へろむ
2人の育児しております。互いにフルタイム勤務で毎日へろへろです。
そのくせ投稿は長文
映画
ドラマ
猫
育児
料理
アニメ
音楽
旅行
へろむ
努力しても努力しても変わらないのだと思ってしまった瞬間から、期待が崩れ去って、遠ざかってしまったのだろう。
へろむ
#ちょっとだけエスパー
へろむ
#ちょっとだけエスパー
へろむ
そんな4歳がお店で何かしらかわいいものを見ると
「かわいい〜!⚪︎⚪︎ちゃん(自分の名前)みたいにかわいい〜!!」
と言っててちょっと心配になってきた
へろむ
しじみ出汁豚しゃぶ、塩ネギ豚鍋、白菜豚ミルフィーユ鍋、鶏しょうが鍋、鱈鍋、おでん春菊関西風、ニラキムチ、…複合鍋
半年週3くらいで鍋にしてたかなあ。
美味しそうに食べる妻を見るのが楽しかった。
妻は今はもう「ぜんぜん痩せないんだけど」とキレてる日々です
へろむ
「だめよ、くうきをよんで」
と言ってる。
4歳から空気を読むのか?
読まなくてもいい空気もあるんだぞ
なんなら宇宙には読む空気が無い
へろむ
理由は、私が最高の夫だからではなくて、妻が「一口ちょうだい」の人で、私が「毎回一口ちょうだい人が苦手」だからなのよ
へろむ
μ'sの絵里だった南條さんがキュアズキューンだったことを知らなかった。パパはとりあえずズキューン推しということにしてます
へろむ
ある日本アカデミー賞主演女優賞優秀賞の作品なんて配信もされてない。映画が好きで若い頃に心ときめかせた作品は配信よわい。円盤買っといてよかったものもあれば、気軽には手に入れられないものもある。
へろむ
「いまパパはなにを言おうとしてるかわかる?」
と聞いたら
「なんでこんなにかわいいのかなあ、だいすきだよって!」
「すごい、だいせいかい!」
ってやってたら隣のママが
「おい、イチャイチャすんな」
とキレてた
へろむ
へろむ
映像・音楽の美しさで包まれている分、主人公の黒歴史的なこじらせを“切なさ”として美化している自己陶酔感を強く感じた。
「人のナルシシズムを見せつけられてる感覚」が勝ってしまった。
たぶん、見た当時が自分の黒歴史からさほど時間が経ってなかったからかもしれたい。
今見たら全然違う感想かもしれないけど、もうそういうの見たいと思える歳でもなくなった。
へろむ
ノルウェイの森を貸してくれたあの子との少し特別な放課後。
甘ったるいバナナミルクと、エクストリームの《More Than Words》と、僕らがまだ答えを持たなかった頃の話。
More Than Words (Remix)
へろむ
「ねえ、“好き好き”って言われたら、びっくりする?」と僕は訊いた。
口にしてみると子供っぽい質問だと思った。
彼女は少し間を置いてから答えた。
「そうね……びっくりはすると思う。だって、そんなこと言われ慣れてないもの。」
「嫌な気持ちになる?」
「嫌ってわけじゃないの。ただ、まだ返し方を知らないのよ。
笑ってごまかすか、黙るか……きっとどっちかね。」
「じゃあ、言われないほうがマシなのかな。」
彼女はかすかに笑った。
「いいえ。言われないよりはずっといい。
でも、関係が浅いうちに大きな言葉をもらうと、薄い紙に重い石を置いたみたいに、ひずんでしまうのよ。それって、元に戻らない折り目みたいになりそう。」
僕はその比喩を頭の中で繰り返した。
ひずんだ紙のかたちが、妙に鮮やかに浮かんで消えた。
へろむ
この問いが成立するのは、恋人を一対一と定義する人たちのあいだだけ。
椅子が一脚しかないからこそ、「誰がその席に座るか」が問題になる。
だから、タイミングがすべてだと彼らは思う。
でも世の中には、椅子をひとつに限定しない人たちもいる。
そういう人たちにとっては、相性もタイミングも、決定的な意味を持たない。
同時にいくつもの関係が成立し、重なり、またほどけていく。
結局のところ、恋愛を形づくるのは相性でもタイミングでもなく、
その人が「恋愛とはこうあるべきだ」と選んだルールそのものだ。
そのルールが人を包み、時に縛りつける。
へろむ
彼女は煙草に火をつけて、しばらく煙を見てから言った。
「それはね、自分の感覚を相手に押し付けたいだけのことなのよ。」
「押し付け?」
「そう。毎日がいいって人は“毎日じゃなきゃ不安だ”って感覚を押し付けるし、たまにでいいって人は“距離が欲しい”って感覚を押し付ける。どっちも同じ。」
「じゃあ、答えはないのかな。」
彼女は笑った。
