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なうなう🍃
蓮如上人にちなんでなのか、なんだか凄い外観のカフェに入りました[泣き笑い]
#道の駅 #蓮如の里あわら #福井


あおあめ
見えるかな?
#蓮如上人記念館




かず
て遠くから見たら似てるよね。

ま

🌈侘助🌿
ちょっ、降りなよおっさん!本願寺住職に怒られますぜ。
(ʘᴗʘ。蓮如)ん、あーあれは一休さんじゃねぇですか!!
ʘ‿ʘ えぇ!一休禅師!?!
(ʘᴗʘ蓮如)あれはね、「茶」が欲しいって
全身全力で訴えてるんですな🍵あのおやっさんは茶を出せば降りてくれる🍵。
じーとみてると
参加

✨🪷れん🦉れん🪷✨
人の悪いところはよくみえるもの。それに対して、自分の悪いところはなかなか見えないものである。

つっちーー
3月25日火曜日
強烈な黄砂が来ますね…
空は雲一つなく晴れてるのに、モヤッとしてますね
花粉症とかの方は頑張って生きてください
今日は
拘留中または行方不明のスタッフと連帯する国際デー
奴隷及び大西洋間奴隷貿易犠牲者追悼国際デー
電気記念日
散歩にゴーの日
ドラマチック・デー
サガミのみそ煮込の日
ご自愛の日
みんなでニッコリみんなで健康長寿の日
EGSスリースマイルの日
笑顔表情筋の日
みつこの日
ぷろぽりす幸子の日
とちぎのいちごの日
プリンの日
蓮如忌
天神の縁日


ホタル
滋賀 びわ湖大橋米プラザは、到着した11時で駐車場に入れずで、入っても空きがなく2周目にやっと止めることできました。
しんあさひ風車村は、晴れててここでキッチンカーが着てたので白いカレーパンとホットコーヒーを頂きました。
福井県 河野、パークイン丹生ヶ丘、みくに、さかい、越前、南えちぜん山海里、蓮如の里あわらと廻ってきました。
福井県は、あと6ヶ所なので次回で制覇できそうです。岐阜の道の駅回る時についでに回るのも良いかな。
なかなか手強いのが、兵庫県です。
雪が積もる前になんとかしたいけど、時間との戦いになりそう





🌴たかし⛺
とりとめのない話し(その62)
関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その22番外編)
「近江商人」は「浄土真宗」を信仰している人々が多いのが特徴的である。明治維新以降、商業の中心地が大坂に移ると御堂筋の北御堂と南御堂のある船場に「近江商人」が集まり、繊維問屋街と発展していった。
「天台宗」は修行により開け、「浄土宗」は専修念仏により開かれるとされたが、その念仏により現代にも類似するような面白い事件が1207年の鎌倉時代にも起きていた。僧侶の美声や僧侶の抑揚のある聞こえの良い曲節により女房を寝取られたと思い、後白河上皇が「浄土宗」の一門の陰茎を切断して斬首してしまった事件が起きている。この専修念仏の事件をきっかけに「親鸞」は「浄土宗」を発展させ、専修念仏を不要としたのかもしれない。
しかしながら、江戸時代に発展した「浄土真宗」はまた、門徒による聞こえの良い抑揚のある曲節を付けた踊り念仏を広めてしまったため、人々を惑わす一向宗と呼ばれ、大規模な一揆に発展してしまっている。法整備がなされた現代であれば、国家転覆を計った新興宗教として、解散を命じられていてもおかしくない。
「浄土宗」の専修念仏は、他宗派から異端とされ、「天台宗」の比叡山延暦寺や奈良県(大和)の興福寺などと対立していた。「法然」や「親鸞」が流罪となり、のちの時代の「浄土真宗」の「蓮如」は大谷本願寺を破壊され、それぞれが各地を転々とすることになった。
「浄土真宗」の開祖の「親鸞」は、聖徳太子が夢に降りてきたことにより、浄土宗の法然からの教えを発展させ、修行や般若心経を唱える必要は無いと説き、禁止されていた五戒や結婚、髪形も自由とされた。そのため「親鸞」は修行をするための本格的な寺院などの拠点を必要とせず、街中に道場を作り布教活動を行った。流罪などにより各地に追われた門徒は、関東や北陸などで布教活動を行ったため、16世紀以降、蓮如の頃から次第に拡がり始めた。いち早く僧侶の結婚を禁止しなかったため、門徒の一族による布教活動に繋がり、全国一の信者数となった。他の多くの仏教系の僧侶の結婚は、明治以降まで許されなかった。
