
Yoo
日常と思索の断片。
論理的な文章というより、思いつきなぐり書きメモ。それから読み手のフィードバックを少し期待。
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Yoo

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誰かの青春ごと 引き受けた
>まさに主人公属性を体現している歌詞だ
Players' Player (feat. KREVA)

Yoo
グミ超うめぇ

Yoo
敷居が低くなっているのは喜ばしいことであるが、その分、知に対する誠実な態度や粘り強く向き合う姿勢とか、半年ROMれみたいなしきたり的なものが失われているのと引き換えのように見える。
情報はひな鳥のように待っていても本当に知りたいことや必要な情報は流れてこないんだよ。お手軽さを求めるとは同時に、そのことに対して、さして関心がないのだと思い知らされる。

Yoo
社会的文脈に依存してというのは具体的には、相手の属性とかを踏まえて、相互に承認し合って(コミュニケーションとかフィードバックとか)ということなのだけれども、ネットだとそういうのがない。
一方でリアルの人間も、家族や職場、恋人等々の関係に応じて、その役割を自然と変えている。これとネットの世界をアナロジーで考えると「承認」とは同一ではないもの扱いをされているようにみえる。
つまり、ネットで言う承認は承認欲求のほう、リアルでは相手の反応を通じて人格などの形成が図られる。承認欲求はマズローの文脈で理解されててマイナスなイメージがつよい。この、リアルとネットの承認の違いと何なのだろうか。
社会的文脈を踏まえたうえでの承認でなければ、人格形成などプラスな承認を得ることができないのだろうか。いや、毒親みたくリアルでもプラスな承認とは限らないのだが。
だとすれば、匿名ではなく実名のネットだと、リアルと地続きだが、ネットでの関係は相手は必ずしも文脈を理解しているわけではないとすると、相手のいっていることは自分に対してどんな影響をあたえうるのか。

Yoo
全盛期は情報が飽和するというか、選択とか知識が限られていたほうが、より本質に近づけるないし、より価値がある気がする。

Yoo
スタラタ スタラタ
来世はアイドル!来世はアイドル!

Yoo

Yoo
回答数 12>>
基本的に子供のNOは反抗期として軽んじられる傾向にあるかと思われます。
成人して組織人なら、文脈を読めないバカ扱いされます。別にNOを示すこと自体は悪くないかと思いますが、そのバランス感覚と調整能力、主体的に提案する能力ありきの話になるかとおもいます。何もできないのに、否定するのはただのワガママですから。
まあ、昨今は新入社員でも意見できるといいますし、時代は変わっていってるんじゃないですかね。

Yoo
回答数 10>>
本当の専門家はあまり自分の専門外のことを語ることは少ないんですが、独学で学んだ人なんかは自分なりに解釈して、こう権威付け的な?役に立つよ!みたいな感じで啓蒙してる印象です。
まあ、社会科学の分野って究極、いかに説得的かっていうところなので、自然科学みたく因果関係が明確に立証できることが少ないので、より説得的であれば、ポピュリズム的であっても支持されやすいということではないですかね。
そういった意味では学問的な誠実さが求められるというより、実際につかえるものや手軽さが求められていて、万能というか、座右の銘的な位置づけではないんじゃないですかねぇ。

Yoo
他者とのコミュニケーションのなかで、答えに困る発言をされたとき、ワタクシはうーん、と流したり沈黙したりすることが多いのですけれど、
そういったとき相手の気持ちよくなれる、けれども忖度するわけでない(一線引いてて、自分を消費しない)スマートにコミュニケーションを取れる人って尊敬しますね。
ビジチックというか、組織人的な対人関係のスキルをサラッとこなす人ですかね。波風立てず、されども、主張がないわけでもない、というバランスを取るのは難しいなと思うわけです。いま風にいえば、スパダリってやつと似てますかね?

Yoo
それでも原曲よりカバーのほうが好きということもあるけど。歌の良さに反応できる感性ってのがあるんだなと(ワレはない)。
つまるところ、翻訳されてるのよね。そのひとの世界観で再解釈した曲がワタクシにはハマったということで。同じ音楽でも、上手い下手とかよりも、質の問題というのか。歌に限られず、そういった部分に着目して享受したいものですね。

Yoo

Yoo
そもそもそういった日常生活を不自由なく送ることが難しいから、保護を受給しているわけであって、ある意味それは訓練として位置づけるものであって、現物支給をしても恒久的な保護ならともかく、制度上は自立を目指しているわけなので、結果だけに着目するのは大筋からずれてしまうと思う。
多分あれだ、発展途上国にボランティアにいって、就労のサポートをするとき、遠い場所で短期で高リスクの仕事で、高い賃金を得るより、賃金は安いけど、近場でコツコツ働ける方が長い目で見ればベストな選択だよねっていう話と似てる気はするな。
今さえ良ければいい、みたいな話ではないんだな。

