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やぁ‼️ 始めたばかりのビギナーです。  どこに出しても、どこを出しても恥ずかしいクールでダンディーなオジサンですw。よろしく。
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 前に言ったように、猛暑だったゆえに今年の秋は早そうだ。いつもなら霜ふりグレイのTシャツに汗が版図を広げるのだが、それがなく朝の川風が心地よい。
 最近、特定の周波数がフィジカル、メンタルを整え不調に効くというポストやYT番組が散見される。僕はそれには少し懐疑的だが、それでも音(を)の楽しみ(む)、音楽、あるいは少し調べると元々の語源は違うようだが、musicはmagicに深いレイヤーでつながっているように考えている。
 だって確かに音楽には人間心理に深く影響するエネルギーがあることを、僕たちは経験的に知っている。
 それを踏まえてーBGMアプリにストックした曲やTEDを聴きながら朝を駆けるのだが、今朝、不思議な事象に気付いた。それは聞こえ始めた虫の音(ね)と音楽との相関だ。
 つまり僕たち人間の作ったある種の音楽には、虫の音と同期して和音、ハーモニーとして聴こえるということ。でも、たいていの曲はそれぞれが主張するように独立して聴こえる。つまり、そこにはコラボレイションが生成されず、音としてはカオティックなものとなってしまう。和音ーハーモニー化するのは、日本語の祖語とも言える琉球、奄美語を基にした朝崎郁恵さんの「あはがり」だ。何故かは僕にはよく分からない。ただ、この列島の古層にある言語と風土、動植物の相関なのかも⁉️ と感じている。🤗🦅🤗

PS: 枚方では「くらわんか花火大会」の準備が進んでいた。
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そして広範な淀川水系全体として、多様性に富んだそれぞれの地域の地勢や歴史文化を合流させ、融合させていく。それはこの列島のくびれ部を形成する紀伊半島(広義の)をこの国の歴史のメインステージとして機能させるのに不可欠な存在だった。
マーケ的にいうと、変化し続ける「ヒト、モノ、ジョウホウ」をとどめなく流し続け、同時にその流れは河川としての平衡を保ち続ける。
 そして僕自身も木津川の源流域から流れて、「今、ここ」淀の流れのほとりにいる。三川が合体し、膨大に増して水量は、時に北河内や摂津エリアの堤防を決壊させ、氾濫原にさせたが、そこは水田稲作やレンコン栽培の適地ともなった。
 世界の四大文明をあげるまでもないが、文明には(巨大)河川が不可欠だ。ちょっと話は横道に逸れるが、岡本太郎のExpo70のモニュメントが立つ千里の名前の由来は、「小さな丘陵に千もの里がある」ということらしい。人は幾つもの谷に暮らし、無数の里を築いた。それは田舎、山中の道をドライブするとよく分かる。山際に村を作り、谷のほぼ中央を川が流れている。その間は水田や耕作地となっている。これはこの列島のどこでも見られるティピカルな在りようで、僕は地形や人々の暮らし、歴史文化が見える一般道(高速は好きじゃない)を走るのが好き。
 わずかな平地に急峻な谷を急流が下るこの列島では、むしろ河畔に文明を形成するというよりも、谷口から、急流が運び込んだ土砂が形成した平地や扇状地にかけての範囲を生活の場とした。そういう意味では、「世界は神がつくったが、オランダはオランダ人がつくった」と言われるオランダの治水や干拓技術を自然に委ねたのが、古代におけるこの列島と言えるかも知れない。ゆえにw、後に渡来した弥生系や古墳系以前の基層といえる縄文がやはりこの列島の在りようだろう。
 文化、文明を育み、その花を開かせる河川はまた、時折、流域に暮らす人々に河川決壊や洪水等の厄災をもたらす。特に淀川流域は治水が先ずあってこその歴史、近代化、都市文明だった。
