
まくすうぇる
いろんな人とお話したい
話を聞くのが好き
カフェ巡り
読書
思考
万年筆
手帳
SKY星を紡ぐ子どもたち

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最近、家に図書館とか古書店で本を探す苦労のはなしを読んでいるうちに
手元に未読本があることは貯蓄みたいなものだからあればあるほど豊かなのではないかと思うようになってきた

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誰かひとりが話題についてよく知っているとか思考が進んでいる状態だと、その人だけが多く発話して
ほかの人はその詳しそうな人に対して自分の知っていることや半端に考えていることを言わない、聞いているだけの状態になってしまう
意見言う人とそれを聞く人が居るだけだと対話にはならない
相互に発話があるように誘導するには、比較的詳しい人ほど話しすぎないようにするとか
練られていない考えも言い出せるような雰囲気作りが重要になる
とはいえ、なんの手がかりもなくどう考えてる?話して?って言っても聞き出せるものじゃないから
呼び水のような語りかけができるといいよなぁ
あと「わからない」を肯定的に捉え歓迎するってのも書かれてて、
個人的には自分が人の話を聞いてて把握しきれなくてもわからないって言えないタイプだから
もう少し分からなかったって言えるようになりたいな

まくすうぇる
ヘリコプターは飛行機か飛行機ではないか、だって[穏やか][星]

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一般的に正しいとされるものの間に、
多少の差異があることはそんなに珍しいことではないが
それが大きな差になっていくことの悲劇って感じの本だった
自分の感覚を信じて世間を無視すれば狂人扱いになりかねないし
自分を疑い他人の言葉を信じすぎると騙される
どちらもバランスよく、と言いたい所だけど
どちらも捨てられないまま差異が大きくなると処理しきれなくなるのだろうな
だから人は周囲の意見から自分がはぐれることを嫌がるのかも?
自分の感覚があまりに自由に周囲の感覚から離れていくと、どちらも抱えて処理するのが大変になるから
自分の感覚が離れて行きすぎないようにセーブする必要がある、のかもしれない

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も〜〜2回目だ〜たまにはネコチャン引いてみるかと思った時に限って当たるんだから[泣き笑い]


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自分はこの人とどのような関係性でどんなやり取りをすることが最適だろうか
自分はこの人から何を得て何を与えられるだろうかと、お互いにとって心地よく有意義なスタイルがどんな形かを、考える
もちろんあらゆる相手に対して考えることができるわけじゃないし、
考えたとしても流れに身を任せて成り行きの関わりのままにしておくことがほとんどだけど
流れの感情や感覚や雰囲気に丸投げでは
いくら現実に密接とはいえ、微妙な不具合が出てくるのではないかと思うことがある

まくすうぇる
自分を幸せにすることはできるけど他人を幸せにすることはできない、と思う
自分の振る舞いが誰かにとって幸せの材料の一部になることはあっても
幸せの全部になることはないし、材料として提供することはできても実際使うかどうかはその人次第だ
だから、自分が相手を幸せにし相手が自分を幸せにしてくれるという考えが
あんまり合わないんだろうなぁ

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回答数 58>>
1日の半分くらい一緒に居て、普段はちょっと離れた所で好きなことしてる(ぼんやり何かしら考えてる)けど、何かあったら横にきて問題について話をしてくれるし
自分の感情が大荒れでも淡々と必要なことを必要なだけ言ってくれて
居ないでほしいときにはさっと隠れてて
基本的に献身的な対応されるんだけど、
たまにへそを曲げてて、暇だから考え事しようと思っても全然近づいてこない時もある
スタバに行くと機嫌よくなって寄って来る

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組まれた考えのなかに穴がある時、その言い表せない部分にあるものは感情論や思い込みのように考えられることが多いけれど
本当はただの論理の抜け落ちではなく、別の条理に基づいたなにかである可能性があるなと、最近考えている

まくすうぇる
まぁ、期限1日だけなんだけどね(´・ω・`)

まくすうぇる
このメモをそのまま見せたら面白そうかもーと思って撮ってみたけど
字が下手どころか漢字が逆転してるしひらがなも瓦解してて
走り書きの字って改めて見るとほんと原型をとどめないね[泣き笑い]

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2年くらい前にこうしたいと思っていたことを、すっかり忘れていたけど達成できてたりするし
まったく進歩がないと思えても、なんとなく出来ることは増えていくものだね