●承元の法難
1207年後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止と西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処せられる事件。
1206年後鳥羽上皇の熊野御幸の間に安楽房遵西と住蓮が鹿ヶ谷で開いた別時念仏会に院の女房らが参加した。彼女たちは安楽房の説法を聞くために彼らを後白河上皇不在の御所に招き入れ、夜遅くなったからとしてそのまま御所に泊めたしまい、その彼女らの2名が出家をする者まで出てしまった。
遵西は、音楽的才能に恵まれ、住蓮は美声の持ち主で、六時礼讃に曲節をつけて念仏の信者たちに合唱させ、専修念仏の普及に大きな役割を果たした。1205年興福寺の僧徒から『興福寺奏状』をもって専修念仏停止の訴えがあった際、行空とともに非難の的となり、1207年後鳥羽上皇の女房たちが遵西達に感化されて出奔同然に出家した件等で罪に問われ、羅切(陰茎切断)の上、弟子とともに斬首刑に処せられた。
後白河上皇の専修念仏の停止と西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処せられる事件が起きた。
●法然
1133−1212年、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、後に日本浄土宗の宗祖と仰がれた。法然は房号で、諱は源空げんくう、幼名を勢至丸、通称は黒谷上人、吉水上人とも。
●知恩院
京都市東山区林下町にある浄土宗の総本山の寺院。山号は華頂山。本尊は法然上人像(御影堂)および阿弥陀如来像(阿弥陀堂)。開山は法然である。正式呼称は華頂山知恩教院大谷寺。
●親鸞
1173−1263年、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧。親鸞聖人と尊称され、鎌倉仏教の一つ、浄土真宗の宗祖とされる。
法然を本師と仰いでから生涯に亘り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教えを継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。その中で宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。1207年後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止と西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処せられる。
●西本願寺
京都市下京区本願寺門前町にある浄土真宗本願寺派の本山の寺院。山号は龍谷山。本尊は阿弥陀如来。正式名称は龍谷山本願寺、宗教法人としての名称は本願寺である。本願寺住職は浄土真宗本願寺派門主を兼務する。真宗大谷派の本山である東本願寺(正式名称「真宗本廟」)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。京都市民からはお西さんの愛称でも親しまれている。
1272年親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建された。その後、比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、1591年浄土真宗本願寺派法主で本願寺11世の顕如は、豊臣秀吉により新たに寺地の寄進を受け、本願寺を大坂天満から京都堀川六条に移転させた。宗祖親鸞の廟堂は、1603年に東山五条坂西大谷に移り、現在「大谷本廟」となっている。
●東本願寺
