道徳的主体として「豚を法廷にたたせた」という史実がある。あなたならどこに着眼して論じる?

マツ

A

かさ

アンパンマン

なずむ
ん〜これはね、いぱい喋ってもらってね、ただの家畜からスペシャルゲストになったということを、証明するぬよ〜!!
四足歩行は例外なく、食らえ。

狼
主体があるとして法定に立たせたなら、その豚には豚なりの自律能力と判断能力があるという事になるので、その前提で進めねばならず、それはつまり、豚なりの権利主張が可能という事になる(やや飛躍だが、そう言う前提と扱いをしなければ、主体を持つとは到底言えそうにない)
しかし、実態としては豚に主張があったとして、それを完璧に汲み取り、人間が人間のために作った法律で、豚の主張を公平に扱う事が出来るかと言えばおそらく無理でしょう。猿の惑星を観れば分かるが、被告人(正確には被告豚)として立たせたとしてまともな裁判にはならず、豚が勝訴する事は難しいし、裁判官だったとしても豚の判断を反映させた裁判結果は人間からすると納得など難しいものになるでしょう(例︰人の100万~1億倍優れた犬以上の嗅覚を持つ豚が考える異臭問題の受忍限度が人間より圧倒的にハードルが高かったとしても、社会的な受忍限度≒人間の受忍限度で考える方が人間主体社会ではそれを反映させられないはず)
以上の問題を解決するためには豚の豚権を守る活動と法律整備が必要があるが、果たしてその必要があるか?
この疑問は現在の多様性問題で実際に起きている。
必要ない、とするなら人間は豚に優先される上級民であり、今まで通り豚を殺して権利を無視して置けば良い。必要だとするなら、ではどのように豚の権利を守るかを真剣に考えなければならず、これは正直容易ではない。
中世で行われていたのはおそらく「豚に主体があるとして扱った上で、法律の中で裁くという形だけ整える事で、人間全員が納得(安心)して結果を受け入れられる」為に行われた事で、豚の主体など本気で考える気は無かっただろうと邪推する。
豚だったらそれで良かったんだけどね。
豚は豚(家畜)のままでいるべきか? 割とゆゆしき問題である。

ナトル

憂い顔の騎士
権利を主張し義務を履行することができるかどうかである。あくまで、法廷において、自己の権利の妥当性を法的根拠に基き主張できなければならず、裁判の結果、義務を負った場合に、履行可能能力を有していなければならない。

