
サタケ
投稿の内容はメモの代用として書きたいことを思ったままに書く。誰にも気をつかわないで生きていきたい。
◾️邦楽
Helsinki Lambda Club /踊ってばかりの国
/Gateballers/MIZ
◾️邦画
藤元明緒「海辺の彼女たち」
◾️漫画
幸村誠「ヴィンランド・サガ」
宮崎夏次系「僕は問題ありません」
◾️アニメ
磯光雄「電脳コイル」
夏目真悟「Sunny Boy」
お酒
読書
洋楽
邦楽
ロック
クラシック
ジャズ
エレクトロニック
インディー
インディーズ

サタケ
以前Sanny Boyというアニメを見てとても面白いと感じた。これは日常世界から切り離され、別時空の世界へと飛ばされる少年少女たちの物語だが、そのアニメのワンシーンで次のようなものがあった。
学内の生徒会長を決める選挙において不正が行われたことを知った女子生徒が「不正は許せない 明るみにしてやる」と発言したことに対し、彼女が最も信頼を寄せる先生が「それぞれに事情があったのだろう」と宥め、行動を諌める。結局彼女は自らの正しさを信じ行動に起こすが、正しさを武器に権力に逆らった結果として、信頼していた先生は左遷され、結局何も変えることはできなかった。
他にも似たようなシーンがいくつか登場し、その度に「自分の思いようにいかないからと憤るのは子供だ」「世界を変えることはできない」という象徴的なセリフが飛び交う。
Sanny Boyでは、この「世界を変えることはできない」という概念が一貫して描かれている。作品の世界では大いなる意志としての神が存在し、最終的には主人公が神の因果律(何者かによって作られた世界)から脱出して「世界を変えることはできない→内面世界を振り返り自分を変えることで、未来を変えることはできる」という結論に達する(異論は認めます)。
この「世界を変えることはできないが、未来を変えることはできる」というメッセージは今の日本社会と密接に関わるテーマ性だと思う。
ある視点で捉えると「世界を変えることはできないが、自分の未来を変えることはできる」と解釈できる。これはひろゆきの感覚に近いと感じるし、今の日本社会(どんなに不正が明るみになろうとも決して変わることのない政治体制)を反映した上で適切に順応した考えに思える。sanny boyというアニメでは「自分の思い通りにならないからといって憤るのは子供だ」という指摘をしているが、これもひろゆきの考えと通ずるものがあるように思う。
ただ、それはあくまでも資本主義が絶対的である場合にのみ成り立つ理屈だ。
マルクスは資本主義の絶対性を否定し、その際に、資本主義は人類の歴史と経済の変遷から考えて明らかに“何者かによって作られた仕組み”であり、その何者かによってあたかも自然の摂理であるかのように語られていることを指摘した。
アニメSanny Boyでは、最終的に「自分には変えることのできない世界」から脱却し、未来の世界へと帰還する。これは、「自らの意思を発見し、自発的に選択することで未来を変えられる」という、ある種の希望とも受け取ることができる。
つまり、「世界を変えることはできないが、自分たちの未来は自分たちの意思によって変えることができる」とも解釈できる。
あくまでも解釈の話ではあるが、僕なりにSanny Boyというアニメを通して現代社会の冷笑的な視点を理解しようとした。メモ。

サタケ

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彼の基本的な姿勢として「他人は変えられない」というのがある。さらに大きな括りで言えば「社会は変えられない」「国は変えられない」となる。
その状態からスタートして、ではどう考えどう動くのか、というのが彼の根本にある気がしている。
「他人は変えられない→ならばどう動くべき」
この姿勢は個人主義がベースとなる現代においてとても受け入れやすく、また理にかなっている。僕も基本的にこの意見に同感だ。
「社会は変えられない」というのも、ある意味で正しい。ただ、それは自分の利益だけを軸に捉えた場合だ。
その場合において、資本主義×個人主義の最も適切な思考回路だと思う。
ただこの点において僕の見解は違う。民主主義である以上、人は社会参画して社会を変えていく自由がある。逆にいえば、今の社会に責任を持つべきであり、社会を動かす、社会を変えていくこともまた責任の一つだ。
また資本主義は人間の歴史において絶対ではない。確かに資本主義社会において、その軸とは異なる動きをすることで自己の利益は損失する。それを愚かと断定するのがひろゆきの根本的な考え方にあるように思うが、自分のことだけでなく他人のことや後進の人々のことを考えるのが社会だとしたら、やはり社会を変えていく運動に参加する必要があると思っている。
資本主義社会の枠組みの中で物事を考えるか、資本主義の枠組みを超えて物事を考えるかの違いがそこに明確にある。僕は後者でありたい。
でもだからといってひろゆきを嫌いなわけではない。別に好きでもないが。