京都市下京区にある真宗大谷派の本山の寺院。山号はなし。本尊は阿弥陀如来。正式名称は真宗本廟である。東本願寺の名は通称であり、西本願寺(龍谷山本願寺)に対して東に位置することに由来している。愛称は「お東」「お東さん」。1602年後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康から、豊臣秀吉の命により本願寺の寺内で隠居所(御影堂と阿弥陀堂もあり)を設けて、北方に隠居させられていた教如(顕如の長男)へ烏丸七条に寺領が寄進された。これにより本願寺は正式に准如(顕如の三男)の西(本願寺派)と、新たに分派してできた教如の東(大谷派)に分立した。
●蓮如
1415−1499年、室町時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首。大谷本願寺住職。諱は兼壽。院号は信證院。法印権大僧都。本願寺中興の祖。同宗旨では、蓮如上人と尊称される。1882年(明治15年)に、明治天皇より慧燈大師の諡号を追贈されている。しばしば本願寺蓮如と呼ばれる。真宗大谷派では「蓮如」と表記するのが正式である。父は第7世存如。公家の広橋兼郷の猶子。第9世実如は5男。子に順如、蓮淳など。
親鸞の嫡流とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、青蓮院の末寺に過ぎなかった。他宗や浄土真宗他派、特に佛光寺教団の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を再興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いたことから、「本願寺中興の祖」と呼ばれる。
●山科本願寺
京都市山科区にあった浄土真宗の寺院。本願寺第8世法主蓮如により、1483年に完成・建立。南側には興正寺も建てられていた。周囲には堀と土塁を築いて、寺内町を形成していた。1532年六角氏と法華宗徒により焼き討ちされた。現在、跡地には浄土真宗本願寺派と真宗大谷派の山科別院(西別院と東別院とある)が建っており、南殿跡が大谷派の光照寺に、土塁跡が山科中央公園にある。南殿跡と土塁跡は2002年、国の史跡に指定されている。
●石山本願寺
戦国時代初期から安土桃山時代にかけて摂津国東成郡生玉荘大坂にあった浄土真宗の寺院。蓮如は1489年に法主を実如に譲り、自身は山科本願寺の南殿に隠居した。しかし、布教活動は引き続き盛んに行い、大坂周辺へも年に何回か行き来し、1496年に坊舎(大坂御堂)の建設が開始され、これが後に石山本願寺となった。1533年に本願寺教団の本山となって以後発展し、戦国の一大勢力となったが、織田信長との抗争(石山合戦)の末、1580年に顕如が明け渡し、その直後に焼失した。









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🌴たかし⛺
とりとめのない話し(その63)
関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その23番外編)
多くの「近江商人」が信仰している「浄土真宗」は、聖徳太子、七高僧、法然、親鸞の絵像が祀られている。「浄土真宗」の開祖である親鸞の夢に出たとされ、聖徳太子が強く信仰されている。
1つ前の投稿で紹介した事件「承元の法難」で、法然の弟子たちが陰茎を切り落とされたように、過去にも生臭坊主は多かった。当時、僧侶がそういう行為をすることを「女犯」とされ、戒律違反で破門とされていた。ましてや人の女房を寝取ることは死罪も同様だ。親鸞も同様の葛藤があり、危うく難を逃れた気分だったかもしれない。過去には、どちらかというと、人よりも欲が強すぎて、欲を捨てるために僧侶になろうという動機で出家することも数多くあったのだろう。最近99歳で亡くなられた瀬戸内寂聴も性欲を捨てきれず、出家して、地位を得ている。織田無道もキャバクラ通いで、有名だった。
僧侶の結婚が正式に認められたは、1872年の明治維新以降である。