まくすうぇる


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捉える方法は言語化をすることだけとは限らない
そもそも苦しさの感覚を言語の形式に翻訳するのは、形式差に阻まれやすいものだとも思う
言語化をするのは対象になる感覚を正確に浮かび上がらせるためかな
話したり書き出したりすることでより効果がでそうだけど、言語化できずアウトプットができない場合でも
対象になる感覚を的確に意識することができるならそれで充分な可能性もある
対象になる感覚を的確に意識する、を言語化を経由せずに行うためには
例えば、自分の持つ感覚と他者の語る感覚が非常に似ているときに、類似を感じる瞬間にはその感覚をより意識する、と思う
まぁ、いわゆる共感ということになるかな

まくすうぇる
自分と他人は元々同じ発想をするはずだけど生きてきた場所や習慣によって差が出る、と考えるのか
自分と他人は元々異なる発想をするものだけど現代であるとか人間であるとか、似た条件下で生きていることによって共通する部分もある、と考えるのかによって
他人に対するちょっとした反応が違ってくるのかもなぁと思った
例えば、
自分がどの程度の量の説明ができたら相手の分かったを納得できるのか、とか
他人の「そうだよね」への信用度とか
自分と相手は異なるものだという意識が強いと、そう簡単には理解されたことへの納得ができないのかもなぁ

まくすうぇる
言語思考者と視覚思考者って
似た概念ではあるが、思い浮かべることと考えを動かすことで差があったりするのかな
ベースの得意不得意はほぼ同じだろうけど、まったく同じものでもない気もする…?

まくすうぇる
頭のなかに知識が十分にあって、外から与えられる一部のワードからそれらを思い出すことができる知識、と
頭のなかの知識の一部を適当なごく短いサイズのワードとして外に発することができる知識
それから、
頭のなかの知識を適切なサイズに分割して外に発し、発言によって外で(つまり他人の頭のなかで)組み立てることができる知識、があって
それぞれ
説明はできないけど指し示されれば既に知っているもの
前提知識を知っている人同士なら問題なく会話できるもの
前提知識がない相手にも説明できるもの
になると思うが、
これらは知識が深まれば深まるほどすべてができるようなるわけではなく
インプットとアウトプットのバランスとか、どの部分で反復が多かったか
単に経験の偏りによるものだと思ったりする

まくすうぇる
鈴木大拙
碧海寿広 訳
#読了
けっこう長い時間かかったけど、なんとか読み終わった〜!
論理によって言い表せないものを言葉にしようとした時に、そうでない側のものを言語化して輪郭代わりに使う
ステンシル的に表現されているから、おいそれと要約することが出来ない本だなぁ

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また、分類の枠によって個々を表現する事と分類の枠を参照する事を同一視してはいけない気もする
表現と参照の差はきわめて小さく、受け取る人の感覚次第でどちらとも取れるものだけど

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ものすごく抵抗がある

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なんでもない人に理想を重ねて美化した相手を好きでいることが恋
相手の悪い所欠点が見えていてそれでもなお「捨てないでいる」ことが愛、だという
この解釈けっこう面白いな
その人の欠点を知ってそれをみにくいと思っても厄介だと感じても、情があって手放さないあいだは愛であるってことになる
感情より行動に軸がある
恋のほうは認知と感情寄りに軸があるから
恋と愛は、上位互換みたいな関係性ではないって感じのニュアンスがあるなぁ

