わざわざ弱者を見つけて施しを与えるのと、わざわざ弱者を見つけてなぶりつけるのと、より快なのはどちらか?(どちらか人間的かではなく娯楽として効率的なのはどちらか)

pubhis
ただ、このように回答している時点で、俺も色んな意味で不正解だと思います。
少し、勉強になります。

夏休みの最終日

愛善院
質問は「効率」を問うているが、この問いを目にした瞬間に倫理的な思考を巡らせることが望ましい。しかし、倫理的な価値判断は答えにならない。
①質問に対する認知的不協和
1.他者を「弱者」としない、したくない、することが不快である、という自己防衛の感情で答える者が一定数見受けられる。たとえば、他者の尊厳を損なわずに支援するために「要請を受けて」施すべきだとする立場もある。
真の弱者は声を持たないことすらあるという想像力がない。またはそうした存在は「自分ではない誰かが」「自分の知らないところで」施すべきことであり、社会的盲点を作り上げている。
2.「娯楽」としない、したくない、することが不快である、という感情で反応する者がいる。
アンパンマンが娯楽目的以外にカバオに自己犠牲ともなる餌を与え続けるだろうか。飼い猫でも配偶者でもよい。
②効率と脳の報酬系
1.質問に誠実に答えたとき圧倒的に後者と認識される。ゲーム創作の立場からしても、いかに無双させるか(弱者を弱々しくせずにプレイヤーに愉しませるか)がメインとなる。
いわゆるドパミンとノルアドレナリンの報酬系であり、短期快楽かつ常習性がある。この快を制御できない者はSNSなどで弱者を見つけては攻撃するようになる。
なお①の回答者も、どうもノルアドレナリンに操られているらしい発言が目立つのがポイントだ。弱者や娯楽としていないのに、脳は制御されずそれに喜びを見いだしているらしい。
2.安息日(神のための1週間に一度)がないため、自分のためでない施しという感覚がない。総じて寄付する者よりもいじめる者のほうが通常社会には蔓延りやすい(ただし、災害時には「みんなが」やることなのでという意識で施しが起こる)。
施しは、ざっくりいえばドパミンとオキシトシンであり、オキシトシンは長持ちしやすい。ただし、バイアスを強めるともいえる「絆を感じる」という諸刃であり、絆のもとにない者に冷笑をあびせるものでもある。
③なぜそれを善としたか
単なる二項対立でもないがノルアドレナリンとオキシトシンの対立であるとき、人間はこれらに従えば「他を排斥する」ことが本能に組み込まれている。
脳に操られてばかりでもいられない(より大きな集団になろうとする)のが人間なため、なんとかして脳の報酬に制限をかける。認知的不協和が証左となるだろう
くらげ

Yoo

ユーガタ屋
和穏(wanon)

cootarox
娯楽としては殺さず生かさず
バランス良く

mch
ほんの少しの施しでも絶大な印象を与える可能があり
与えられた側の口コミ効果でより弱者が紹介される可能性もある
そうやって宗教が生まれたのかも知れん

ぎさしとう
来世では菩薩かもしれない
目に見える事だけではないです
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