親鸞も性欲を捨てきれず、聖徳太子ゆかりの寺院を回ったり、浄土宗の法然に教えを乞うなど、かなり性欲に悩んでいた。子だくさんの聖徳太子が強く信仰され、庶民から深く信仰されていることに矛盾を常に感じ、羨ましかったのかもしれない。性欲を捨てなくて良い理由を聖徳太子の夢のお告げと吹聴してまわり、性欲を捨てずに布教活動しようと開き直った最初の僧侶である。
俗世間には受け、信者を着々と増やしていったイケイケな親鸞の「浄土真宗」は、前途多難な道を歩むことになる。
鎌倉時代、奈良県(大和)の興福寺は、専修念仏を称えた「浄土宗」の法然や師と仰いだ親鸞とその弟子を訴え、後白河上皇に流罪とされ、地方を転々とすることとなった。
室町時代、浄土真宗の中興の祖と言われる蓮如の頃には、比叡山延暦寺に仏敵とみなされ、大谷本願寺が破壊された。
戦国時代、「浄土真宗」も抵抗勢力の大名や寺院に対抗すべく、大坂の石山本願寺で寺領を形成・武装していた。そして、守護大名らと呼応し、織田信長との石山合戦に突入していく。
●親鸞聖人の夢告
親鸞聖人が比叡山での修行に行き詰まりを感じていた際、京都の六角堂(頂法寺)に百日間参籠し、その95日目の夜明けに夢告を受けた。
夢告の内容
夢告は、六角堂の本尊である救世観音(如意輪観音)の化身とされる聖徳太子から受けたもの。
「行者宿報設女犯、我成玉女身被犯、一生之間能荘厳、臨終引導生極楽。」
「もし修行者が前世からの宿縁によって妻帯(女犯)しなければならない境遇にあるならば、私が玉女(美しい女性)となってその妻となり、一生の間、伴侶としてあなたを支え、臨終には極楽へ導きましょう。」
夢告の意義
この夢告は、当時の厳しい戒律(特に僧侶の妻帯・肉食の禁止)に悩んでいた親鸞聖人に対し、俗世での生活(妻帯)を肯定し、それでも念仏によって救われるという道を示唆したもの。
●妻帯の自由化
長年に渡り日本では法律で禁止されている状況が続いたが、明治維新にあたって、国家神道政策の影響もあり、1872年(明治5年)に太政官布告133号が発布されて僧尼令は廃止され、僧侶の肉食妻帯はこの布告をもって自由であるとされた。当時既に浄土真宗以外にも妻帯していた僧は多数存在したといわれるが、これに対しては戒律復興運動などの反対も起こった。
●延命院事件
江戸時代の享和年間に「延命院事件」と呼ばれる江戸中を騒がせる大事件が起こった。
この事件は延命院住職であった日潤の女犯事件であり、相手に大奥の女中が含まれていたため、大奥を巻き込んだスキャンダルとなり、江戸を揺るがせることとなった。日潤は初代尾上菊五郎の子供であったと書かれている本もあり、大変男前であり、話も上手だったと言われている。そのため、女性の信者に大変人気があり、大勢の女性信者が延命院に参詣するようになった。
こうした情報を得た寺社奉行脇坂安董は、取締りを決意するが、大奥も関係していることから安易に動くわけにはいかず、家臣の娘を密偵として延命院に送り込み確かな証拠をつかんでから摘発をした。享和3年(1803年)7月29日に日潤は斬罪となり、関係のあった婦女子などもそれぞれ処罰された。
延命院事件は『観延政命談』として脚色されて小説化されたのち、河竹黙阿弥によって歌舞伎として『日月星享和政談』と題し、明治11年(1878年)東京・新富座で5代目尾上菊五郎の主演で初演された。日潤は歌舞伎では日当となっているため通称「延命院日当」と呼ばれる。
延命院事件に先立つ寛政8年(1796年)8月には吉原遊郭の周囲に検問所を設け、朝帰りの僧侶69人(17歳から60歳)を一斉逮捕し、三日晒の上に寺持ちは遠島、所化は寺から追放という厳しい処分となった。





🌴たかし⛺
関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その17)
大坂の商業の中心は「船場」周辺にあった。 1598年に秀吉の大坂城工事に伴い、1592年北御堂(津村別院)が建立され、1605年南御堂(難波別院)が建立された。この両御堂の前に道が整備された。この道がこの時開発された新市街地の西端にあたり、これを両御堂の前にあることから「御堂筋」と称された。