それでも僕たち人間は阪神淡路をはじめ東日本、能登大地震や毎年やって来る台風、豪雨等、自然の猛威には勝てない。そのことは僕たち人間の生そのものだ。そのことは後白河法皇が「天下三不如意」の最初にあげた“鴨川の水”に象徴されているように、自明だが僕たちにとってその生は不如意なものなのだ。
 そして、その生は人間だけに限らずあらゆる生命が河川によって生かされている。いつも淀川沿いを朝駆けしていて感じるのは、そこにも大自然と季節の移ろいがしっかりとあるということだ。
都市生活者である僕にとって、そこに身を置くひと時はとても貴重な全体性への回帰だ。🤗
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今朝、車を運転していて先日若くして突如、急逝した人のことを思ったら不覚にも涙が流れた。遠くから見守っていたつもりが、こんな悲しい形で終止符が打たれてしまった😢これも“流れ”なのだろうが😢、時空を超えた人のつながりというのは本当に不思議と無常で出来ている。
 徒然草の超有名な書き出しー「
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。…」
は長明が賀茂川と高野川の河合に方丈を結び、
きっと両川のとどまることを知らない川面を見つめながら感じたことを記したのだろう。
 男山と天王山の地峡を茅渟の海に向かって流れ出る淀川は大きくは木津川と宇治川、桂川の三川が一つになって淀川となるのだが、それぞれの水系にはまた無数と言っていい河川が流れ込む。
 そういう意味では淀川というのは山城、丹波、近江、伊賀、伊勢、そして宇陀から流れ出る、この列島で最もその水系全体に多様性を包含させた巨大河川と言えるだろう。そして僕が生を受けた木津川の源流域である宇陀地域は、淀川と大和川、吉野川、3つの水系の分水嶺にあたり、
古代から主要な水分神社が集中した。
 東海道は五十三次と言われるが、京街道を含めると五十七次となり、枚方宿は伏見、淀に次いで五十六次目にあたり、僕の住む守口は五十七次目。「ここはどこよと船頭衆に間へば ここは枚方鍵屋浦 鍵屋浦には碇が要らぬ 三味や太鼓で船とめる」と賑わった枚方宿、鍵屋は南朝の楠木氏の系譜につながるようだ。🥲
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 とても端的な例で言えば、「消費税は全部、社会福祉に使われている」や今現在、人類史上のトップイシューだと断言できるだろうガザにおけるジェノサイドについての「テロリストのハマスだけを殲滅する為の自衛戦争」という大嘘やプロパガンダを何の躊躇も無く“堂々と”吐き続けられる人間⁉️の闇の深淵は、その対象とのインタラクションがあってはじめて成立する。つまり、ちょっと自分で考えられる頭がありさえすれば、それに誑かされることを回避出来るのに、でも“飼い慣らされた“愚かな僕たちの多くは、上記の結果の悲劇や苦悩、悲しみ、あるいは生活の困窮、厳しさに気付かないふりをして葛藤の日々をやり過ごす。
参院選挙戦も最終日、各党、各候補者、最後の訴えを必死に展開している。でも上で書いたような者たちには無理かも知れないが、プロパガンダや誑かしが自分たちに求める投票行動の前に疑問を持ち、ふっと深呼吸してしっかりと“その候補者”を見て、感じ取った上で自分の頭で考えた上で投票しよう‼️
 前から吐露しているが、幼少の砌から自分から働きかけをしなくても自然と集まりの中心になって来た。
小学校から中学校の学級委員や生徒会の長に選び続けられてきたが、端的に言うとそれはきっと僕がオモロかったからだと思う。また息子の中学時代にはPの会長を2期務めた。多分、その投票基準は属性ではなく僕という人間自体を見た上での結果だったはずだ。そういう意味で言えば、今のゼニ儲けの手段として政治屋を目指す者たちを選んでしまう、あるいは選ばされてしまうことに無自覚でしかないと言わざるをえない‼️ 🤗
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 自民、裏金議員の萩生田は高校時代、東京の朝高生と乱闘して停学になったらしいが、まあそんな時代だったことはよく分かる。もちろん大阪でも同じような状況だった。団塊の挫折の後の時代、その“ふざけ過ぎた季節”の名残があったからなのか、あるいは僕自身がただそうだっただけなのか分からないが、在日に対する差別意識なんて皆無だった。多分、そこには畿内独特の