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人生をやり直したい願望の現れなんだろうな。

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大事なのは本質を知ろうとする真摯な態度だと思うし、僕はそういう姿勢の人こそ頭がいいと思っている

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『映像研には手を出すな!』
『電脳コイル』
『ピンポン』
『音楽』
『千年女優』
『平家物語』
『Sunny Boy』
Sunny Boyは最近では頭ひとつ抜けた傑作で、とりあえず2周見た。3周もしたい。

サタケ
日本は1995年から30年間にわたって、観光国家戦略を国家の柱として推進してきた。
その結果
■30年で訪日客は約480万人→約3,700万人と7.7倍に拡大
◾️観光は自動車に次ぐ第2の輸出産業に
■背景には人口減・高齢化による内需縮小対策と、地方の衰退防止がある
観光客の母数が7.7倍に急増しているわけで、マナー違反の数も比例して増加するのは当然の話だ。
マナーの良い観光客も悪い観光客もいる。それは日本人も同じ。
そもそも構造として、内需縮小と地方衰退を防ぐため、国家戦略として観光立国を目指してきたのだから、こうなることは初めから分かりきっていたことだ。
逆に外国人観光客が来なくなったら日本の経済はボロボロになるし、地方は自治体や観光業は大変なことになる。
こうした背景を一切無視して外国人観光客のせいにするのは、完全に的外れだと思う。

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ギャンブル (LIVE)

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素晴らしい

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この両軸のバランスが崩れた結果が、1970年代の連合赤軍、日本赤軍の暴走といった極左暴力主義と、それと真逆の社会や政治への無気力無関心という態度を産んだ面があったのだろうと思う。
もちろん実際にはもっと複雑な背景があるだろうけど。

サタケ
「今のジジイやババアたちがボンクラだったせいで、こんなにも悲惨なことになってしまった」
これはほぼ間違いない。今の僕が見ても、僕らはあまりにも愚かだ。

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本来であればその政党が支持を集めているという事実と社会背景を考察するに留め、その人自身については偏見なく接するべきだと頭ではわかってはいるけど、難しい。
でも想像以上に信者が多くて辛い。

サタケ
シナリオだって考えてる

サタケ
僕はそれを10年ほど前に知り、「猫ですら相手をリラックスさせる努力をしてるのに、自分ときたらいつも無表情。こんなんじゃダメだ!」と思いたち、ドカベンの微笑三太郎を師匠に据えて、日常的に口角をあげること自らに律したものの職場で「最近サタケさんの口元がキモチワルイ」と話題となり1週間で頓挫した過去を持つ。結果、ポーカーフェイスと評され続けて今に至る。
ちなみにドカベンの微笑三太郎がいつもニコニコしているのは、「相手を油断させるため」。なかなか狡猾な男である。あと「間違って転校してきた男」でもある。師匠に選ぶ人物を間違った可能性はある…。


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サタケ
AIがクリエイティブじゃないという批判はいずれ終わると僕は考えている。
アイデアや発想力とは、知識と技術の集積から生まれる。別に人間だけに許されたものじゃない。AIが過去の知識と技術を学習すればするほど、特定のパターンを複数掛け合わせることで、人間には思いもよらないアイデアや発想を無数に表現してしまうだろうと思う。
アンモナイト柄の着物は、その良い証明だと思う。
こんなことは結構前から分かってたことで、もしかしたら世間一般のいう「AIがクリエイティブじゃない」という批判の論点からズレてるかもしれないけど。
ただ、学習させる素材が多ければ多いほどクリエイティブは実現するということ。


サタケ

サタケ
PR動画は短ければ短いほど刺さると言われ、物事をシンプルに捉えることを良しとする傾向が長く続いているが、シンプルに捉えることのデメリットを理解しないと。
物事はそう単純じゃない。もっと歴史的背景なり運動の流れなり、そういう過程の部分や土台の部分を理解していないと、本質的な話をするのは難しい。
情報をデジタル化していく中で、大事なことをいくつも見失ってるように感じる。

サタケ
はい、そこで心臓止めてーーーー
…!?