「大阪商人」は、この御堂筋付近を商都として、多くの商人を輩出した。江戸時代に両替商で財を成したが明治維新に没落した「淀屋」は淀屋橋にあり、酒造で財を成したのち、新田の開発や両替商で財をなした「鴻池」は北浜にあり、鉱山開発や両替商で財を成したのち、現在もグループ形成している「住友」も淀屋橋に住友村と呼ばれる企業群を形成し、独自に発展した。
また、「浄土真宗」を信仰している人が多かった近江商人もこの「北御堂」と「南御堂」に近い中央区船場に多く軒を連ねた。「近江商人」は呉服問屋など繊維関係の商家が多かったので、その歴史が色濃く残っている。その代表的な「近江商人」は、「伊藤忠商事」や「丸紅」である。また、「大阪商人」の中でも特徴的だった船場の繊維問屋の商人群を「船場商家」と呼ばれるようになった。
●船場商家
大坂に商業が発展すると全国各地から商人が集まり、なかでも商人の代表的な存在として「近江商人」も多くいた。江戸時代を通じて、近江商人は全国的に活躍するが特に商業の中心である大坂でも近江商人が大活躍をしていた。今でも船場は繊維の町として知られ、江戸時代以来呉服類を扱っていた人々が残っている。この呉服類を扱う人たちの多くは「近江商人」であった。
「大坂商人」の初代は、それぞれの出身地の習慣を守り、船場を中心に商売を始めた。「近江商人」も例外ではなかった。近江の地は、蓮如上人以来、「浄土真宗」の盛んな地の1つとして知られており、近江出身の「大坂商人」たちは、故郷の「浄土真宗」の感覚を身につけていた。このため、大坂においても、東西本願寺の御坊の近くに集まり、商業に従事した。「南北御堂」の前に広がる「船場商家」の人々は、大坂の中でもひときわ壮大な屋根を誇る御堂の見えるところに家を持ち、そこで商いをすることを理想とした。
また「浄土真宗」が「大坂商人」の「船場商家」に浸透している1つとして「相愛学園」がある。現在の相愛学園は、明治21年(1888年)に「相愛女学校」として津村別院の境内において創立され、女子学校が創設された。目的の一つとして、別院の前にある船場の子女の教養を育成することであった。近江商人の大坂の船場商家の間でも、「浄土真宗」が生活に深く関与していた。
●大坂商人
1584年豊臣秀吉が大阪城築城の際、城下町に伏見や近江から商人を連れて来たのが始まりとされる。「船場商家」もその1つ。総合商社で有名な「伊藤忠商事」や「丸紅」の源流は「近江商人」とされるが、大阪の船場で「紅忠」として創業し、発展していった。松下幸之助は和歌山で、大丸は京都なので、大坂商人と言っても、源流は色々な地域の商人の出身である印象が強い。
大阪市中央区道修町に戦火を逃れた「船場商家 」「旧小西家住宅」や鴻池財閥が管理していた「鴻池新田会所」などがその名残りを残している。また淀屋橋を架けたとされる豪商の「淀屋の屋敷跡」の碑が残されている。
〇主な大坂商人
淀屋 - 材木商だった初代・常安が中之島を開く。2代目・三郎右衛門は米市を開いて諸藩の蔵米の販売を一手に引き受け、また、両替屋や廻船問屋なども手掛けた。5代目・三郎右衛門の時に闕所・所払とされた。
安井道卜 - 成安道頓らと共に道頓堀川を開削する。道頓堀沿いに芝居小屋を設置し、道頓堀が大坂ミナミの中心となるきっかけを作った。
鴻池家 - 酒造業に始まり、海運業や両替業に進出した。
天王寺屋五兵衛 - 両替商。
住友家 - 製銅業や銅山経営を行う。
三井家 - 伊勢国松坂発祥(伊勢商人。源流は近江商人)。呉服業や両替為替業を行い、京都・江戸・大坂に店を持った。
下村彦右衛門 - 呉服店の大丸を創業。
●北御堂
本願寺津村別院。大阪市中央区本町にある浄土真宗本願寺派の寺院。本山西本願寺の別院。山号は龍谷山。本尊は阿弥陀如来。通称は北御堂と呼ばれる。
住職は浄土真宗本願寺派門主が兼ねるが、別院輪番が置かれて実務を主管している。浄土真宗本願寺派の大阪教区教務所が併設されているが、教務所長は津村別院の副輪番である。
