「性善説」「性悪説」はナンセンスな問いか
私は、哲学と聞くと最初に思い浮かぶのは「性善説」「性悪説」のどちらが正しいのかというものです。ですが、やはり、人生経験からすれば、人間は善悪のどちらの面も持っていると考えるのが自然であり、二元論的に語れるものではないと感じてしまいます。ならば、果たして、この二元論に価値はあるのでしょうか

憂い顔の騎士

にっきー
人間は2元論で言い表せるほど単純ではありません。
しかし、
例えば、人間の社会や制度を設計する際には「人間をどこまで信用する前提で組むか」という起点が必要になります。
この起点が曖昧だと、パターンが無尽蔵に増えるため、ルールは過剰にも不足にもなり、結果としてコストが跳ね上がります。
その意味で、性善/性悪は答えではなく、設計をする上での仮説としては今でも有効で重要ですし、考え続ける価値は十分にあると思います。

232c
性善説はマネジメントです。
リーダーは部下を性善説に基づいて諭し、「性善説を用いて、人を信じて任せろ。そうすれば部下は応える」というマネジメント手法における性善説を問いてます。
性悪説はガバナンスです。
人はシステムによって悪に落ちるから、「性悪説を用いて、人の善に頼るシステムは作るな。組織は仕組みで悪いことができないようにしろ」
という組織のガバナンスについて問いてます。
どちらも儒教から発生したとわかる、社会の生存戦略指南です。
人は生まれながらに善なのか悪なのかは哲学として興味深い話題ですが、日常生活における哲学の使用法としては、両論並び立つようなことをするのが良いかと思います。

むかで
神が人間を優遇しているとすれば、「私は差別する神です」と言っているようなもの。
私達の体内でも日々戦いは繰り広げられています。
「性悪説」を説いているのではなく、誰から見ればただの「営み」なんだろうな。と思いました。

ナトル

仁
儒教における 性善説 性悪説 の事を言っているのかな?
もしそうなら、選ばれた人(皇帝)が、世を治めるための(治世)方法の考え方が分かれたもので、ナンセンスという問いが成立しない。
中国において、古代ギリシャあるいは一時期のローマのような民主主義的な政治は、近代における中華民国までなかった。(最もギリシャ ローマにおける民主主義も一部貴族及び高級市民に限定されるが)
この二つの考え方は孔子を祖とする儒教から生まれたものと言うことは誰でも知っていると思うがその考え方の基本は 仁 義 の二つです。(ヤクザ映画を創造しないように) 仁は、思いやり、労り、たすける、を意味し 義 は筋道 道理 を意味します。つまり 選ばない人(皇帝)はこの二つを持って、政治を行わなければならないと言う考え方です。それを 孟子が引き継ぎ正しい王道のあり方として具現化しました。人は皆理解しているという前提です。その前提を否定したのが荀子です。そもそも人は仁義を理解していない。そのために 礼(作法 序列の明確化 )と 法(決まり 罰則)が必要であるとしました。つまり 性悪説 です。そこから儒家と分かれた法家が発生しましまた。さらに孟子の弟子である韓非子は 法 のみを尊重し、今の言葉でいうなら、方法の縛りの中での 処世術 を解きました。
性善説 性悪説 は そういった流れの中での考え方の元となるものですから、
この設問は、意味不明です。

コーユー
私自身は、人は善か悪かのどちらかではなく、両方の面を持つ存在だと捉えています。実際に仕事や仲間と何かをするときは、「人は状況や環境で揺らぎやすい」という性弱説を前提に行動することが多いです。
それでも、「性善説」「性悪説」とは何かを知り、自分ならどう考えるかを真剣に考えること自体が、思考を深める良いきっかけになると思っています。たとえどちらの立場も支持しなくても、です。
結局のところ、「性善説」「性悪説」がナンセンスかどうかは、その考え方をどう使うか次第なのではないでしょうか。

たよ

ニギリめし
さんかく
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