論が勝ると錯覚し、人が離れていくことを知らない…正論は時には凶器に変化することも知らない…正論が勝る場面もあるが、人間社会では通用しないことも知る必要がある…精神レベルが低い。

上記を踏まえると、同時に2つの感情を抱いたとしても…「思いやり」と「思い込みの押し付け」は課題の分離の考え方と同様に相手に映る鏡のような感覚なのではないか…という結論に達した。

#思いやりと思い込みの押し付け
ことばりうむの星ことばりうむの星
GRAVITY3
GRAVITY11
yjk☁️

yjk☁️

#グラちゃんねる で質問したよ!
回答を待っているよ!
ことばりうむの星ことばりうむの星
GRAVITY2
GRAVITY12
モ!

モ!

思いやりとは、
相手の傷口に包帯を巻いてやることで、

思い込みの押し付けとは、
傷がない場所に包帯を巻き付ける行為だと思います
ことばりうむの星ことばりうむの星
GRAVITY2
GRAVITY10
オメガシード

オメガシード

よく考えたのですが、難しいですね。
私が思いやりと思ってやっていることが、相手にとって押しつけになってしまっていることがよくあるので、自分の中で違いがわからないです。
ただ、何もしないよりはいいかなと思っています。
ことばりうむの星ことばりうむの星
GRAVITY1
GRAVITY9
トモモ

トモモ

このテーマを見た時、よくある「すれ違い」のドラマが浮かんだ。
①素直なAが、悩めるBの力になりたいと行動する。しかしBにとってAの行動は神経を逆撫でるもので、結果関係は悪化する。
②悩めるCに、Dが「そんな大したことないのに悩んでるからダメなんだよ!」と思い込みがさつなアドバイスをする。ところがその助言はCを奮わせ状況を好転させ、結果Dは好感を得る。

何が言いたいかと言うと、「思いやり」と「思い込みの押し付け」に客観的な線引きができるのは、当事者でなく第三者である、ということだ。上記ドラマの例で言うところの「我々視聴者」である。
「我々視聴者」であれば、①に対して「Aの思いやりはBに伝わらなかったんだね…。Bにとっては押し付けだったんだ」と判定でき、②に対して「Dは完全に自分の価値観押し付けてたけど結果オーライだったね。今回Cにとって偶々良く作用してたけどさ」と判定できる。
実際ドラマでは恐らく、Aが「私の行動は押し付けだったんだ…」と自省するくだり等あるだろうし、DはCを祝福しながら自分の価値観に自信をつけ、いずれまた「押し付け」をするだろう。(まぁそのあたりはドラマ製作陣の腕の見せどころだが、それは置いといて)

では何故「我々視聴者」は判定できるのか。それは、登場人物たちのパーソナリティと関係性を把握しているからである。「素直なAのなりふり構わない利他」を「押し付け」と捉える第三者はまずいないだろうし、「Dのがさつな助言」を「思いやり」と捉えるのも難しい。

となると、我々が視聴者でなく当事者になった場合、どのように判定できうるのか。私はやはり、そこには「周りの目」が要素として加わってくると考える。
「相手にも周りにもどう思われたって構わない。とにかく相手の状況が好転することを望む」という感覚による行動なら「思いやり」として映り、「私が同じ立場ならそうして欲しいし、周りの意見を聞いたって絶対良いことだと口を揃えて言うだろうから、長い目で見ればきっと相手のためにもなる」という感覚が割高で内在すれば「押し付け」感は自ずと滲み出る。

不思議なことに、そういった「心根」は何らかの形でいずれ相手にも伝わる。論理的ではないが、ここまで読んでくれたあなたなら、冒頭に示した①のドラマでAとBはいずれ和解するのだろう…その想像が共有できることを、根拠とさせていただきたい。
ことばりうむの星ことばりうむの星
GRAVITY1
GRAVITY8
Karma

Karma

思いやりは相手に意思に基づくもの。わからなければ確認すること。
思い込みの押し付けは自分の意思に基づくもの。相手に確認しないこと。
ことばりうむの星ことばりうむの星
GRAVITY2
GRAVITY6
もっとみる