哲学をする上で気をつけるべきことは?

ララ

あお🫧
「絶対の不在を知り、暫定的な解にとどまり、無常の世界を受け入れ、問いを持ち続けること。」
なぜなら、哲学とは完成された体系を築くことではなく、むしろ揺らぎの中に立ち続ける営みだからである。
絶対を求めてしまえば、それはすでに思考の停止に近づき、問いが閉ざされてしまう。
また、一度到達した解答を永遠の真理とみなすなら、それは歴史の中で幾度も塗り替えられてきた「確かさ」の儚さを忘れることになる。
世界が無常である以上、私たちの思考もまた流動的であることを免れ得ない。
だからこそ、哲学する者にとって必要なのは、答えの安住ではなく、疑問を携える持続的な態度である。
問い続けることこそが、唯一変わらぬ哲学の姿勢なのではないだろうか。
問いを立てる力こそが、私たちの思考を豊かにし、新しい地平を切り開く原動力になる。
これは哲学だけでなく、科学や芸術、あらゆる創造的な活動に通じる真理だと感じています。
不確かさを生きること。そこに哲学の本質が宿っているのだと思います。

おか
ソラチ
思想を他者に押し付けない こと

yjk☁️
その無知の前提で、僕なりの哲学に対する考え方は以下のようになります。
僕にとっての哲学とは、日々の生活の中で感じた違和感に「なぜ?」を問いかけて、言語化して構造化するところから始まります。
そして、その往復運動の過程で生じた抽象的な思考を日々の具体的な事象に照らし合わせて、その思考(論理)が適用されるかどうかを判断します。
しかし、その論理もあくまで僕の感性というフィルターを通して抽出されたものなので、今の自分には見えていない視点からだと、別の見え方があるかもしれないという余白は常に頭の隅っこに置いておきます。
この「余白」を残しておくことが、一つ目の気をつけている点になります。
また、他者との対話の際に理解できているか曖昧な場合は、自分の解釈を伝えた後に認識のズレを確認するよう気をつけています。
議論の途中で、論点のズレが本来の議題に結びつかないと判断した場合は、そのズレや視点の欠如を指摘することがあります。
しかし、指摘の後で相手から「いや、実はここから繋がるんだ」と説明がなされた場合は、議論を継続するよう心掛けています。
ただし、大前提として、科学的根拠がない以上は異なる筋の思考が行き着くところまでいくと平行状態になると考えているので、哲学をするにあたって正解を出すというより、自分の中の結論に至るまでのプロセスを、他者を交える場合も含めて楽しめるかどうかが肝だと思っています。(要は遊び心も大事にしています。)
また、先述した通り、僕には哲学に関する学問的知識は乏しいので、用語が登場した場合は文字から読み取れる一般的な意味合いではなく、別の文脈があると仮定して調べてから理解するように注意しています。


のぶちゃん🍅
自分で自分の地雷を踏まない事かな〜[目が開いている]

まさき
学ぶ人の数以上に解釈が広がりますが、学ぶ者同士で哲学的な談話を努めると理解が深まり、また解釈も広がる実感がありました。
独りごちて学ぶのはあまり有意義ではないと考えてます。
独りは何をしてもつまらんもんです。

夏休みの最終日

鳥刺し

be
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