
Yoo
日常と思索の断片。
論理的な文章というより、思いつきなぐり書きメモ。
Vtuverの雑談配信が好きです。
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Yoo
回答数 13>>
まあ、的を射た批判であったとしてもそもそもの関心とか研究対象から若干ずれた、いわゆる外在的な批判と生産性のある内在的な批判が存在するので区別しないといけないね。
ただ、外在的な批判であっても理論的示唆に富むというか、より多面的な主張形成に役立つものもあるからね。これも分野に依りますよね。
少なくとも学術的には知的誠実さが求められるから、SNSのバトルで人格批判とかよくあるけどお話にならないものだよぬ。あと、単純に文脈を無視して議論するとか論点がごちゃごちゃになってるとか。
まずは教科書的な、その分野で共通了解を得ていることろから話が始まるんですよぬ大概は。基本的に論文は各分野の各特定の領域の専門家に向けて発信するものだから、オレは〇〇の理由でこう思う!と教科書的な文脈を無視して議論しても、それは一人相撲ですからぬ。
正しいかそうでないかで話を進めてもあまり意味はないと思いますよ。だって自分が正しいと思うからそう主張するのであって、それをおしすすめても価値観の応酬にしかならないですからね。

Yoo

Yoo

Yoo
毎回いてっ!ってなるんですよ。

Yoo
〇〇な人もいるからそういう考えは差し控えるべきだとか意味がわからん。

Yoo
大変失礼しました。
度々恐れ入れますが再送していただけませんでしょうか。お手数おかけしますが、よろしくお願い申し上げます。

Yoo

Yoo

Yoo

Yoo
夏ですね〜

Yoo
直近でいえばAIだとか半導体だとか。科学的なことは素人目からしたらなんかすごいぐらいしか分からんのである。それゆえあまりその具体的な中身を検討せずになんか良さそうという流れが生まれる。
机上の理論屋さんではない実践は何事にも理論上の限界というか臨界点は存在する。良さそうなものでも何となくふわっとしたそれっぽさで正当化されていることも少なくない。それはそれでよく見せる技術なのだろうが。
地に足をつけるという意味ではできることもできないことの区別、つまり、これは主張できるがこれは論理的に正しいとは言えない、その区別をきちんと判断することが大事ですよぬ。
言い方は悪いが、流れというものは、流れが終われば化けの皮がはがれるものだから。

Yoo
⇩
正 組織人になったらSAN値が日々削れていくので回復のためにお金を使う。

Yoo

Yoo
回答数 2>>
サボってても歯車として全体として機能しているのならばそれは組織のあり方として不健全なものではないのです。まあ、いい気分はしないかもしれませんが。

Yoo
でも、自分か知らないことに対しての向き合い方がいい加減な人間、例えば、知った被りとか、そんな事言うやつ普通おらんやろ、みたいな冷笑とかするやつは、教養のない人間だと非難されても仕方ない気はするのです。

Yoo
セカイはワタシ中心に回っている〜ぐらいのラフさでいいんですよ!

Yoo

Yoo
普段からこの店いいなぁとかここ打ち上げの段取り悪いなぁ、この飲み会しんどいなぁ、自分やったらこうするのに、こうしたら楽しいのに、みたいな経験値を稼いでうまいことまわせるようになっていくのかもしんないね。
ほどほどにみんなが交流できて楽しむことができれば満点なんだろうな。

Yoo
やらないことを決める、換言すれば、自分ができないないことをすっぱりきめてしまうことは割と重要度高いと思うんですけどね。
往々にしてあれもできたほうがいいこれもできたほうがいいとなってしまう。それより武器を1本に絞ったほうが良い感じに勝負できるんじゃないかと。
幅を広げたいなら趣味としてやればいいんじゃないかなぁ…ほんとうにアレコレできる人なんて稀ですよ。ほとんどうわべだけの知識で。

Yoo

Yoo
回答数 195>>

Yoo
回答数 92>>
苦手なものをやらせたって雰囲気がギスギスするだけでしょう…

Yoo
回答数 28>>
人の成長には、失敗してもいいからやってみようの精神を体現することが大事だと思います。

Yoo
回答数 21>>
どういうことかというと、本人には無自覚な恵まれた環境プラスαで本人の努力→結果が出る、
自分も努力してきたのだから、結果が出せないのは努力をしていないからだと。
しかし、現実を見れば、親ガチャという言葉があるように生育環境が、その人の人生の選択を大きく左右する。が、しかし、本人からしてみれば変えられるものではない。
変えられるものは自分で努力することだけである。ゆえに結論として、よりよく生きたいのならば、努力すべきであるという身も蓋もない結論に至るのではなかろうか。
この努力信仰の悪しき点は、自己実現をするうえでその道すじを覆い隠してしまうことだと思います。
たとえば、自己分析。ワタシは8hほど睡眠を取らないとロクに頭がまわらないのですが、世の中ショートスリーパーがもてはやされる。しかしワタシがそれを真似するとろくなことが無い。
これに意識的に気づいたのはごく最近なんですが、いわば自分の都合より、社会のノイズがでかいと自分も見えなくなる。
時間とかお金とか能力とか自分を伸ばすためにそれなりのリソースを割くことは重要です。しかし、努力というコトバで覆い隠してはならない。それぞれの目的とか自己実現とか、そういったものを叶えるために、自分で考えて戦略的に実績を積む必要がある。
努力という概念は、往々にして、目的と手段を逆転させがち、戦略性を軽視する傾向にある気はする。そういう努力信仰は誰も幸せにしない!
努力するためのリソースは限られたものなのだ。

