この星の上に超微差にストライドを刻む朝駆け。往路は僕がこの星の自転をサポートし、復路はこの星が僕のストライドをサポートしてくれる🤗 それでもそこには無数の気付きがある。考えると自身のストライドがこの星の自転に協力しているって‼️w 前から言っているように、朝駆けは僕にとってのこの世界の「今、ここ」への強力なアンカーだ。時間や諸々の雑事に追われる都市生活の中で、その一時間超はとても貴重なひと時だ。そこでは無数の気付きが生成する。よ〜〜く考えると、考えられなければそれはそれで僕はいいんだがw、今この時にガザやその海域で起こっている事象は今、ここで起こっているコトと本質的には同じだろう。🤗
前に言ったように、猛暑だったゆえに今年の秋は早そうだ。いつもなら霜ふりグレイのTシャツに汗が版図を広げるのだが、それがなく朝の川風が心地よい。 最近、特定の周波数がフィジカル、メンタルを整え不調に効くというポストやYT番組が散見される。僕はそれには少し懐疑的だが、それでも音(を)の楽しみ(む)、音楽、あるいは少し調べると元々の語源は違うようだが、musicはmagicに深いレイヤーでつながっているように考えている。 だって確かに音楽には人間心理に深く影響するエネルギーがあることを、僕たちは経験的に知っている。 それを踏まえてーBGMアプリにストックした曲やTEDを聴きながら朝を駆けるのだが、今朝、不思議な事象に気付いた。それは聞こえ始めた虫の音(ね)と音楽との相関だ。 つまり僕たち人間の作ったある種の音楽には、虫の音と同期して和音、ハーモニーとして聴こえるということ。でも、たいていの曲はそれぞれが主張するように独立して聴こえる。つまり、そこにはコラボレイションが生成されず、音としてはカオティックなものとなってしまう。和音ーハーモニー化するのは、日本語の祖語とも言える琉球、奄美語を基にした朝崎郁恵さんの「あはがり」だ。何故かは僕にはよく分からない。ただ、この列島の古層にある言語と風土、動植物の相関なのかも⁉️ と感じている。🤗🦅🤗PS: 枚方では「くらわんか花火大会」の準備が進んでいた。
自然は自由に振る舞う(からこそ自然は自然なのだが)。もちろんその背景にある、隠された法則を生成する中心領域とそもそもそれを動かすエネルギーとは⁉️何かを探究することが“学ぶことの本質”だ。 様々な自然の造形、空を流れる雲や木々の枝葉、そして川の流れ……それは必ず蛇行する。食い倒れ人形似wのDr.福岡、「動的平衡」の在りように対するDr.河田の指摘が面白い‼️ とても濃密な僕の人生の絶え間ない流れもまた自明だが、蛇行し流れ続けて来た。そこでは無数の事象と出会いと別れがあった。 でも、そんな蛇行した流れのプロセスの中で必ず僕に残していくものが在り続ける。それは「あぁ〜また、さらなる自信を置いていってくれた‼️」というヴィヴィッドな実感だ🤗。逆に言えば、それを失った者もその背後にはいるということだw。 それは表層的に一見ネガティヴな事象であればあるほど顕著だ。 それは例えば“ここ”でそのシーンを共有“出来た”人が今一度、そのシーンをじっくりとクールに俯瞰出来れば、そしてくだらない属性や洗脳的刷り込みをブレイクスルー出来れば、ひょっとすればその自信の断片をシェア出来るかも知れないよ🤗
25、6年前、「縁カウンター」という百数十枚程度の短編を書いた。僕んちのささやかな歴史の不思議を描いたのだが、そのデータがどこに行ってしまったのか⁉️分からなくなった😅どっかのメディアにはあるだろうが、 「神璽とともに取り戻した自天皇の御首を胸に抱きながら慟哭するしか無かった………..」(実際はもっとビビッドで全ての内臓が一つに凝固してしまうくらいの表現だったはず‼️)というシーンを思い出して、脱帽しはるか彼方の祖先と自天皇に僕は脊椎反射的に手を合わせていた。 「究極の国宝・大鎧展」(春日大社国宝殿)に行って来た。もちろん500年の間、川上村から決して出ることのなかった自天皇の兜を拝する為だ。🤗