別院名の「津村」とは戦国時代に見られる摂津国西成郡の郷名で、入り江であった古代の円江から転じたといわれる。船場が市街化された後も、1872年(明治5年)まで当院北に位置する御霊神社にかけての町名は津村南之町(当院北側の備後町通沿い)となっていた。また、当院東側の御堂筋は、北御堂と南御堂(真宗大谷派難波別院)の門前を通る道であることに由来する。
天満にあった天満本願寺が京都の堀川六条に寺基を移した後(西本願寺)、大坂の門徒たちにより天正20年(1592年)に楼の岸(ろうのきし、現・中央区天満橋京町の八軒家浜近辺)に集会所が設けられた。これが津村別院の始まりである。集会所は慶長2年(1597年)に津村とも円江とも呼ばれていた当地に移転すると、津村御坊に名称を改め慶長10年(1605年)に本堂が建立された。
●南御堂
真宗大谷派難波別院。大阪市中央区久太郎町にある真宗大谷派の寺院。本山東本願寺の別院。本尊は阿弥陀如来。通称は南御堂。
真宗大谷派の大阪教区教務所、教化センターが併設され、大阪府堺市堺区櫛屋町東4丁にある真宗大谷派堺別院(堺南御坊)を支院とする。
別院名の難波とは摂津国西成郡上難波村の旧地であったことに由来する。船場が市街化された後も、1872年(明治5年)まで当院南に位置する難波神社にかけて上難波町という町名となり、以降、1914年(大正3年)まで当院南西部を含む北部が上難波北之町となっていた。また、当院東側の御堂筋は、北御堂(本願寺津村別院)と南御堂の門前を通る道であることに由来する。
文禄4年(1595年)に豊臣秀吉より寺地を寄進され、教如が道修谷(現:大阪市中央区道修町1丁目付近)の地に大谷本願寺を開創したという。翌文禄5年(1596年)6月には「大谷本願寺 文禄丙申五暦」銘の梵鐘(現存)が鋳造されている。慶長3年(1598年)8月、大坂城三の丸造営に伴う船場の街区拡充のため、大谷本願寺は現在地へ移転する。しかし、慶長7年(1602年)に徳川家康より京都に寺地を寄進されると、大谷本願寺は京都烏丸六条へ移転して東本願寺となったという。その大谷本願寺の跡地に難波御堂が造営されたとしている。正徳4年(1714年)に二重屋根の壮大な本堂となる。現在の東本願寺御影堂は、この難波御堂の本堂を参考にしたとされている。太平洋戦争中の1945年(昭和20年)3月13日・14日の第1回大阪大空襲で全焼している。1960年(昭和35年)5月、本堂が鉄筋コンクリート構造で規模も縮小されたが、二重屋根の様式を留めて再建され、翌1961年(昭和36年)には山門を兼ねた御堂会館が完成する。










🌴たかし⛺
大阪の陣の本陣跡 茶臼山を出発して、難波の碕までの上町台地観光ルート続き(その9)
前投稿で難波の碕までのルートガイドは終了しましたが、番外編(4)として、江戸時代の大坂城の屋敷跡にある案内板の内容を中心に列記しました。
1枚目は、大坂城に移築した紀州御殿
2枚目は、徳川大坂城の江戸時代の地図
大坂城の歴代の城代を務めた大名は68人いたが、城代屋敷に住み、幕末の最後まで交代して務めた。城主であった歴代の徳川将軍は、徳川家光、家茂、最後の将軍慶喜の3名しか御殿には訪れていない。
〇2代将軍 徳川秀忠
1619年2代将軍徳川秀忠は大坂を幕府の直轄地とし、翌年から西国・北国の諸大名を動員して大坂城を根本から築きなおして、1628年には徳川大坂城を完成させた。
〇3代将軍 徳川家光
大坂城に生涯に三度訪れ、父秀忠の没後の三度目(1634年)は、家光の権威を朝廷や西国大名、畿内の直轄都市民に見せつけるために大坂城へ訪れている。京都で朝廷へ多大な献上を行うとともに、市民に五千貫もの銀を配った。そして再築工事が完了した大坂城に入り、大坂・堺・奈良の三都市に対し、地子(土地に課される税)の永久免除を宣言した。その恩恵に感謝した市民により釣鐘が作られ、その鐘は「仁政の鐘」と呼ばれた。現在その釣鐘は大阪市中央区釣鐘町の釣鐘屋敷跡に設置され、日に3回自動で鐘が鳴らされている。釣鐘町という町名もこの鐘によるもので、家光が大坂城に入城した痕跡が今もなお残っている。