Yoo

Yoo
たぶん、転生モノみたいに色々な経験を積むことができれば、次こそはよりよい選択をすることができるのだろう。同じ鉄は踏まない、修正していくという人間の本能的なものがあって、そこには確かな連続性があるのだから。
でも、人生は1回限りだ。そのなかで生きるにあたって、できるだけいろんな経験や体験を学びができれば、人生は豊かになるはずだし、知見の幅が広がれば、きっと深みのある人生を送ったり、よりよい選択をすることができるハズだ。
そうだとすれば、よりよい社会とはレールから外れるなんて言葉が存在しないような、重層的で流動的な職業選択やキャリアの幅が認められていて、学びの選択肢が現実の選択肢として用意されていることこそが、望ましいあり方なのではないだろうか。

Yoo

Yoo
たとえば、のみの場での下ネタを嬉々として語るとか。
ワタシは、建前としてのちゃんとした人間の振る舞いと本音としての語りのギャップに違和感を覚える、というかいまいち慣れないのである。
昨今のパワハラだのなんだの言われる世の中で、望ましい正しさは洗練されていく。それと同時にやりきれない思いは建前ではなく本音の方に集約されてしまう。
その綺麗な振る舞いと本音のギャップが生理的嫌悪感を覚えるぐらい気持ち悪く感じてしまうのだ。でも、そういう感情は真面目とか普通と外れているとか、考えすぎだとか、ネガティブだとかそいったものにカテゴライズされてしまう。
そういうことをグルグル考える自分もまた俯瞰的に見れば気持ち悪いものなのである。カラッとした感じがない。
TPOにおうじた振る舞いを日常で行うからこそ、裏表が際立つもので。この違和感は原動力にはならないよなぁ…

Yoo
小学生がSNSの危険性を啓蒙する作文が新聞に掲載されていた。高校生がSNSを通じて危険なことに巻き込まれた、とか、教育上適切ではない表現が、とか、未熟ゆえに使い方が…といった内容である。
ワタシがこれを読んで思ったことは、具体性に欠けるということである。おそらく、メタ的な視点で言えば、ネットから距離を取ろう、信頼できる情報に当たろう的なことが言いたいのであろうが。
結局、何が危ないのか、どのように対処すべきなのか具体的な知見に欠けるものである。大人もそれを理解していない。知ろうともしていない。危険だ危険だといいつつ、何も具体策を考えない。それはただの思考停止ではないのか。
たしかに認知が偏る恐れもある。しかし現実世界でもかかわる人間によってそれは変わるのは当然のことである。うまく利用することによって、人生がよい方向へ進むことがある。ネットとはまさに混沌の世界だ。
バズるとか炎上とか、たいていの人には無関係なイベントなのである。SNSを日常的に使わない人間はそれに対する解像度が低い。
認知が偏るのは間違いない。では、普段どのようなメディアを当たればよいのか。それはもちろん文脈によるだろうが、たいていのオトナはそこまで考えていないし答えを持ち合わせていない。
正しさの思考放棄ではないのか、それを追求するからこそリベラル的な価値観の意義があるのではないか。少なくとも私はそう思うのであるが。これはラディカルすぎるのであろうか。
#本日の新聞

Yoo
回答数 11>>
成長って、コンフォートゾーンから外れる勇気が必要だけれども、かといって背伸びして失敗してもそこに修整可能な連続性はない場合が多いので、そういった意味で地に足のついた挑戦と内省が必要なんじゃないかと思うんですけれどもね。

Yoo

Yoo

Yoo

Yoo

Yoo

Yoo

Yoo
あまり起伏はないけれど、淡々とした雰囲気で自分の世界に他者が土足で入り込んでこないこと、自分のために自分のための時間を使えること。何もしない時間を確保できること。自分の使命のために時間を使えること。
ワタシはそうありたいのかもしれない。

Yoo
カニカマサンド

Yoo
あれだ、ギャルゲーと構図が似てるんだ。あたかも現実でデートしてるかのような、現実にアニメの綺麗な部分が混ざり合っているような、夢を見させてくれる感じ。
あれ、俺のカノジョのはずなんだけど知らない記憶だ…みたいな。

Yoo
面白みはないかもしれませんが。

Yoo
出身高校がその人の地頭の良さであるという見解はパラレルであると思う。
社会の指標が、わかりやすい基準ゆえに、たとえば生産性が高いとか、資本主義的な価値観に合致しているとか、分かりやすい有能さ能力主義実力主義的なものが、社会の正義であるかのような合意が取られているような。
少なくとも私としては腹落ちしないというか抗っっていくぜというスタンスているのだけれども、生存戦略としてはそういった構造を前提に、社会の求めるストーリーに沿いつつも、具体的な判断が求められる点において、独自性を強みを出していけば、それも一つの正解として、そういうあり方を確立できるのではないかと企んでいる。

Yoo
最初はいつも言葉の手前にあって、
輪郭がぼやけている。
しかし、研究が研究たる所以は、その分かったつもり、安易な理解という、ある種の妥協を拒む点にある。
「言葉にできない」もどかしさを引き受け、
それでも、1ミリずつでも他者に伝わる形へ昇華させていく。
その執念のようなプロセスの連続こそが、研究と呼ばれるものではないだろうか。

Yoo
それを認める勇気が必要。
向き合うことで次のステップに進める気がする。