幾度か書いているが、歴史の不思議というか、因縁というか、父母方両方ともに南朝に所縁があり、数百年を経て幕末、昭和に再度クロスした結果が僕なのだが、もう今では父母系双方ともに”そこらに転がっている感”半端なくなってしまった🥲。 それでも僕の中に流れるモノは僕の中だけには今でもヴィヴィッドに息づいているのを感じる。それは例えば南朝所縁の者としての、いつかはリベンジ意識かも知れない⁉️ ちなみに明治帝自身が「南朝が正統‼️」と宣言したのだが、現天皇家は北朝の系譜だ。 少し前、上洛しそのリベンジを果たした⁉️wと言っても、美味なるリベンジだw北区の堀川紫竹から西に2ブロック入った角にある朧八瑞雲堂の生どら焼き(和三盆➕小倉粒餡と抹茶➕小倉粒餡)と中にこし餡の入った抹茶の超柔らかいわらび餅を買った。大阪までの道中は長いが我慢して、帰宅後、お茶(この春、淀川の堤防上で摘んだよもぎ茶)とともにいただいたw多分プライドゆえだろうが、一見えらそうに見える店主だが、やはりそのアティチュードに違わず美味しい‼️‼️‼️w
そして広範な淀川水系全体として、多様性に富んだそれぞれの地域の地勢や歴史文化を合流させ、融合させていく。それはこの列島のくびれ部を形成する紀伊半島(広義の)をこの国の歴史のメインステージとして機能させるのに不可欠な存在だった。 マーケ的にいうと、変化し続ける「ヒト、モノ、ジョウホウ」をとどめなく流し続け、同時にその流れは河川としての平衡を保ち続ける。 そして僕自身も木津川の源流域から流れて、「今、ここ」淀の流れのほとりにいる。三川が合体し、膨大に増して水量は、時に北河内や摂津エリアの堤防を決壊させ、氾濫原にさせたが、そこは水田稲作やレンコン栽培の適地ともなった。 世界の四大文明をあげるまでもないが、文明には(巨大)河川が不可欠だ。ちょっと話は横道に逸れるが、岡本太郎のExpo70のモニュメントが立つ千里の名前の由来は、「小さな丘陵に千もの里がある」ということらしい。人は幾つもの谷に暮らし、無数の里を築いた。それは田舎、山中の道をドライブするとよく分かる。山際に村を作り、谷のほぼ中央を川が流れている。その間は水田や耕作地となっている。これはこの列島のどこでも見られるティピカルな在りようで、僕は地形や人々の暮らし、歴史文化が見える一般道(高速は好きじゃない)を走るのが好き。 わずかな平地に急峻な谷を急流が下るこの列島では、むしろ河畔に文明を形成するというよりも、谷口から、急流が運び込んだ土砂が形成した平地や扇状地にかけての範囲を生活の場とした。そういう意味では、「世界は神がつくったが、オランダはオランダ人がつくった」と言われるオランダの治水や干拓技術を自然に委ねたのが、古代におけるこの列島と言えるかも知れない。ゆえにw、後に渡来した弥生系や古墳系以前の基層といえる縄文がやはりこの列島の在りようだろう。 文化、文明を育み、その花を開かせる河川はまた、時折、流域に暮らす人々に河川決壊や洪水等の厄災をもたらす。特に淀川流域は治水が先ずあってこその歴史、近代化、都市文明だった。 それでも僕たち人間は阪神淡路をはじめ東日本、能登大地震や毎年やって来る台風、豪雨等、自然の猛威には勝てない。そのことは僕たち人間の生そのものだ。そのことは後白河法皇が「天下三不如意」の最初にあげた“鴨川の水”に象徴されているように、自明だが僕たちにとってその生は不如意なものなのだ。 そして、その生は人間だけに限らずあらゆる生命が河川によって生かされている。いつも淀川沿いを朝駆けしていて感じるのは、そこにも大自然と季節の移ろいがしっかりとあるということだ。都市生活者である僕にとって、そこに身を置くひと時はとても貴重な全体性への回帰だ。🤗
今朝、車を運転していて先日若くして突如、急逝した人のことを思ったら不覚にも涙が流れた。遠くから見守っていたつもりが、こんな悲しい形で終止符が打たれてしまった😢これも“流れ”なのだろうが😢、時空を超えた人のつながりというのは本当に不思議と無常で出来ている。 徒然草の超有名な書き出しー「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。…」は長明が賀茂川と高野川の河合に方丈を結び、きっと両川のとどまることを知らない川面を見つめながら感じたことを記したのだろう。 