Yoo

Yoo
家裁の人を読んでふと時代を感じた。

Yoo

Yoo
要領がいい人間はそれでも上手くやるのかもしれないけれども。それはパターナリズムなわけで、大抵の場合はオトナの言うことに従ったほうが安牌ではあるが。
ただ、その先の人生を考えたときに人生の過程において、目標設定なしでというのは、生きる意義というか、自分なりの人生の意味付けに欠けるところがあるというところ。
夢があるから人生は輝くという格言は、人生の意味付けに価値を置いている、といえないか。そうだとすれば、「選択肢があるから」という当たり障りのない消極的な理由というのは、それが逆にいい加減な理由で選択肢を狭めているのではないだろうか。
強い負の感情は原動力になり得るし、目標があれば正道で、達成することを目指せばいい。しかしそうでない場合、何となく生きて、無気力でという人生になりかねない選択の選び方は、自分で選択するならまだしも、親の介入でそういった方向に行ってしまうのはとてもよろしくないと思う。

Yoo
ジョハリの4つの窓と情報の貧困をアナロジーで考えると、自分は知らないけれど相手は知っている盲点の窓、自分も相手も知らない未知の窓が、SNSによってますます強化されているのではないか。
すなわち、社会における関係性の貧困とでも言おうか。当事者は専門家に相談することで未知の窓を開くことができる、もしくはいろいろな他者との出会いのなかで未知の窓や盲目の窓を開くきっかけになるかもしれない。
けれども、本来の意味の情報の貧困(インターネットを使えない情報格差)からは離れてしまうが、むしろ、そのことこそが自分は(情報を扱えていないのに)情報を扱えているという自負を与えていることにはならないだろうか。
ネットはどうしても、主体的に調べた情報、もしくはその世代で一番トピックな話題が目の前に出てくる仕組みになっている。違う情報を仕入れるにはあえて、その情報を遮断しなければならない。
そういったいみでは、高齢者の人的なネットワークというのは強いものであるのだ。
ネットでは政治とかの発信主張はできるけれども、リアルでは言えないからこそ、幼稚な思考になるのか。定年退職後のお父さんが政治にハマるのはそうした理由か。リアルで意見を交わさないからネットにドップリになる。
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SNSによって窓が開かれにくくなる/ネットではフィードバックが返ってこないことが多い、リアルでの対話の前提ある信頼が欠けている?/SNSは異質な他者を遠ざけるので、未知の窓を遠ざける?/さまざまな情報を扱っている事こそが、実際は同質な意見のみを扱っているだけで、盲点と未知の認識は広がっていない/SNSは関係性が構築されにくいから、理解が深まりにくい?

Yoo
あれもこれもやって中途半端な結果になる。もうちょっとやるべきこと絞ってと捨象をしなければね…
とはいえ自分のなかで消化するための理屈づけをしようとするといつまでも迷うからなぁ。根拠のない自分の信頼が大切だな。

Yoo
川崎バス闘争など、相当に苛烈な運動と犠牲のもとで社会が変革されたことを私たちはもっと知るべきだと思う。
そういう意味では、少数者の声に耳を傾けることを、(倫理的な態度としては)その対話のコストを社会や大多数の人間は惜しむべきではないと思うのです。
もっとも合理的配慮など、社会との摩擦をいかに減らすかというのはそう簡単な問題ではありませんが…

Yoo
安心社会から信頼社会へ、
信頼の構造、
近代とはいかなる時代か?、読む。

Yoo


Yoo
回答数 19>>
男性も積極的に取得すれば、女性も休みやすく、働きやすくなると思います。いままでの働き方、男性が人生をかけてキャリアを築いていくという働き方ではなく、休みを取りつつそこそこで働けることが、社会の基準となれば、それがフラットな働き方になると思います。
それを基準に、働きたい人はもっと働けばいいし、そこそこでいい人はそこそこで、休みが多いほうがいいという人は、プラスアルファで休めばいいかと。まあ、机上の空論に近いものかもですが…
少なくとも、男性が育休を取ることによって、女性の働き方に大きな影響を与えるのは間違いないかと思います。