サタケ
第二次世界大戦後の日本というのは、軍国主義から民主主義への大きな回帰がありつつ、資本主義による本源的蓄積や東京一極集中、バブル期における土地の回収と大規模高層建築物の建築、そして文化と景観の破壊、環境悪化などが一挙に押し寄せた。
その過程で特に東京という街が大きく様変わりしていく道程が見れることが興味深くもあり悲しくもある。そしてその過程を見て知ることで、僕はその延長線上に生きているということを実感し、資本主義がなんなのか、今の社会がどの立ち位置にいるのか、僕らはどんな濁流の中に生きているのかを少しは理解できる。
だから昭和が好きだし、1950年代からの世界史にも興味がある。

サタケ
彼はフォークの才能がずば抜けていたのに


One Too Many Mornings

サタケ



思ひで

サタケ
作者が示したのは
①愛(恋愛・友情・家族愛)は習慣である
②愛(恋愛・友情・家族愛)は共に過ごした時間と労力である
ということなのではないか。
この話の中では主人公である王子さまが、星に置いてきたバラというヒロインへの記憶を通じて
「あなたが美しいから、あなたを愛していた」
「あなたを愛しているからこそ、あなたのために行動した」というシンプルで明快な愛の精神性を、一度否定する。
「あなたが美しいから愛したのではなく、あなたを愛しているから行動したのでもない」
「習慣という日常を共有することで結果的にあなたのために時間と労力を割く。そして後から、折に触れてあなたのことを思い出す。その記憶こそが、愛そのものだ」
ということになろうかと思う。ここでいう愛とは習慣の結果であり、記憶だというのが僕の解釈だ。
愛とは、初めからあるものではない。
日常の中でその人を思う時間、そしてそこに刻まれた無意識の記憶だ。
そして最近僕がよく考えることは、人は愛によって行動するのではなく、習慣が結果として愛を育むのだということ。この際の愛は恋愛にとどまらず、友情や家族愛も含まれる。
星の王子さまに出てくるキツネの発言にも同じことが書かれている。
以下は、キツネが最後に王子さまに教えた“大切なことは目には見えない”という内容の核心的なくだりだ。
「きみがきみのバラのために費やした時間が、きみのバラをそれほど大切なものにするんだ」

サタケ
けど、物質にも執着しないというのは現時点で僕には難しい。
僕は、両親、好きな町の風景、自分自身などあらゆる物質に執着している。その執着を捨て去ることはなかなか出来ることではない。
けど、形あるものはいつか必ず朽ちて失われる。例え自分にとってどんなに大切な人も、必ずどこかのタイミングで残酷に死ぬ。もちろん最期は自分が死ぬ。だから執着を捨てる選択をしようとしまいと、人は必ず全てを失う。そのことを想像すると、怖くて仕方がない。
現実的な現象として表れる課題は、環境や習慣といった外部要因を変えることで改善できる可能性がある。
だけど、死に関する問題の本当の意味での解決は基本的に不可能であり、こればかりは自らの思考や精神によって死を受け入れなければならないのだろうと思う。最終的に必ず自意識とその消失という観念的な向き合わざるを得ない。
僕はこれまで観念的な思考をあまり重要だとは考えてこなかったが、死への向き合い方は基本的に観念的な思考によると思われる。
しかし般若心経の境地に至り、悟りを開いた人たちが高潔な精神性によって死の恐怖を克服できるのかどうか、僕には全く分からないし、そもそも理解が到底及ばない。