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まず自分の価値観というものを、
幼い頃から持っているような自分の好き嫌いや興味関心やただ素敵と感じるもののような、自己の純粋な価値基準が
定価や相場のような社会的な価値基準
それから流行り廃りなど集団や他人のもつ価値基準などから影響を受けて
ひとまとまりの自分の価値観が形成されている、と設定したときに
ギバーはその自分の価値観のなかで重要だと思うものを相手に与えようとするのだと思う
物質の充足を重視するなら物を与えるだろうし
感情的配慮を重視するならやさしい言葉を与えるだろう
つまり与えたら枯渇するものを重視するタイプの人は自己犠牲型のギバーになりやすいのではないかな
物質的なものや行動的なものより形のないものに価値を感じる人ならあからさまな自己犠牲にはなりにくいが、
形のないものでも自分のなかで価値があるものを与えるばかりでは、惜しむ感情が残るような気がする
これは、自分の価値観の枠組みのなかで考えている間は避けられない
惜しむ感情を完全に無くそうと思うならこの世に価値のあるのもなどない、価値観自体捨てるみたいな話になってしまうが
そこまでする必要はないか
他者志向型のギバーは、もちろん自分の素の価値観も持っているが
それとは別に、相手が求めるものや行動から逆算してそれを好んで行えるような価値観がどういうものかも把握しているんじゃないかな
その逆算した価値観と素の価値観を比較して、自己犠牲にならない程度に逆算した価値観を取り込んで自分の価値観を塗り替えていく
そうすれば、ここからは与えられないの境界が自然にできるから自己犠牲はしないし、自分の価値観の沿って惜しみなく人に与えることもできる
って感じなのかなぁ
まぁこれは完全に推量、机上の空論でほんとにそんな人がいるのかはわかりませんが

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末世炎上 (諸田玲子
木曜組曲 (恩田陸
天才感染症 (デイヴィッド・ウォルトン
バーティミアス (ジョナサン・ストラウド
江戸落語事始たらふくつるてん (奥山景布子
少女地獄 (夢野久作
Kの昇天 (梶井基次郎
陰翳礼讃 (谷崎潤一郎
数学する身体 (森田真生
生物から見た世界 (ユクスキュル、クリサート
小説からちょっとはみ出ちゃったのは御愛嬌[穏やか]

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面白そうなので便乗して考えてみた
わがままと自分らしさの差を考える時にまずイメージするのは、他人の迷惑になっているか否かや良いこと悪いことの差
シンプルに、良くない影響がでるならわがままで悪い影響がでないなら自分らしさ、と考えることもできる
また別の視点でみると
わがままと自分らしさに使われる、自分というもののスタイルがちょっと異なるとおもう
わがままに使われる自己は意向や欲求などの動的で、自己の本質ではなく現象としての自己といった雰囲気がある
自分らしさに使われる自己は性質性格特性のような元々自分に備わっている固有のもの、自己の本質に近い部分のことを指していそう
それをちょっと転じて
わがままに使われる自己は、現状現実的で
自分らしさに使われる自己は、理想型的で不自然に精製されたもの、とも感じる
つまり現状の自分には良い所も悪い所もあるが、自分の良い部分だけを残し悪い部分を無くして
こういう自分でありたいとかこうあることが整っていると感じる姿のこと
こういう精製された自己は目標にするには良いが、実際にその姿で居続けることは難しく完璧に現実に落とし込むことができない机上の空論的でもあるとおもう
例えるなら、正しい姿勢というのは存在するしそれを参考にすると良い効果もあるが、四六時中正しい姿勢でいることは難しいし、すべての行動(蚊が飛んでるから叩こうとするとか)を姿勢よくやろう、とまでは出来ないだろう
なので、自分らしさに使われる自己がわがままに使われる自己よりも絶対的に良いとは一概には言えず、どちらもあっても良いし
ほどほどにわがままに振る舞うことも必要なんじゃないかなぁと思ったりもする
あとは、わがままに振る舞うは自分のスタンスを発すること
自分らしく生きるは自分らしくないを無くすこと
発揮か破棄かとか足すか減らすかのような、動きの方向性にも差があると感じるかも
ざっくりこんな感じですね
何かひとつの行動がわがままであるか自分らしさであるかは、どちらの要素も含んでいる場合が多いから簡単に判別できるものでもないなぁ
判別する必要も、もしかしたらないのかもしれない

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どれだけ消耗せずに躱せるかというのも強さのひとつだなぁ

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会話の流れは、会話に参加している人たちの興味のウエイトがもっとも重いところへ向かって流れていくのだと思います
ただ実際には参加している人の興味を集計することも正確に知ることもできないので、
「会話の中で発言をする」ことが自分の興味の方向へ少しの移動、としたとき
参加している人が各々の興味へ少しずつ移動していくとすると
上手く行けば、ひとかたまりの会話としてみた時おおよそ全体の興味の重みがある方へ移動しているのではないかな、と考えています
人と人が興味をつなぎ合う瞬間に何が起きているのか、は特に書くほどのことが思いつかなかったです