男山と天王山の地峡を茅渟の海に向かって流れ出る淀川は大きくは木津川と宇治川、桂川の三川が一つになって淀川となるのだが、それぞれの水系にはまた無数と言っていい河川が流れ込む。 そういう意味では淀川というのは山城、丹波、近江、伊賀、伊勢、そして宇陀から流れ出る、この列島で最もその水系全体に多様性を包含させた巨大河川と言えるだろう。そして僕が生を受けた木津川の源流域である宇陀地域は、淀川と大和川、吉野川、3つの水系の分水嶺にあたり、古代から主要な水分神社が集中した。 東海道は五十三次と言われるが、京街道を含めると五十七次となり、枚方宿は伏見、淀に次いで五十六次目にあたり、僕の住む守口は五十七次目。「ここはどこよと船頭衆に間へば ここは枚方鍵屋浦 鍵屋浦には碇が要らぬ 三味や太鼓で船とめる」と賑わった枚方宿、鍵屋は南朝の楠木氏の系譜につながるようだ。🥲
Well, “From the river to the sea”というフレーズは禁句らしい。でも、そこには須くを“流れる水”に代替可能な普遍的な生命、命の真理が込められている。 “ Übermensch号”の朝駆けペダリングの帰路、京街道は枚方宿沿いの2ヶ所に寄り道した。 一つは鍵屋資料館、そして淀川資料館。Additionally 豚汁専門店、美豚 for brunch.w🤗
2025お盆 屋上で送り火をした。 For The Sky.mov youtu.be/w0ENnwHX7GE?si… @YouTubeより 京都では五山の送り火が雨がそぼ降る中、間も無く始まる。このお盆中に裏千家前家元、千玄室さんが天寿を全うしたという。
早朝からお墓参りして、2つ用事を済ませて、夕刻一日早く(関西)お盆の迎え火をした。ここ数年はお坊さんに来てもらわずに自分で般若心経をあげている。僕には僧籍はないが、きっといかに高僧であろうと僕の読経より伝わることは決してないだろう🤗
ちょうどタイミング良くwオフィシャルにも急に諸々忙しくなってXのポストは久々。でも相変わらずDieHardな自身をエンジョイしていました🤗。 その間、皆さんのリアクションのおかげでwさらに意を強くしたことは、やはり、もちろん僕の中ではずっと自明だったのだが、つまり幾度も繰り返しているのだが、「あらゆる問題は結局、自身の問題に帰結するという次元にまで考えが及ばない者にほとんど価値は無い‼️」と言ってしまえばもうこの国のインテリゲンチャは悉く壊滅してしまうだろうがw🤗 八月十日、宿の日。結構いろんなところを旅して来た。その多くは世界の中心であったユーラシアの中心的交易路だったシルクロードとその分岐に沿った地域。それぞれの地域性はあるが、マニュアル化された外資系の宿泊施設ではないローカルの宿やゲストハウス等に通底するのは、ゲストを快く受け入れる心、ホスピタリティ?だ。その心はさらに昇華されて僕自身にも受け継げられているはずだw。尤も相続の問題がらみで、継いだものはネガティブな反応をするだけだろうがw🤗
この奇跡の星の上のちっぽけな存在である僕たちは、どこまでもクールな夜空を見上げて喜怒哀楽、様々な思いを託す。ユングのコンステレイションを河合隼雄氏はさらに進化させ、 それを最終講義にした背景には東洋、古代中国の宇宙観である「天円地方」があったゆえだと、密かに考えている。 橿考研博物館で特別公開された「富雄丸山古墳造り出埋葬施設・棺内鏡」を観て来た。🤗
天神祭2025、大阪天満宮本宮に行って来た。讒言によって太宰府に流され、その地で亡くなった菅公、菅原道真。日本三大祭の一つにまで盛大なものに育んだ大阪の民衆の心をせめて今日だけでも噛み締めよう‼️本姓は土師氏で、その記紀の三輪伝説(陶村の大田田根子)や出雲(物部氏)とのつながりも興味深い。 ちなみにWiki天神祭の歴史の項で、「大阪天満宮の東側に位置する「天神橋2丁目商店街」(天神橋筋商店街の一部)入口のアーケードには、羽柴秀吉・佐々木高綱・八幡太郎義家・木津勘助をあしらった4体の「御迎人形」が飾られている。….」は“大阪天満宮の西側”の間違いだろう‼️
