正義は悪になり得るか?

( ´)Д(`)ダブりん

なおき
戦前の日本の正義:「日本は欧米列強から虐げられているアジアの人々を解放するために戦っているのだから、これは正義の戦いだ」
→戦後は、「日本はアジアの国々に対して悪事の限りを尽くした」となった。
これをきっかけに、最近の朝ドラ『あんぱん』では、「逆転しない正義」と称して、「飢えている人に一切れのパンを与えることは、いつどんな国でも逆転しない正義」としていた。
上杉謙信の「敵に塩を送る」精神にも通じる、日本人らしい正義観ではある。
しかし、私はこれにも異を唱えたい。
例えば、2500年前、インドにいた殺人鬼・アングリマーラのような人にも食べ物を与えて生きながらえさせたらどうなるか。一切れのパンを与えたがために、何百人もの人が殺されることだってありうる。
したがって、正義は悪となりうるし、その逆も無いとは言えない。しかし、逆転するのを前提としながらも最適解を選び出してゆかねばならないのが正義の宿命であり、人間の歴史でもあるのでは無いだろうか(やや、ヘーゲルの弁証法的な見方かも知れぬが)。この意味で、「食べ物を与えること」が逆転しない正義とするのは、一種のエポケーであると思う。
(……とはいえ、戦後の混乱期からそこまでたどり着いただけでも、アンパンマン作者・やなせたかしさんは偉大だと思います。だからこそ、子供から大人まであらゆる人の心に響く作品を作られたのだと思いますので、誤解なきよう)

綿鍋

坂本龍馬
K
それぞれの正義を振りかざして戦うのだから。
敵から観たらそれは正義か?って話し。

天我ホルダー
裁判所では法律に従うことが正義だし、革命においては法に抗うことが正義。裁判所での革命家は悪と呼ばれるだろう。
ここで起こっているのは、正義という実態が悪になっているということじゃない。
ある一つの行為(例えば軍とゲリラの殺し合い)が異なる2つのルールで正義と呼ばれるか、悪と呼ばれるかだ。
正義が悪になるのではない。ある一方のルールで正義と呼ばれるものが異なるルールで悪と呼ばれるだけだ。
さっき上げた2つの例は似たような顔つきをしているがそれらは全く異なるルールに支配されている。その顔つきありのままの姿を記述する。これらに共通するする本質なんてない。少しずつ似ているだけだ。
正義の本質?悪の本質?誰か分かる人いたら教えてくださーい!

愛善院
なり得るどころか「正義」の金看板を掲げた瞬間に、私どもは胡散臭さをたちどころに嗅ぎ分けようとする。むしろ正義を見かけたら「本質は悪であろう」と直観しやすいものではないか。
正義が正義であるために、この「その主張こそが悪ではないか」という反対の論陣を組むことを人類は叡智にしてきたように思うのよね、裁判にしても議会にしても。

くち
みたいなことだと思う。
人はそれをガンダム(戦争)から学ぶんだ。
(前に誰かが言ってた)

大滝

憂い顔の騎士
正義を振りかざす奴の実態は悪人。
正義は悪人のプロパガンダ。
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