「答えなんて最初からないわ。ただね、その押し付け合いをまだ楽しいと思えるうちは青春なの。ゲームみたいにね。」
「……じゃあ僕はまだ青春の途中ってことか。」
「そうね」と彼女は灰皿に煙草を落とした。「でもそのうち、ただ疲れるだけになるわよ。」
僕は黙ってグラスの氷を口に含んだ。冷たさが、妙に現実的だった。
へろむ
へろむ
へろむ
彼女はグラスの縁を指でなぞりながら言った。
「簡単よ。その人のことを一日中観察してみたら。小さな癖が目について、だんだん嫌いになれるから」
「癖ってたとえば?」
「スマホを置いたときに指をこするとか、話終わりに唇を舐めるとか。そういうこと」
「ふむ。でも、そういうのも個性って言えるんじゃないかな」
「そう思えるうちは、まだ嫌いにはなれないわ。嫌うっていうのは、相手の個性を歪んだ角度で性格悪く眺める作業だから」
「なるほど」と僕は言った。
「でも、そんなふうに見るのは疲れそうだな」
「人を嫌うって、そういうものよ。わざわざやる必要もないこと。エネルギーの無駄遣い。ラブアンドピース」
彼女は少し微笑んでから、氷をストローでつついた。
「それにしても、あなたって本当にバカな質問するのね」
僕は黙ってグラスの底を見つめた。

へろむ
へろむ
「ねえ、今すぐ会いたいの」
僕は少し黙ってから答えた。
「今すぐっていうのは、冷蔵庫の中のスイカを切るかどうかみたいな感じだな」
「どういう意味?」
「切れば食べられるけど、たぶんまだ冷えきってない。だから、いま食べるか、もう少し待つか、迷うわけだ」
「それって、結局来てくれるの?」
「うん、行くよ。猫に途中で声をかけられなければね。駅までの道にたくさん猫がいるんだ」
電話の向こうで、彼女が小さく笑った気がした。
へろむ
へろむ

へろむ
へろむ
あれは怖かったねえ。なんで食事になると話が通じなくなってしまうのか理解できなかった。
こちらからは他者配慮の欠如にしか見えないけど、本人は無自覚というすれ違いが本当に恐怖だったわ。
とりあえず、次の料理からは1人分ずつ皿にわけてだしたけど。
へろむ
「はーい、きょうはふわふわプリンをつくっていきまーすぅっ!ライブはいしん、スタートです!うしろにいるのはパパです!あらいものをしてくれてまーす!」
ってクッキングチャンネルの配信ごっこに洗い物係として参加していた
#育児
へろむ
誰にも本当に言わないで10年、20年とか 過ぎていくと
『あれは自分の妄想であって、現実に起こらなかったことなんじゃないか』
って思うようになるね怖いね
へろむ
ああ、そうか。それを言っておけば、自分は人を傷つけない側にいる、という免罪符が手に入るわけだ。便利なフレーズだ。
その一言で、暗黙に別の誰かを「傷つける笑い」の側へ押しやりながら、自分は高みに立つ。褒めているはずの芸人すら、比較の踏み台にされていることには気づかないふりをして。いや、気づいているかもしれないが、それすら自分の好感度のためなら軽く飲み込めるのだろう。
「人を傷つけない笑いが最上位」という価値観は、笑いの世界を安全で無味無臭な保健室に変える。皮肉も、風刺も、毒も、すべて排除して、残るのは消毒液の匂いだけ。笑いは本来、価値観を揺さぶる装置だ。少しの痛みや違和感は、そのためのスパイスだろう。
だが、このフレーズを掲げる人間にとって、そんなことは関係ない。重要なのは、自分が「いい人」に見えること。笑いを評価しているように見せかけながら、実際に照らしているのは自分自身の顔だ。柔らかな光で、自分の輪郭だけをきれいに浮かび上がらせる。
「人を傷つけない笑い」という言葉は、褒め言葉じゃない。自分を飾る鏡だ。鏡越しに映った誰かを利用して、いい人を演じるための。
って「『人を傷つけない笑いだから好き』とsnsに書く人を皮肉屋っぽく批判してみて」と依頼して書いてもらったコラム。私の意見ではないです笑
へろむ
Alexは男性にも女性にも使われる名前で、女性の名Alexandraの愛称であるが、男性のAlexanderの愛称でもある。
問:この文脈において、『Alexandraの愛称は( )である』の空欄に当てはまる最も適当なものを、
(1)Alex、(2)Alexander、(3)男性、(4)女性
の中から選べ。
調査によれば、公立中学生の正答率は38%、進学校の高校生をサンプルとしても正答率は65%にとどまる、らしい。
別に子どもたちのことだけでなく、SNSを見ていればわかる。