とても端的な例で言えば、「消費税は全部、社会福祉に使われている」や今現在、人類史上のトップイシューだと断言できるだろうガザにおけるジェノサイドについての「テロリストのハマスだけを殲滅する為の自衛戦争」という大嘘やプロパガンダを何の躊躇も無く“堂々と”吐き続けられる人間⁉️の闇の深淵は、その対象とのインタラクションがあってはじめて成立する。つまり、ちょっと自分で考えられる頭がありさえすれば、それに誑かされることを回避出来るのに、でも“飼い慣らされた“愚かな僕たちの多くは、上記の結果の悲劇や苦悩、悲しみ、あるいは生活の困窮、厳しさに気付かないふりをして葛藤の日々をやり過ごす。 参院選挙戦も最終日、各党、各候補者、最後の訴えを必死に展開している。でも上で書いたような者たちには無理かも知れないが、プロパガンダや誑かしが自分たちに求める投票行動の前に疑問を持ち、ふっと深呼吸してしっかりと“その候補者”を見て、感じ取った上で自分の頭で考えた上で投票しよう‼️ 前から吐露しているが、幼少の砌から自分から働きかけをしなくても自然と集まりの中心になって来た。小学校から中学校の学級委員や生徒会の長に選び続けられてきたが、端的に言うとそれはきっと僕がオモロかったからだと思う。また息子の中学時代にはPの会長を2期務めた。多分、その投票基準は属性ではなく僕という人間自体を見た上での結果だったはずだ。そういう意味で言えば、今のゼニ儲けの手段として政治屋を目指す者たちを選んでしまう、あるいは選ばされてしまうことに無自覚でしかないと言わざるをえない‼️ 🤗
00ファーストとか外国人優遇、特権とか、近現代が既に乗り越えた“はず”のイシューに上塗りするように、排外主義、差別やヘイトが蔓延している。そこにはインテリと呼ばれる者たちの表面的にそれを否定するレトリックオンリーの理解の浅薄さがある。 京都では山鉾が建ち、明日巡行が始まる。大阪でもその後、天神祭が始まる。大阪の心とも言える讒言によって太宰府に流され亡くなった菅公、菅原道真公。この列島にはそのベイスに惻隠や憐憫、判官びいき等の心がある。そして大阪ではそんな菅公への多くの人々の心や思いが、菅公を祀り天神祭を始めた。 でも、大阪の歴史文化に効率や生産性、合理性という薄っぺらなレトリックを上塗りし否定するセコ卑しい反社組織のもと、今いちど“大阪人”は菅公へのそんな思いを思い出すべきだろう‼️🤗 続くw
つまり何を言おうとしているかというと、上から下まで多様な人間に会って来たし、その(上の)多くは何故か僕をとても可愛がってくれたが、そんなつながりやコネ、人脈を利用してある意味、“天下る“というような選択肢は僕の美学には無かった‼️ということだ。 TVでもネット上のニューズサイトや番組でも、そのMCの多くはそのコネや人脈という前時代的なクローズドなクラスターに囲い込むことで、自己満足と承認欲求を満たす。そして、様々な”専門家”を呼び、情報や知識を共有することで“自分自身もその専門家になったという幻想”に絡め取られていく。ことに、ほとんど無自覚だ。とりわけ、万博に集る黒ずくめの魔法使いの番組には、その感を強くする。w そんな彼らを眺めていて感じることーとてもシンプルだが、多分彼らには難解だろうwことは、「(専門家に病的に依存しなくても)森羅万象の全ては自身の中に在る」ということだ‼️ つまり、内観こそが究極の学びであり、知的な気付きへのアプローチだということだ‼️🤗※ 昨日の「萩生田に関するポスト」の続き。
自民、裏金議員の萩生田は高校時代、東京の朝高生と乱闘して停学になったらしいが、まあそんな時代だったことはよく分かる。もちろん大阪でも同じような状況だった。団塊の挫折の後の時代、その“ふざけ過ぎた季節”の名残があったからなのか、あるいは僕自身がただそうだっただけなのか分からないが、在日に対する差別意識なんて皆無だった。多分、そこには畿内独特の渡来系の重層があったからかも知れない。その頃、全大阪的にケンカが強い朝高生の名前が幾つも流布されていた。僕の高校では、僕が望んだわけでも無いのに勝手に“番長”とされてしまい、新設校ということで“攻めて来たw”他校のワルに対さなけれならなくなったw😅尤もほとんどは口の段階、“ノガキ(能書き)”で勝った。朝高じゃなくても、普通高校のほとんどの番長は多分、在日だったと思う。そんな時代だった。萩生田のような軽薄な右翼思想なんて無かった。その頃、朝高生に絡まれたら「000知ってるねん。せやからシバかんといて‼️」と懇願して逆に倍シバかれたという痛い笑い話もよく聞いた。w ミナミを中心に遊び回っていた学生時代、センスが良くてオモロい男女の多くは在日だったように思う。その傾向は多分、大阪だけに限らず全国の都市でもそうだったかも知れない。例えば、Our Houseのテルちゃんや「パッチギ」の主人公のモデル、アンソー等。波乗りの上手いサーファーにも多かった。🤗
