こきやーじゅ🐚
寝てばかりいる。
メモかノートの落書き。
ここにあるのは、わたしのことば。わたしがわたしを生きていることの確認。
(投稿を整理しました)
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こきやーじゅ🐚
ここで、これまで「哲学」と言ってきたものは、「哲学的なもの」だ。つまり、語源学的な意味での希哲学だ。哲学的なものが哲学になるためには、身体がいる。それがテクストである。テクストとは、つねにすでにである。哲学の形相は、その質料を要求するが、哲学はまったき虚無から「開始」されるものではなく、テクストというつねにすでにそれが哲学であったところの、哲学の身体、あるいは、哲学の「器官=障害」と「哲学的なもの」が出会うところに、いつも再開されるのだ。「言うこと」しかない世界では、哲学は開始されない。そこには哲学の身体がないからだ。そこでは、言うこと、言い直すことが繰り返され、共通の地平をもとめる試みは空転する。それは匿名にして永遠なる論争のから騒ぎである。哲学的なものがこのから騒ぎを抜け出すためには、「言ったこと」としてのテクストが必要になる。あるいは、テクストという器官=身体によってはじめて、言い直すことも可能になる。「言ったこと」はつねにすでになので、永遠の過去であり、あるいは過去自体の別名である。しかし、テクストはテクストの外部を表象することはない。隔時性や、思考するよりも古いもの、つまりテクストの彼方というものがある。われわれはそれを語ることができない、それは思考の彼方だからである。
ゆえに、哲学的なものと哲学との出会いは、少し先の未来と、少し前の過去という、きわめて限定的な時間スケールのなかで、暫定的に営まれる〈段階〉なのである。
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こきやーじゅ🐚
こきやーじゅ🐚
感傷的になってしまって、飛行機ではどうも本が読めない。
こきやーじゅ🐚
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ここで2点、問いたい。①この詐欺は必要悪ではないか。②(①の言い換えでもある)それでは、医者でない我々にとって医学的言語とは何なのか。
こきやーじゅ🐚
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こきやーじゅ🐚
ウェルズのSF、ゾンバルト、ヴァレリー。
こきやーじゅ🐚
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幸福を最大化させるパスカル的「賭け」乃至「尊厳」の視点にも、ホモ・エコノミクスがいる。
こきやーじゅ🐚
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(地方自治は民主主義の学校であるのではない。民主主義の演繹的、理念的側面の影にかくれて、学校が地方自治を再生産するのであり、そのうえにしか民主主義は成立しないのである。)
こきやーじゅ🐚
Élastiqueはplastiqueとどういう関係にあるのだろう。
異化作用alteration。全体。レヴィナス的主体との関係はどうなっているのだろう。
前未来。可能性ではなく潜在性を説くドゥルーズ哲学との関係はどうなっているのだろう。
ライプニッツの「表現」。スピノザではなく。
こきやーじゅ🐚
富める自己から貧しき自己への贈与。自己自身を捧げる贈与。自己自身に捧げる贈与。
こきやーじゅ🐚
こきやーじゅ🐚
こきやーじゅ🐚
こきやーじゅ🐚