〇4代将軍 徳川家綱
1665年家綱の時代に天守は落雷(39年間)で焼失している。
〇14代将軍 徳川家茂
徳川家光が大坂城へ最後に入城した230年後、1863年(幕末の動乱期)に大坂城へ入城した。家茂は徳川将軍の中で最も長く大坂城に滞在し、唯一人大坂城で生涯を閉じた将軍となった。
徳川幕府は国内外に問題を抱え、落ちていた幕府の権威の巻き返しを図るため、1865年から大坂城を本拠地とした。1866年、長州戦争の敗報に心を痛めつつ、21歳でその生涯を閉じた。現在の天守閣改札口のすぐ南側にあった本丸御殿内の銅御殿で最期を迎えている。
〇15代将軍 徳川慶喜
最後に大坂城へ入城したのは将軍である。将軍在職中、京都の二条城、そして大坂城を活動の本拠とし、1867年将軍就任を披露するため外国公使向けに大坂城で会見を行った。幕府の政権の末期、なおも国内の安定や国力の増強、さらに国際社会への積極的な参加をめざし、その華やかな舞台となった大坂城は最後の輝きを見せた。
1867年10月14日に慶喜は大政奉還を行ったが、12月9日には王政復古のクーデターが起き、新政権が樹立されます。京都を離れ、1868年に正月を大坂城で迎えた。新政権への参加を考えていたが、旧幕府方の大半は討幕派の謀略を憎み、力ずくでの京都奪還をめざした。正月3日に鳥羽・伏見の戦いが起き、旧幕府軍は戊辰戦争で大敗を喫した。6日、最後の牙城だった大坂城を捨て、江戸へ向かったため、城内は大混乱に陥り、数日後に炎に包まれて落城し、徳川大坂城の歴史に幕が降りた。
〇大坂城の御殿跡地 その後
大阪城本丸は明治維新の大火により御殿や櫓など主要な建物が焼失した。明治18年(1885)から昭和22年(1947)まで、和歌山城二の丸御殿から移築され、大阪城を拠点としていた陸軍は庁舎として利用し、紀州御殿と呼ばれた。明治20年(1887)と明治31年(1898)明治天皇の大阪行幸の際、紀州御殿が行在所となった。その時の御座所は第二次大戦終結まで保存されていた。現在、本丸跡には「明治天皇駐蹕之所」の碑がある。昭和6年、本丸内に第四師団司令部庁舎が新築されると紀州御殿は大阪市の管理となった。1932年(昭和7年)、昭和天皇の行在所となり、1933年に「天臨閣」と改称された。1945年終戦後、大阪城が連合国軍の占領下にあった1947年9月12日、原因不明の失火によって全焼した。現在、御殿跡地は日本庭園と広場となっている。
●市多聞跡(大手口枡形内)
江戸時代、大坂城の大手口枡形には、現存する多聞櫓のほか、南側に東西1.3間5尺、南北3間の独立した多聞櫓が建っていた。大手口枡形内には定期的に商人の入場が許可され、この橋の中で、一年交替で城に詰めた旗本(大番衆)が日用品を調達するための市が開かれたことから、市多聞という名がついた。明治維新の大火によって焼失し、現在は礎石のみが残る。大手門から南にのびて東に折れる塀のうち市多聞跡と重なる部分は、市多聞焼失後に築かれたものである。
●大坂城代屋敷跡(大阪城 西の丸庭園南側)
現在の西の丸庭園の南側には江戸時代、幕府重職で大坂城防衛責任者である大坂城代の屋敷(官邸)があった。 東向きの玄関は唐破風造りで、公務を行う広間や書院だけでなく。 城代の妻子が居住する建物も備えており、本丸に次ぐ規模の御殿であった。明治維新の火災で焼失。ここは城代屋敷の表門付近にあたる。
●坤櫓跡(大阪城 西の丸西側)
ここには二の丸の隅櫓の一つが建っていて、西の丸の南西 (坤) にあたることから坤櫓とよばれた。創建は徳川幕府による大坂城再築工事の初年にあたる1620年と推定され、東西 8間・南北7間の二層構造、窓は西面・南面を中心に25あった。 規模は南に現存する千貫櫓とほぼ同じである。明治維新の大火にも耐えて残ったが、第二次大戦の空襲で焼失した。
●西大番衆小屋跡(大阪城二ノ丸内 修道館付近)