ビッグバン直後のこの宇宙の大きさは直径1cmほど。じゃあ、その前はと言うと、10のマイナス34乗cm程度だったという、素粒子レベルのサイズだ。この宇宙のあらゆるもの全てが、その中に詰まっていたということだ。つまり、僕たちは皆んな、星のかけらと言えるだろう。 そんな風に考えると、この世界のあらゆる自然の一部としての僕たち人間の営為、愛や恋、友情…..また反対に戦争や諍い等は結局、元のつながりへのベクトルの正負の顕れだと思いたい。 七夕。例えば、誰かに無性に会いたいと願った刹那、そこにはきっと相手とのインタラクションが立ち上がる。僕には会いたい人がたくさんいる。 交野の機物神社の七夕祭りに行って来た。幾度も書いているが、このあたりは秦氏や物部氏との拠点が点在している。機物はまさに秦者だろう。🤗
地勢や場という語が好きだ。そこでは自然からのエネルギーを得る為の僕たち人間とのインタラクティヴな関係が現出する。その時空をデザインすること、つまり建築という行為はダイナミックであると同時に、人間心理をそこに満たすことの出来るとても深い仕事だろう。 久々に梅田に出て、遅ればせながらグラングルーン大阪の「安藤忠雄展・青春」に行って来た。ラッキーにも多分、当初予定されていなかった安藤さんの講演も聴くことが出来た。ただし、鶴松新の箱盛り御膳を堪能した後、危うくヨドバシ前の💩を踏みかけた😢w
“幾つになっても少年の輝きを大切に”をモットーにしている僕としては、やはり年齢というのは単なる数字でしか無い、と考える。 朝駆けの夏シフト、「Übermensch号」によるペダリングでここ数年、 淀川のサイクリングロードをチャリに乗って、あるいはそれを押して歩くユニークな高齢者の方を見かける。花札の坊主めくりのような頭が朝の陽光に輝いているwのだが、いっちゃんのwユニークさはパンツ一丁だということ。厳密に言うと、白いメリヤスwのGGパンツに黒いビキニを重ね穿きしている点‼️w爆w 多分、80歳は超えているだろう。 前から一度あいさつしようと思っていて、今朝「えいやっ‼️」と「おはようございます」、「あぁ〜おはよう」、「いつもお元気ですね」。その年齢を感じさせない精悍な顔のエネルギッシュな二つの目は「そこの若いの。 "Carpe Diem" じゃよ‼️」と言っているように感じた。🤗
正直あまり、流線形の速そうなデザインの車は好きではない。今までいろんな車に乗ってきた。二十歳の誕生日の朝に届いたマツダのハッチバック、ファミリアAP(庶民的❓でも超嬉しかったw)の新車以降は、全て外車だった。でも全部欧州車で、VWバス、ヴォルヴォ、ビートル、BMW(ベンツは好きじゃない)でも今はアメ車のPTクルーザーのコンヴァーティブル(3台目❓)。あのレトロクラシカルな“ずんぐりムックリ”としたデザインが好きだ‼️ 今の権利関係がどうなっているかは分からないが、カリフォルニアから帰国した数年後、イタリアのリニアスポーツとスパルコの日本におけるライセンス契約を現地(ミラノとトリノ)で、それぞれの社長と交渉し締結した。ランチをはさんだディーナーに至る長い交渉だった。それが彼らのスタイルか、あるいは戦術か分からないが、結果的に僕のタフさの勝利だった。w🤗※ 「F1」の続き。
様々な推しAIの紹介ポストが散見される。ただLLMにしてもAIにしても、“その時点”でのデータの集積結構に過ぎないのだが、それは言わばそれらのデータに基づいたシミュレイション。これは例えばアウトプットされていない僕の脳内のシミュレイションは当然だが、データとしてはカウントされないということだ。 速度はそれを感じ取ることが出来る者に同期する。つまり、その刹那とも言えるヴィヴィッドなプロセスは、測定を超えた集中だと言えるだろう。 ブラピ主演の映画「F1」を観て来た。🤗