文脈や論点を正確に捉え、他者の言葉をフェアに読むという力は、大人でも平然と欠けている。
そういうSNSの世界は「通じなさ」を前提にするしかない。
「自分と同じくらい読めて、考えられて、意図を汲んでくれるはずだ」という、過剰な期待をしてはいけない場所だ。期待値をさげなければいけないのだ。
SNSに言葉を残す意味は、他人を変えることじゃない。誰かの怒りを鎮めることでも、誤解を完全に防ぐことでもない。
自分ががその言葉を選び、残したという事実に意味がある。
へろむ
#鬼滅の刃
へろむ
うちの4歳が「せかいのとっぴんぐ」と言っててすごく美味しそう
へろむ
わたし、子どもが生まれてからずっと、「ちゃんとやらなきゃ」「もっと頑張らなきゃ」と自分を追い詰めていました。
仕事のストレス、疲労、ストレス解消する時間のなさ、つらい気持ちを押し込めて、笑顔を作って。誰に話したって「今は大変だけど、過ぎてしまうと寂しくなるものだから楽しんで」としか言われない。
そのうち心がどんどん擦り切れて、やる気までどこかへ行ってしまう。
「親であるならこうあるべき」という包囲網の中で、必死に立ち続けなきゃと思い込んで。
疲れた表情をしたまま残業を繰り返し、子どもと触れ合える時間も少なく、時々怒ってしまう自分。
ある日子どもが画用紙で旗を作って
「パパ、がんばってるので1000てんです!」
って笑顔で見せてくた。
別の日には
ママと一緒にお店で“推し活用のうちわ”を買ってきて
お気に入りのシールを貼って、覚えたばかりの文字で
「パパ がんばれ」って自分で書いて
家事をするわたしを応援してくれた。
その明るい表情を見た瞬間、胸がぎゅっとなりました。
子どもが、私の暗い顔や疲れた雰囲気を感じ取って、必死に励ましてくれていたんだって気づいた。
無理をして頑張り続けることが、子どものためになるって思い込んでた。でも本当は違うもしれない。
助けを借りることは、弱いことじゃないし、間違いでもない。
むしろ、誰かに頼って気持ちを軽くできるほうが、子どもは安心できる。
私が笑っていられる時間を増やすことこそが、子どもを大事にすることにつながるんだと、やっと心から思えた。
もし今、しんどくてつらいなら、少しだけ肩の荷を下ろしてみてください。
大丈夫。あなたはもう、十分すぎるくらい頑張っていますから。
へろむ
5年我慢しててたらやっぱり擦り切れてしまって動けなくなった
へろむ
「ゆびわしてる。けっこんしてるの?」
「してるよー」
「だれと?」
「えっと…(娘)のママとだよ」
「ふーん…つまんない」
つまんないとは……
へろむ
でも現代は、「孤育て」になりがちです。特に都市部では、物理的にも社会的にも分断されていて、「助けて」と言える相手が近くにいない。加えて、「母親が育児の主体であるべき」という固定観念や、「父親が手伝って偉い」みたいな逆に薄っぺらい称賛がのしかかる。
しかも、それをSNSや世間の声がジャッジしてくる。
育て方や感情表現にまで、「正解かどうか」を問われるプレッシャー。
核家族という選択そのものが悪いわけではないけれど、「他の選択肢(集団で育てる、祖父母と暮らす、近所で育児支援を共有するなど)」が成立しにくい社会構造と、それを支える価値観に歪みがある。
もういい加減に「家族はこうあるべき」という幻想をアップデートしないと、親も子も傷つき続けますよ。
とりあえず必要なのは「見守る他人の目」よりも、「責めない他人の目」「責めない自分の目」かもしれません。
誰に伝えたいわけではないけど、まず、自分を責めるのはやめましょうよ。余裕がないせいかもしれないし。
へろむ
へろむ
「おじいさん/おばあさん」って呼び方は昔は当たり前だったけど、そこには“子どもから見た社会的な役割”という意味があっただろう。でも団塊世代以降は、“老いを拒否したい”というカウンターカルチャーで、凝ったニックネームとか、じいじ・ばあば呼びが主流になったのかな。
そうなると、次の揺り戻しが来る気がする。
「社会性」や「関係性」を大事にする若い世代は、“呼ばれ方”よりも“どう在るか”に関心がありそうな気がするし、むしろ「おじいさん/おばあさん」と呼ばれたい、みたいなことになったり…するかな?ちなみに私ら夫婦はもし仮に孫ができたら「おじいさん、おばあさん」と呼ばれたいねーとは話してる。
へろむ
へろむ
へろむ
へろむ
へろむ
へろむ
へろむ
へろむ
へろむ
へろむ

へろむ
#春になったら