Yoo
しかし、判断を求める相手というのは、たいてい自分の上司などであって、自分より判断できる情報も持っているし、そもそも2択に絞って提供することが正解なのかという。
どちらかというと、自分がより解像度をあげるためとか、積極的·主体的に動くことができるか、とかが大事なのかもしれない。
自分と同じ知識経験だったら、単純な認知コスト?の問題だろうけど、そうでない場合違う要素が入ってくる。なので、自分より知識経験がある人に提示されてるとき、どちらかというと正解に限りなく近い(どちらを選んでも間違いのない)接待感がある。

Yoo
回答数 19>>
②建前としては、「最低限度の生活」を送れるような保障をすること、社会参加や就労、制度からの脱却という「自立の助長」を目的としており、一時的に利用することによって、再び社会復帰を目指したり、各人の属性に応じた制度へつなげることが念頭に置かれている。
③現在では、生活保護制度だけでは十分にセーフティネットを構築することができない、制度の間に取り残されてしまう人がいるという課題から、「生活困窮者自立支援」が制定されている。しかし、制定から月日が経っておらず、各自治体ごとに取り組みも変わってくることもある。

Yoo
①良質な睡眠がとれていない
②バランスの取れた食事をとれていない
③適度な運動ができていない
…が原因のことが多い。外見云々よりまず、生活の基礎的な土台を作ることが大切。極端な運動とかスキンケアとかする前に、そういった生活習慣を整えるところから。

Yoo
一次資料から、現実の事象を読み解いたり、説明するのには専門的な知見が必要だ。安易に嘘つきは数字を使う、というべきではないように思うのだが。

Yoo
日本やアジアでいうと宗教的そのものより、儒教がアジアにおいて、(下手をすれば仏教や信教より)非常に影響力の強い規範として作用している。そういった観点から見れば、アジアの宗教的ナショナリズムはあまり差異が大きくないというか…
これも明治期の同化政策とかそういった強制的な施策の流れなんですかね。近代化の影響もあるだろうし、同一民族化=単純な同化政策というより、歴史の流れなのかなぁ。
なんか民族とか人種とか西洋的なフレームワークという感じがして、アジアを当てはめるとまた違う枠組みが必要な気がする。

Yoo
回答数 10>>
とはいっても、他者への思いやりってそれっぽく言ってるに過ぎないものではないかと感じています。あまりにも他人の時間を消費しているという感覚が薄いので。
というところを考えると、実際としては、個人主義というより共同体主義的な会社全体としてのまとまりを非常に重視しているから、それぞれが会社の顔となる気持ちを持て、みたいなことが求められているのかもしれません。
一応、総合職などはジェネラリストを目指すことが当然視されているし。まあ、メンバーシップ型だからということですかね。まとまりとか規律訓練とかそういった類いの価値に重きが置かれている。
②遅刻が軽んじられているわけではないと思います。相対的に価値が軽く見えるだけで。
欧米などを想定するならば、あちらは基本的に成果主義というか、労働契約時からやるべきことが明確に決まっていますから、定められたことを最低限こなせば何もいわれないというか、そこまで求めるべきではないという価値ではないでしょうか。
時間内に決められた仕事(プラスアルファ)をきちんとこなすことが求められていて、残業すれば仕事ができない人(タイムマネジメントができない人?)扱いされるというのもそういった価値に基づくからでしょうなぁ。
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働き方ってその国の価値やらなんやらが表象されていて面白いですよね。個人的には、日本みたいに勤勉でなくとも、インドみたく、いい加減さというかルーズさがあってもいいんじゃないかと思ったりもしますね。働いているとみんな余裕がない。自己実現の価値とか生きやすい社会というものを考えたとき、いまの息苦しい?社会でいいのかと思ってしまいます。

Yoo
回答数 9>>

Yoo

Yoo
そもそも、純度100%の単一民族国家がどれほどあるんだという話だし。下手したら血を浄化するとか、根絶やしにするとかそういう話になるからな…

Yoo
おそらく、単一民族であると言い切っちゃうのがよろしくないのは、アイヌや琉球、在日コリアン等の少数派の人間を無視してしまうという点。
ただ、見た目も生活様式もほぼ同化しているので(これ自体も、文化を強制している尊重していないという点で、問題なのかもしれないが…)、直感的には、単一民族といっても違和感がないという。(ゆえに、日本生日本育ちでも見た目が違うと外国人扱いをするという)
しかも、現代だと個人かの波が押し寄せてきて、少数派の人間もますます同化してきているというか、区別?がつかないような状態ではないのかという所感。

