仏教思想ガチ勢:無限と思えるものが有限という逆説を言うのが仏教ですがその中でさらに有限の中に無限があるという逆の逆説を言うのも仏教です一念三千とは一瞬の思いに無限が具わるという概念です仏教は逆説まみれなんですよね
仏教思想ガチ勢:仏教は永遠を言っているようで全ては有限と言っています悟りとは執着を捨てた果ての終わりです成仏とは輪廻から脱した終わりです空とは固定は無いとする終わりです無常とは全ては変化する終わりです終わるからこそ全ては存在してそれは輝きを放つというのが仏教ですたとえ無間地獄に堕ちてもいつかは脱し一念の愛にも価値を生むのですちなみに空は永遠を表すのではという誤解がありますが空とは性質としての永続性はあっても永遠を表すものではありません
東洋の仏教と西洋のニーチェ哲学を文学みたいにまとめました!「吾輩は無明である」吾輩は無明である。智慧はまだ無い。あるのは諦観ばかりである。自身の熱を頼りに無明を見ている。ただそこに見えて在るものの中から選ぶのである。朝起きてからの一呼吸、充分な寝食を満たす部屋、酒やたばこ、趣味の取り組み、それでいい、それがいい。人はこれを堕落と言うらしいが我がままな自由ほど高尚な事はないのである。他は何もいらないと思う事は無くとも我がままな自由を手放す事は無い。穢土とも呼ばれる娑婆世界に寂光のかけらがあるならそれは我がままな自由なのである。娑婆即寂光とは日々の生活なのだ。自由とは選ぶ事。そして選んだ自身を肯定し続ける熱量の事。その熱を保つ事。否定した自身さえも肯定する事。まさに永劫回帰の肯定である。灯す熱の時もあれば燃える熱の時もある。消えかかる時もある。熱が高くなる時、消えかかる時は休息の合図である。時間は風邪薬ほども効かぬくせに大抵の不調を治す万能薬である。ゆえに吾輩はこれを熱に適用する。我がままな自由が利かぬほど無明が濃くなる事もあるだろう。その時はまた自身の熱で照らすのである。それでも見えるものが必ず在るという智慧のかけらだけは持っているのだ。-続きを書くかもしれないし書かないかもしれない所でスマホを置くのも我がままな自由-