渡来系の重層があったからかも知れない。その頃、全大阪的にケンカが強い朝高生の名前が幾つも流布されていた。僕の高校では、僕が望んだわけでも無いのに勝手に“番長”とされてしまい、新設校ということで“攻めて来たw”他校のワルに対さなけれならなくなったw😅尤もほとんどは口の段階、“ノガキ(能書き)”で勝った。朝高じゃなくても、普通高校のほとんどの番長は多分、在日だったと思う。そんな時代だった。萩生田のような軽薄な右翼思想なんて無かった。その頃、朝高生に絡まれたら「000知ってるねん。せやからシバかんといて‼️」と懇願して逆に倍シバかれたという痛い笑い話もよく聞いた。w
 ミナミを中心に遊び回っていた学生時代、センスが良くてオモロい男女の多くは在日だったように思う。その傾向は多分、大阪だけに限らず全国の都市でもそうだったかも知れない。例えば、Our Houseのテルちゃんや「パッチギ」の主人公のモデル、アンソー等。波乗りの上手いサーファーにも多かった。🤗
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 観測史上、最も早い梅雨明け。暑い夏がやって来る。
「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり」(道元)
 この列島のくびれ部と東西軸については幾度も書いている。
 もちろんくびれ部は琵琶湖を挟んだ伊勢湾と若狭湾を結ぶラインだ。そのボトルネックの東西のインタラクティヴな運動がこの列島の歴史文化を育んでいったのだが、その舞台となったのは紀伊半島だった。紀伊半島はこの列島の東西軸にクロスする南北軸として機能した。
 その中心に位置付けられた吉野(熊野)は、外来の神は多数を占める中、この列島オリジナルな「国軸山金峰山寺」と呼ばれる。その中心となる南北軸はそのまま“聖なるライン”となっていったのだが、学生時代から数えきれないほど、その軸に沿って車を走らせてきた。そのたびにいつも感じていたのは、
 大和盆地とその北の京都盆地の間にある平城宮跡の真北、平城山は山というよりは小高い丘に過ぎなくて、その両盆地は南北一体のものという実感だ。それを挟むように西に生駒、金剛、葛城があり、東に大和高原、笠置山地とそれに続く東山、比叡山がある。🤗



 聖なるラインは言い換えれば、その幅で遷都が繰り返されたということだ。(難波宮はイレギュラーだが) 
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 天皇陵のほとんどは畿内にある。特に古代の天皇陵は大和と河内(摂津。大仙古墳が築かれた頃にはまだ和泉国はなく河内だった。)に限定的だ。でも、唯一と言っていい天皇陵が山科にある。中臣鎌足等とあの乙巳の変を起こした中大兄皇子、天智天皇陵だ。
 その後、百済の再興の為に唐、新羅と白村江で戦ったが大敗し、防衛上の理由から近江大津宮に遷都した。大津宮にいる時、狩りに出て行方不明になり、沓が発見された地を天智陵としたという。
 前からその地名「御陵(みささぎと読む)」が気になっていて、行って来たw
 御陵までの長い参道で散歩されていたご老人に「御陵はだいぶ先ですか?」と聞くと、「あぁ〜神さんのとこ。先に見えている鳥居を進むと直ぐです」と教えてくださった。その自明のことのように天皇を“神さん”と呼ぶことに妙に感心してしまった。真っ直ぐに伸びる参道脇には、「鹿、イノシシが出ます。注意」と立て札があり、狩に出て行方不明に….ということに納得してしまった。
 帰路の道中、大石道で「宇宙一の銅鑼焼き」とあるお店で、その銅鑼焼きを買った。いろいろと種類があり、抹茶とラムレイズンと“宇宙一の銅鑼焼き”の3つを買った。🤗
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