観測史上、最も早い梅雨明け。暑い夏がやって来る。「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり」(道元) この列島のくびれ部と東西軸については幾度も書いている。 もちろんくびれ部は琵琶湖を挟んだ伊勢湾と若狭湾を結ぶラインだ。そのボトルネックの東西のインタラクティヴな運動がこの列島の歴史文化を育んでいったのだが、その舞台となったのは紀伊半島だった。紀伊半島はこの列島の東西軸にクロスする南北軸として機能した。 その中心に位置付けられた吉野(熊野)は、外来の神は多数を占める中、この列島オリジナルな「国軸山金峰山寺」と呼ばれる。その中心となる南北軸はそのまま“聖なるライン”となっていったのだが、学生時代から数えきれないほど、その軸に沿って車を走らせてきた。そのたびにいつも感じていたのは、 大和盆地とその北の京都盆地の間にある平城宮跡の真北、平城山は山というよりは小高い丘に過ぎなくて、その両盆地は南北一体のものという実感だ。それを挟むように西に生駒、金剛、葛城があり、東に大和高原、笠置山地とそれに続く東山、比叡山がある。🤗 聖なるラインは言い換えれば、その幅で遷都が繰り返されたということだ。(難波宮はイレギュラーだが)
学生時代から遊んでいた三都(大阪、京都、神戸)は庭のように思っていた。でも、京都は東山を越えるともうそこは湖国だという印象がとても強かった。もちろん山科という地名は知っていたし、元池田屋の2階のお好み焼き屋でアルバイトをしていた親密だった女学生の家は山科だった。 でも今回、山越えして天智天皇陵を訪ってあらためてそのエリアは大津へ至る途中の盆地だったことを実感した。言わば京都の中の“小京都”、隠れ里とも言えるかも知れない。忠臣蔵の赤穂浪士のリーダーだった大石内蔵助が身を潜め、討ち入りの機会を虎視眈々と狙う地に相応しかったようだ。 大石道をたどって初めて内蔵助の隠遁地だった大石神社に行って来た。🤗🦅🤗「あら楽しと 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」(大石内蔵助辞世)※ 先日の「天智天皇陵のポスト」の続き。
日月火水木金土、もちろん日本のカレンダーだ。古代バビロニアの天文に基づいているのだが、それが古代中国を経て伝わった。ただ環太平洋造山帯に属するこの列島は、様々な自然災害が宿命的に必ず起こる。それは同時にこの世界を構成する基本的なエレメントへの思考へも派生していっただろう。 京都で“先の大戦”と言えば、応仁の乱を指すという自尊的な笑い話があるが、もちろん御霊信仰に基づく天災や源平合戦、方丈記にも大規模な火災等が記されている。 当然、都でも防火の為の“火の神信仰”が育まれた。その代表なものが愛宕山山頂の愛宕神社だろう。 6月22日、初めての愛宕山ソロトレッキングに行って来た。はい‼️ “火の車”を防ぐためです。
天皇陵のほとんどは畿内にある。特に古代の天皇陵は大和と河内(摂津。大仙古墳が築かれた頃にはまだ和泉国はなく河内だった。)に限定的だ。でも、唯一と言っていい天皇陵が山科にある。中臣鎌足等とあの乙巳の変を起こした中大兄皇子、天智天皇陵だ。 その後、百済の再興の為に唐、新羅と白村江で戦ったが大敗し、防衛上の理由から近江大津宮に遷都した。大津宮にいる時、狩りに出て行方不明になり、沓が発見された地を天智陵としたという。 前からその地名「御陵(みささぎと読む)」が気になっていて、行って来たw 御陵までの長い参道で散歩されていたご老人に「御陵はだいぶ先ですか?」と聞くと、「あぁ〜神さんのとこ。先に見えている鳥居を進むと直ぐです」と教えてくださった。その自明のことのように天皇を“神さん”と呼ぶことに妙に感心してしまった。真っ直ぐに伸びる参道脇には、「鹿、イノシシが出ます。注意」と立て札があり、狩に出て行方不明に….ということに納得してしまった。 帰路の道中、大石道で「宇宙一の銅鑼焼き」とあるお店で、その銅鑼焼きを買った。いろいろと種類があり、抹茶とラムレイズンと“宇宙一の銅鑼焼き”の3つを買った。🤗