大坂城が徳川将軍の城だった江戸時代、ここには大坂城本丸の警備を主な任務とする将軍直属の旗本部隊「大番」の小屋(宿営) が置かれていた。大番は1組50騎の12組からなり、2組が1年交替で在番し、城内二の丸南に置かれた東西の大番小屋で起居した。西大番衆小屋の範囲は現在の修道館の敷地とほぼ更なる。1868年に勃発した戊辰戦争の際には、新選組を含む旧幕府軍の兵の滞在場所として東西大播带小屋が使われたが、旧幕府軍撤退時に起きた城中の大火により焼失した。
●石山本願寺推定地の碑(二ノ丸内 修道館 南仕切門跡・太鼓櫓跡付近)
1496年本願寺八世蓮如が生玉庄の大坂に大坂坊舎を建立。「大坂」の地名が史料に現れる初例になる。「天文日記」によると大坂坊舎は生玉八坊の一つ法安寺の東側に建立された。1532年六角定頼と法華宗徒により山科本願寺が焼き討ちされたため、石山本願寺に発展し、山科と同様に広大な寺内町が造営された。十一世顕如の時代に、織田信長との石山合戦に敗れ、石山本願寺を退去したあと、鷲森、貝塚、天満を経て京都の堀川に本拠を移転している。石山合戦図などによりある程度、位置関係は特定されている。
●東大番衆小屋跡(豊國神社付近)
大坂城が徳川幕府の城だった江戸時代、この付近から現在の豊国神社の社地にかけての一帯に「大番」と呼ばれる将軍直属の旗本部隊の小屋(宿営) があった。大番は1組50騎の12組からなり、2組が1年交替で城内二の丸南に置かれた東西の大番衆小屋で起居し、大坂城本丸の警備などをつとめた。 大番の職は幕末の1867年に廃止され、大番衆小屋は翌年に起きた明治維新の大火で焼失した。
●玉造口定番屋敷跡(大阪城二ノ丸 玉造口)
江戸時代、ここには幕府の要職である大坂定番に就任した大名の屋敷(公邸)があった。大坂定番は定員が2名で、そのうち玉造口定番は二の丸玉造口の内側に屋敷をもち、玉造口守衛のほか、京橋口定番とともに城に勤める下級役人を統率し、大坂城守衛の首班である大坂城代を補佐して西日本の支配にもたずさわった。建物は明治維新の大火で焼失。跡地には軍事病院が建てられ、1877年に起きた西南戦争では、戦地から戻った多くの傷病兵が収容された。
●算用曲輪(杉山)
玉造口の南側一帯は、豊臣時代から「算用曲輪」 「算用場」などとよばれていた。名称の由来は、秀吉による大坂城築城時に賃金などの計算(算用)が行なわれた場所だったからとも、また大坂城に納められた年貢や金銀などの計算が行われていたからともいわれている。江戸時代、ここは大きな杉の大木がそびえる小山となったため「杉山」とも呼ばれるようになり、大坂城を仰ぎ見る行楽地として多くの庶民が集い、親しまれた。
●本丸御殿跡(大坂城 本丸内 南側)
城の中心部を本丸といい、大坂城の本丸には天守のほか、政治を行うための御殿があった。豊臣時代の本丸御殿は大坂の陣で焼失し、その後、徳川幕府によって本丸に盛土をほどこし再び築かれた。幕末には十四代将軍徳川家茂が長州戦争の指揮をとるなど、重要な歴史の舞台にもなっている。1868年明治維新の動乱の中で全焼し、明治18年、跡地に和歌山城二の丸御殿の一部が移されたが(紀州御殿)、これも1947年に焼失した。ここは江戸時代の本丸御殿の玄関付近にあたる。
●市正曲輪(大阪城 梅林の地)
現在の大阪城梅林の地は、豊臣秀頼の後見人として重要な地位を占めた片桐東市正且元の屋敷がここにあったと伝えることから「市正曲輪」とよばれる。江戸時代には、大坂城を守衛する役職の内、青屋口加番、中小屋加番、雁木坂加番の小屋(公舎) が北から順に置かれていた。
●雁木坂(市正曲輪 南側付近の坂路)
大坂城の本丸を取り囲む二の丸は北が低く、内堀の東にあたるこの通路は南から北にかけて急な下り坂となっている。江戸時代ここは長い石段 (雁木) だったことから雁木坂とよばれ、坂を上りきった所には上部に部屋を持つ雁木坂門があり、脇には通行を監視するための番所が置かれた。明治維新以後の陸軍管轄時代にはダラダラ坂とも呼ばれた。現在、盛土によって坂の勾配はゆるやかになっている。


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