まくすうぇる
不登校で何もやる気がでなかった娘が久しぶりに自分からしたいと言ってパンを焼いた。という話を同僚の間でしたとき、
それを聞いていた中に一人、自分がパンを上手く焼ける話に持っていこうとする人がいる。この人は空気が読めない
みたいなものがあって
まぁこの場合パンのことより娘さんが意欲的であることに注目する(べき)、だから
そういう流れに反すると空気が読めないと思うのだろうけど
こういうあきらかに、どちらかにウエイトがあるもの、ではない場合も
会話の流れる方向ってあって、おそらくそれは何気なくあるものだと思う
会話を、
ひとつの発言のなかにいくつかの要素が含まれていて
その中で重要だと思うものや面白い興味があるものを拾って、次の発言に繋がる
数珠つなぎのように連なりながらどこかに向かっていく流れのようなもの、と捉えた時に
自分の興味の流れと会話の流れが、一致する時もしない時もある
ぴったり一致するときは楽しいだろうし
まったく一致しないときは退屈になりそう
お互いに楽しく会話をするためにもっとも簡単なのは、興味がまるっきり同じ相手と話すこと
次いで、興味がちょっとずれてても相手の興味に沿うように交互に譲り合って話すこと
あるいは、相手が興味をまったく出さずにこちらの興味に完全に沿うときも楽しいだろうね
相手が自分より賢いときは楽しく話せるのととても似ている
逆に楽しく話せないときは、
会話相手が自分の興味から離れてこないときや、
会話に参加している人が多かったり興味傾向がズレていたりして、発言がばらばらでそれに含まれる要素を拾ってみてもウエイトが分散してしまうときは、流れが掴めなくて面白くないと感じるかも
あとは良い話し方として、聞き手になるとか質問をするとかあるけれど
実際ただ黙って聞くとか質問する、だけでは不十分なのかもと思った
相手の興味に沿うということを押さえていれば発言を多くしても楽しんでもらえるだろうし、
質問をする、答えが返ってくる、それについて返事をする、となると、
質問も自分の興味から出たものだし答えの中からまた自分の興味によってなにかを言う、みたいに相手のことを聞いているようで自分の興味の流れにしかなっていない場合があるのだと思う
ちょっと話が分岐しすぎてしまった
気が向いたらまた個別で深堀りして投稿するかも

まくすうぇる
いわゆる深い話をしたいに近い感覚のものだけど
それがあるから悩みもないのに悩みを捉えて考えてたり、自分には関わりようのないものに口を出したくなったりするのかも
自分に直接関係ないことだと割り切ることも有効だけど、どちらかといえばそれは場当たり対処的で
実のところ根本にある問題は、深く考えることの対象を間違えていることや会話の相手選びが適切でないこととか
間違え以前に意図して選ぶということができない所にあるような気もする
まず求める会話の深さが合う人がなかなか居ないというのもあるが、もし求める会話の深さが同じでも
必要な知識や認識の広さ深さがお互いに重なる部分でしか深堀りができないという点で
、
共有しやすい話の対象は平凡ですでに語り尽くされたつまらないものになる可能性が高い
けどそんな分かりきった会話がしたいのではない
また、そんな万人が分かりきった領域から外れていくと今度は知識や考察が足りずに深い会話になりきれない
自分の興味をもっと可変的に扱うことができるなら、もっと違う方法がありそうな気もするけど、なんとも
なんだかとても、とりとめのない文章になってしまったな

まくすうぇる
宝石あつまるたびにひいてるんだけど
使わない入室エフェクトがじみーに溜まっていく[泣き笑い]

まくすうぇる
かなり近いどころか被っているゾーンがあると、やりにくいなぁと思ってしまう

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自分以外の誰かが考えた思考には、
なぜそれを考えたのか、とか
その思考によって何を言いたいのか、のような
着目した理由や結論の使い先がなにかあるのだろうというスタンスで思考を見ていることが多いけど
自分の思考には理由や使い先は無いか、あるいは認知できていない事がほとんどかも
理由や使い先が実際にあるかどうかは置いておいて、
他人の思考か自分の思考かによって感覚に差があるのは、バイアスによるものなんだろうなぁ

