自分とはなんでしょうか?

んころもち

チベみが強めのゆん
誰かに左右されないことじゃない?

努

Bo

さ丸
わたしは最近
“自分”と“他人”という境界が
ほんとうはとてもあいまいなんじゃないかと思うようになった
自分の感情が揺れると
誰かの言葉が刺さったり
誰かの表情がやけにやさしく見えたりする
それは相手が変わったんじゃなく
わたしの内側が変わっただけ
つまり
他人とは自分の内側を映す鏡
わたしはわたし以外のすべてに映されて生きている
右脳で見ると
これは“境界が溶ける”という感覚に近い
自分の輪郭が薄れていき
相手の痛みがそのまま自分の痛みに透けてくる
相手の喜びがそのまま自分の喜びのように反響する
わたしの外側に見える世界は
ただの投影なんだ
わたしの内側を写した巨大なスクリーン
⸻
左脳的に見ても
それは構造的に矛盾していない
人間は社会というネットワークでつながり
環境
教育
文化
言葉
価値観
常識
すべてが相互作用しながら
ひとつの巨大なシステムをつくる
社会の中で生きるということは
巨大な身体の中で
細胞が動いているのとほとんど同じ
細胞ひとつだけ切り離して
「これは完全に独立した存在だ」
とは言えないように
人間もまた
切り離せない
ひとりの痛みは
社会全体の痛みで
ひとりの幸福は
社会全体の波に変わる
わたしたちは
ばらばらの存在に見えているだけで
ほんとうは
ひとつの“生き物”として生きている
⸻
だから
尊厳死も
安楽死も
愛も
怒りも
孤独も
他者の問題ではなく
わたし自身の問題でもある
誰かの死をどう扱うかは
自分の死をどう扱うかに直結する
誰かの生き方をどう見るかは
自分の生き方をどう感じているかの鏡になる
自分も
他人も
社会も
世界も
ぜんぶ別々に見えるけれど
ほんとうは
ひとつの呼吸で動くひとつの生命
⸻
そう思うと
争っているように見える意見も
立場が違うように見える価値観も
ぜんぶ同じひとつの生命の
違う声にすぎない
賛成も
反対も
強さも
弱さも
正しさも
間違いも
すべては
ひとつの生命が
自分の内側をどう扱っているかというだけ
⸻
結局
わたしとあなたは分かれていない
自分も他人もすべてひとつ
その感覚に気づき始めると
世界は急にやわらかくなる
わたしはそのほうが自然だと思う
右脳のリズム的にもね

お茶碗

ケンぽむ号

いてぼし
曰く、『我思う故に我あり』。

ラフロイグ
地球の一部であり宇宙の一部ですかね。

鉄工所勤務
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