我々はTwitterの外を(も)生きねばならない。人間の言説空間というのは、そのすべてが、Twitterであるのではないということだ。ポストモダンやその曲解された産物である虚無主義・相対主義を経て、しかもそれらを消去するのではなく、あくまでそれらなかで哲学する、「それでもなお」の哲学とは、そのようなものとして現前することになる。哲学は共通の地平の構築の作業として成立する(概念の創造とはその二次的な産物であり、哲学の「本質」でもその独占でもない)。共通の地平の構築は、哲学の、「ひとまずの」目的しかし統制的理念としての目的であって、それは内容なき形式、質料なき形相である。それでは、哲学とはこのテロスへの無限の道程なのだろうか。言い換えれば、哲学は、他者なき、永遠の相の作品、全体性へと向かうと言いうるのだろうか。ここでやはり、問題は哲学的な方法へと帰着する。中庸なのか、往還なのか、という、二項対立の「中」を見るのか、超越論的転回や統制的理念、弁証法(あるいは二項対立の相互媒介に対する視点)という「上」や「前」を見るのか、「脱構築」によってこの空間自体を棄却するのか、空間の「彼方」へと向かうのか…。行き止まり(アポリア)ではなかろうが、行き詰まった。論ずるには手に余る問いが一挙に押し寄せるからだ。問い方を変えるべきだ。そもそも、テロス、「最終目的」を想定することは、哲学の使命なのだろうか?むしろ、哲学の使命は、暫定的な地平を築くことではないだろうか?つまり、都度都度の暫定的な地平を築くことが先決であり、哲学の永遠の「方法」というものは、後回しにすべきではないか。哲学をその本質に還元すること、つまり、永遠の「方法」、唯一の「方法」に還元すること自体が、テロスを前提としている。我々はテロスを喪失する。「それでもなお」哲学をしないことには仕方がない。共通の地平とは、それが何かはわからないが、探すしかないもの、なんだかわからないものだ。
ここで、これまで「哲学」と言ってきたものは、「哲学的なもの」だ。つまり、語源学的な意味での希哲学だ。哲学的なものが哲学になるためには、身体がいる。それがテクストである。テクストとは、つねにすでにである。哲学の形相は、その質料を要求するが、哲学はまったき虚無から「開始」されるものではなく、テクストというつねにすでにそれが哲学であったところの、哲学の身体、あるいは、哲学の「器官=障害」と「哲学的なもの」が出会うところに、いつも再開されるのだ。「言うこと」しかない世界では、哲学は開始されない。そこには哲学の身体がないからだ。そこでは、言うこと、言い直すことが繰り返され、共通の地平をもとめる試みは空転する。それは匿名にして永遠なる論争のから騒ぎである。哲学的なものがこのから騒ぎを抜け出すためには、「言ったこと」としてのテクストが必要になる。あるいは、テクストという器官=身体によってはじめて、言い直すことも可能になる。「言ったこと」はつねにすでになので、永遠の過去であり、あるいは過去自体の別名である。しかし、テクストはテクストの外部を表象することはない。隔時性や、思考するよりも古いもの、つまりテクストの彼方というものがある。われわれはそれを語ることができない、それは思考の彼方だからである。
ゆえに、哲学的なものと哲学との出会いは、少し先の未来と、少し前の過去という、きわめて限定的な時間スケールのなかで、暫定的に営まれる〈段階〉なのである。
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我々はTwitterの外を(も)生きねばならない。人間の言説空間というのは、そのすべてが、Twitterであるのではないということだ。ポストモダンやその曲解された産物である虚無主義・相対主義を経て、しかもそれらを消去するのではなく、あくまでそれらなかで哲学する、「それでもなお」の哲学とは、そのようなものとして現前することになる。哲学は共通の地平の構築の作業として成立する(概念の創造とはその二次的な産物であり、哲学の「本質」でもその独占でもない)。共通の地平の構築は、哲学の、「ひとまずの」目的しかし統制的理念としての目的であって、それは内容なき形式、質料なき形相である。それでは、哲学とはこのテロスへの無限の道程なのだろうか。言い換えれば、哲学は、他者なき、永遠の相の作品、全体性へと向かうと言いうるのだろうか。ここでやはり、問題は哲学的な方法へと帰着する。中庸なのか、往還なのか、という、二項対立の「中」を見るのか、超越論的転回や統制的理念、弁証法(あるいは二項対立の相互媒介に対する視点)という「上」や「前」を見るのか、「脱構築」によってこの空間自体を棄却するのか、空間の「彼方」へと向かうのか…。行き止まり(アポリア)ではなかろうが、行き詰まった。論ずるには手に余る問いが一挙に押し寄せるからだ。問い方を変えるべきだ。そもそも、テロス、「最終目的」を想定することは、哲学の使命なのだろうか?むしろ、哲学の使命は、暫定的な地平を築くことではないだろうか?つまり、都度都度の暫定的な地平を築くことが先決であり、哲学の永遠の「方法」というものは、後回しにすべきではないか。哲学をその本質に還元すること、つまり、永遠の「方法」、唯一の「方法」に還元すること自体が、テロスを前提としている。我々はテロスを喪失する。「それでもなお」哲学をしないことには仕方がない。共通の地平とは、それが何かはわからないが、探すしかないもの、なんだかわからないものだ。