サタケ
なぜなら根本の原因は精神のような抽象的なものではなく、社会や経済システム、環境といった、より具体的なところにあるから。

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僕は裁量労働制で残業はないし自分がそこを担えば済む話で、現実的にも何とかなる量だったので、分担を仕切り直して「こうすれば彼は月曜日休めそうです これでいきますね」と上司に伝えた。返信はないが問題があるとは思えない。
僕としても有給を取りたい時に取れるような環境にしたいので、こういう時は仕事にやる気が出るなぁ。ムフー

サタケ

サタケ

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自分自身が《労働力という商品》を売っている以上、今のこの社会で自給自足に戻ることはとても難しい。でも少しずつ商品から距離を置くことはできる。
昔は終電近くまで働き、自炊する気力もなく大衆居酒屋や安いスタンディングバーで飲み食いし、家にはただ寝に帰るような荒んだ生活をしていた。
けれど最近は報われない仕事など早めに切り上げ、家で自炊して作り置きをしている。部屋には大きなソファーを買い、休日に喫茶店や飲み屋に行くのをやめ、自室で寛ぎながら読書をしている。
そうやって意識的に消費社会から距離を取り、自分だけの空間、自分だけの時間を作ることで、商品としての自分ではなくて、一個人としての自分を取り戻すことができてきたと思う。
この行為こそ、僕を最も人間的に成長させていると実感している。
本は、昭和史や40〜60年前のモック本を古本屋で見つけては買い漁って読んでいる。1950〜90年代の街の風景、人々の雰囲気、文化、表現、当時の一般市民の率直な価値観に興味があり読み進めている。
日本社会や歴史の流れを理解することは、周りの人への理解や関心にも繋がる。このように他者と社会の仕組みに対する理解を少しでも深めた上で、自分の意思で今の社会と心の距離を取っていく。しばらくは、そのように生きていたい。楽しい。

サタケ
高校入学したての頃、選択科目の音楽の授業で演奏発表会があり、どんな音楽でもいいから自由に楽曲を選び自由に演奏したり歌ったりして披露するという場があった。各自グループを組むか1人で演奏するかを選ぶ必要があり、友達のいなかった僕は1人でやるか余り者グループでやるかを迫られた。1人よりは楽だろうとのことで、友達のいないはぐれもの男子グループに入った。根暗男子4人衆の誕生である。
ただ当時の僕には思惑があった。
この演奏会を通して我ら根暗男たちのクラス内での冴えない評価を覆してやろうじゃないか、という目論みだ。
幸い、小学校時代にクラリネットを学んでいたという生徒が一人混じっていた。僕も当時下手くそなりに実家にあるピアノは触っていた。
クラリネット1人、ピアノ1人、リズム隊2人という編成で演奏可能な、かっこよくてシンプルな楽曲を探すところから始まった。時間にして3週間ほどの猶予があったように思う。
最初はミッキーマウスマーチなどを推す声もあったが、いやいやそれではクラスをあっと驚かすことはできない。もっとクールで!もっとストイックな楽曲を!
僕の熱心な提案の甲斐あって根暗男たちは無事にテイクファイブを選曲し、放課後に練習を重ねた。
発表の日、みんなが流行りのJ-Popを振り付けしながらカラオケ歌唱を披露し、爆笑と手拍子が巻き起こるなか、僕ら冴えない男4人衆の出番がやってきた。
演奏前、クラスメイトたちの目は冷ややかで、嘲笑すら聞こえた。けれど演奏が始まるとヤジが止み、しんと静まりかえったのをよく覚えている。
してやったり。
僕らの演奏後には拍手喝采が起こり、女子たちからは「かっこいい!」との声まで上がった。
そうなのである。寡黙な僕らに相応しいクールな選曲をしたのである。YES!僕が!選曲!しました!イッツミー!!
この後、根暗男たちはクラス内で少しずつ人気を得て幸せな学生ライフを送った。
僕以外は。
多分自意識過剰だったんだろうネ…。

テイク・ファイブ

サタケ

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けどそれは資本主義社会による価値観の包摂に過ぎない。僕は観念論者のいうことは信じない。
おかしいことはおかしいし、正しいことは正しいと臆することなくいえる自分でいたい。

サタケ
これは自分自身の問題としてというより、社会的な病理だと思っている。

サタケ