Yoo
回答数 34>>
日本でいえば、(青少年の条例で)有害図書の自販機の制限が表現の自由に反しないとの判例を想起されます。
ただ、日本でもsnsの制限って各キャリアによる規制がなされていて(いわゆるソフトローというもの)、国がそこまで介入できていないのが現状ではありませんでしたっけ…
そもそも法律で規制すべきなのか、そうとう意見が分かれそうなところですが。表現の自由との関係も問題になりそうです。
オーストラリアのやつ、一応、建前としては子供の教育や健康上よろしくないとのことですが。穿った見方をすれば、snsによる犯罪被害などが甚大なのではないですかねぇ…(ミリしらなので根拠はない)
結構、思い切った規制だと思います。

Yoo
仮に自分がどんだけサンクコストをかけたとしても、それが違うと思うのなら、きちんと批判して修正できる生き方でありたいし、疑いながら人生を歩み続けたい。
ただそういう生き方をしたいのなら、それを突き通したいなら、資本主義、新自由主義をサバイブできる武器とノウハウを身につけなければ実現できない。

Yoo
回答数 22>>
ただの知識欲?それとも何かを主張したり、アウトプットをするため?少なくとも漠然とインプットをしていても、使える知識にはならない。
ワタシが気をつけているのは、本一つから一つの知識を得ることができれば十分ということです。
同じ分野の本、数冊読んでみれば分かりますが、共通認識がある点は同じことが書いてる。けれども、争点が分かれる部分はそれぞれ違うことがかいてる。過去の本を読むと、現時点では意見が一致していても、過去にかなり争点が分かれていたことが分かったりします。
まあ、文章書いてみればわかると思いますが、徹頭徹尾、意味のあることばを書き続けるなんて不可能に近い話です。気負いすぎといいますか。
それこそ何十年と論文や文章を書き続けていた人間が集大成として、本を出版するとなると、そうとうに重厚なものができるのはそういうことですな。そもそもそんな本や文章かける人間なんてほんの一握りです(値段も張りますし…)。
なので!本を読むときは、あんまり気負わずに必要な部分だけを精読するぐらいが丁度いいのではないかと思います!
あと、できるだけ最新の本を買うというか、いつごろ書かれたものなのか意識して読むことは気をつけたほうがいいかと。

Yoo
回答数 29>>

Yoo
回答数 20>>
そういった視点で見ると、SNSというものはあくまで個人同士のやりとりであって、「権力的ななにか」までいえないかと思います。少なくとも意思を持って、権力的に振る舞うということが難しいというか。それこそイーロンレベルのプラットフォーム自体を(政治的に?)支配するなら話は別でしょうが。いくら有名youtuber,tictokerだとしてもバンされればそれまでなので。
そもそもSNSは当初から玉石混交というか、基本的に何でもありな世界なので、揶揄されるオールドメディアの足元にも及ばないのでは。新聞テレビとSNSが同等の意義を持つ、なんてことははなからないように思います。
まあ、何事にも栄枯盛衰があるといわれればそれまでかもしれませんが。

Yoo
回答数 19>>
対話なき社会とは、風通しが悪く透明性が低い状態だ。未だテレビなどのメディアが特権的立場、足りうるのは、民主主義を運営するにおいて、その根幹となる情報の流通に大きな価値が置かれているためである。閉じた関係は、対話なき社会、閉じた社会につながってしまう。
思いやりや忖度といった察するべき、というものはそういった意味で非常に危うい。人間とは社会的文脈のなかで生きており、他者とのコミュニケーションを通じて、自身の価値を認識し、自分を形作っていく生き物だから。察するべきというものは、対話自体、他者と向き合うことを避けてしまう。
とはいえ、共感という意味では、他者に思いを馳せる、相手の立場を考える、他者を許容する、これらのための「察することのできる能力=相手に寄り添うことのできる能力」というのもやはり、社会で生きる上で必要不可欠なものだろう。
まあ、人間得意・不得意あるなかで、どちらのほうが得意か、みたいな話かもしれません。それに優劣つけてもあまり有益な話にはならんでしょう。

Yoo

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未来に目標を定めて、逆算で達成していくフューチャーバック思考なるもの?のひとつとして、自己と外界の接点や輪郭を明確にするための、やりたい方向性を形づくるための一つの方法であると見ることもできるわけです。
結局、インプットだけでなくアウトプットしなければ、いつまで経っても行動しないという。そのための第一歩、といえるかもしれません。

Yoo
〈テーゼ〉→〈主張〉→〈論拠①〉→〈論拠②〉→〈論拠③〉→〈論拠の共通点の抽出〉→〈主張〉といったような。あと図書館などの使い方とか。一次情報から何をどのように読み取るかというスキルとか。

Yoo
はきやすい言葉だけを選んで歌った
バクテリア

Yoo
回答数 30>>
人間ってどこまで合理的な生き物なんですかね?

Yoo
・経験値を積む
・実績解除!