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回答数 32>>
人によってはある
人そのものよりも、その人の持つ興味関心や思考や感性、感情のゆらぎみたいなものを
見ているのは好きかもしれない
このときに自分は他人を、その人そのものである領域とその人の周りにあるものの領域が
しっかり分けているのか分けられていないのか 人とものを同一視するときもあれば分離して感じるときもある
その人の周りにあるもの、は
その人が興味を持つものだったり好き嫌いとか考えや主義から、趣味や仕事やよくやる癖とか口に出す話題まで
その人のアイデンティティを構成するもの全部のことで
その人の周りにあるものを全部 その人と分離して見てみると、
(自分の認識上は)その人のその人らしさはまったく無くなって、なにも面白くないただの空っぽな人の形になる
そうなると自分はその人に興味があまり持てなくなってしまう
だから、何かに熱中していて
あたかもその人とその人が関心があるものとが同一であるかのように振る舞う、何かに執着している状態の人のことは
好ましく思ったり逆に恐ろしく感じたりするので関心がある状態と言えるだろう
だいぶ脱線してしまった
関わり方でいうと自分からはほとんど動かないかも
ほとんどの人を分離した状態で見ていることが多いからかな
もう少しくらいは同一としてみることができれば自分から話しかけに行くくらい興味が持てたりするのかな、と思ったりもする

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まくすうぇる
なにに興味をひかれたのか言語化できなかったんだけど
今日になってまとまりになってきた
人は感情について考察するときに、分類されてぱっきり区分された綺麗な形状の形式的感情を使って、実際の自分の感情や他人の感情を考えようとするけれど
実際に起こる感情の塊のなかにあるのは、綺麗な形状の形式的感情であることがほとんど無い
分類された形式的感情を実際に当てはめようとするやり方は
感情を分析しようとする上で不適切なのかもしれない、と思った
ちょっとわかりやすくイメージに当てはめるとすると
分類された形式的感情というのは、生の野菜みたいなもので
悲しさはにんじん、うれしさをじゃがいも、怒りは玉ねぎ、みたいに
かたくて固体を保っていてそれぞれしっかり異なる味があって、って感じなんだけど
実際に起こる感情はすでに調理された肉じゃがだったりポトフだったりカレーだったりするわけ
実際の感情の塊のなかには、たしかに素材として分類された感情と元は同じものが入っているが、同じものではない
肉じゃがのじゃがいもとカレーのじゃがいもは別物だし、生のじゃがいもとも異なるわけだから
もしそれを一括りにうれしさとして取り扱うと無理がでてくる
実際の感情を分析したい時はもっと実例に寄って「こうなった時に起こるよろこびに似た感情」みたいに
その都度、実例にでてくる複雑な感情の一部をまとまった形として定義して仮名をつけて取り扱うほうが
誤差少なく思考ができるんじゃないかなぁ

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あるべきときに必要なものがそこにあるという点で
それが良いものでも悪いものでも、ちょうどよく近くにある

まくすうぇる
地衣類はちょこっとしか載ってなかった
気が向いたらまた借りよ


まくすうぇる
変化がないこと、展開していかないこと
興味関心を固定されること
こうしなければならないもそうだし、いつの間にか常にこうすることが当たり前になってたみたいなものもなんとなくイヤ
一般的、普遍、安定していて崩してはいけないものも遠ざけがち
緩さや遊びや動きがないものに窮屈さを感じるのかも
固定的な人やものはそれ自体は苦手じゃないし、むしろ安定している人やものは好きだけど
自分もそれになるのは避けようとする所がある

まくすうぇる
回答数 11>>
思考の基盤がここ数年で固まってしまっていて
楽ではあるが変化がなくて
この基盤から出てくる思考になんの意味があるのか、と思う時がある

まくすうぇる
きいろくてふわふわしてて
ちょっと離れたところから眺めて愛でたりしたい可愛さだ

まくすうぇる
読書によって知識や考え方を得る人と、他の人との対話によって知識や考え方を得る人は
その思考形式やアウトプットする形式や言葉のチョイスが違っている
ただ本質的には同じものに行き着くというのが面白くて
普段しないほうの方法に挑戦してみたりしてるけど、読書によらない形式での思考とアウトプットが
やっぱり慣れないからなのか、すごくむずかしくて
頭のなかにログが残りにくいのと、文章としての形に組み上げることがなかなか出来ない
これは、変換が上手く出来てないだけなのかそもそも変換できないものなんだろうか

まくすうぇる
