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あさ
言わなかった言葉
行き先を告げなかったのは、理由があったわけじゃない。ただ、そのまま車に乗っていたかった。
熊本城の下で車を止めたとき、夕方の光が石垣に斜めに当たっていた。冬よりも少しだけ、光の角度がやわらいでいる。観光地としては静かな時間で、人もまばらだった。
タクシーの中は、少しだけ暖かい。暖房を切っても、指先がかじかまない程度の空気だった。
運転席の男は、さっきから必要以上のことを話さない。こちらが話せば聞き、黙れば黙ったままでいる。その距離感が、妙に心地よかった。
昔、国語教師をしていた。
若い頃は、言葉を扱う仕事が好きだった。文章を読むことも、書くことも、誰かに説明することも。言葉を知っていれば、たいていのことは何とかなると思っていた。
でも、自分の人生のことだけは、どうしても言葉にできなかった。
結婚したのも、子どもを産んだのも、特別な決意があったわけじゃない。「そういうものだ」と思っていたからだ。
いい母親でいようとした。
それが悪いことだとは、今でも思っていない。ただ、その役割に夢中になるあまり、自分がどこに立っているのかを考えないふりをしてきた。
「あとで」
「落ち着いたら」
「そのうち」
便利な言葉は、生活を回すのに役立つ。角が立たず、誰も傷つかない。でも、そのぶん、何かが確実に先延ばしにされる。
熊本城を見上げながら、ふと思った。石垣の隙間に、冬を越えた草の色が見えた。
ここは、「また今度」と言って来なかった場所だ。
運転席の横顔を見る。
やさしそうで、どこか距離を取っている顔。人の話を聞くことに慣れていて、自分の話をする準備ができていない顔。
少しだけ、昔の自分に似ていると思った。
「“あとで”って、便利な言葉よね」
思わず、口に出た。
彼は何も言わず、前を見たまま、ゆっくりと頷いた。
「やさしくて、残酷で」
それは、説明じゃなかった。確認だった。
ほんとうは、続けるつもりはなかった。でも、言葉は勝手に次を連れてくる。
「あなた、やさしい人ね」
そこまで言って、少し迷った。
言っていいかどうか、ではない。言ってしまったら、この時間が変わってしまう気がした。
それでも、言った。
「でも……やさしいまま、逃げてきたでしょう?」
言葉が車内に落ちたあと、思っていたよりも音がしなかった。
責めたつもりはなかった。ましてや、答えを求めたわけでもない。
ただ、言わずに通り過ぎることだけは、できなかった。
一瞬、胸の奥がひやりとした。後悔というほど強い感情ではない。でも、もう戻れない場所を一つ越えた感覚があった。
この人は、この言葉を受け取っても、すぐには何も変えないだろう。
それが分かっていたからこそ、言ってしまったのだと思う。
沈黙が続く。
その沈黙に、救われている自分がいることに、少しだけ驚いた。
返事は、少し遅れて返ってきた。
「……逃げたいうより、どこにも行かへんかっただけです」
一瞬、関西の響きが混じった。そのせいで、言葉が妙に生々しく聞こえた。
逃げたのではない。
行かなかった。
その違いが、胸に残った。
それは、私が長いあいだ、選び続けてきた生き方でもあった。
本当は、何か言うべきだったのかもしれない。
「もう十分、立ち止まったと思う」
「これ以上、自分を責めなくていい」
そんな言葉が、頭の中に浮かんだ。
でも、それは渡してはいけない言葉だと思った。
この人は、誰かに許されて動く人じゃない。自分で気づかなければ、前に進めない人だ。
だから、言わなかった。
熊本城を背にして車が動き出す。窓の外の空気が、わずかに軽くなった気がした。景色が、ゆっくりと後ろへ流れていく。
病院に着いたとき、私は丁寧に頭を下げた。
「今日は、ありがとう。ずいぶん、話しちゃったわね」
彼は短く、「いえ」とだけ言った。
車を降りて、数歩歩いてから振り返ると、タクシーはもういなかった。
その夜、家に戻ってからも、あの横顔が何度か浮かんだ。
言わなかった言葉は、胸の奥に残ったままだ。
でも、不思議と後悔はなかった。
あれは、今の私のための沈黙でもあった。
言葉は、使わないことで守れることもある。
それを、やっと分かる年齢になっただけだ。
#短編小説
#創作
#行き先未定

あさ
止まったまま、走っている
夕方の熊本市内は、昼と夜のあいだで、ゆっくりと息をつく時間だった。空はまだ明るいのに、信号の色が一つ変わるだけで、街の表情が少しずつ夜に近づいていく。
タクシーは交差点の手前で止まり、エンジンの振動だけが足元から伝わってくる。フロントガラス越しに見える空は、春の手前の色をしていた。冬の名残がまだ残っているのに、どこかで確実に季節が動いている。
和弘は、ハンドルに両手を置いたまま、ぼんやりと空を見ていた。
大阪で生まれた。進学を機に東京へ出て、そのまま就職した。三十代で長野に移り住み、結婚した。四十歳で離婚した。
それらはすべて、あとから並べれば「経歴」になるが、一つひとつの場面では、ただ「そうなった」という感覚しかなかった。
選んだというより、流れてきた。
それでも、ここでタクシーを運転している。
「ここで降りた」熊本に来たとき、そう思っただけだった。理由はない。ただ、それ以上進む気がしなかった。
後部座席のドアが開き、年配の女性が乗り込んできた。小柄で、背筋が伸びている。白髪はきれいに整えられ、コートの襟元もきちんとしていた。
「行き先は、どうされますか」
いつもの確認の声だった。
女性は少し考えてから、困ったように笑った。
「決めてないの。……こういうの、困る?」
和弘はミラー越しに女性を見る。困っている様子はない。試すようでも、甘えるようでもない。
「いえ、大丈夫です」
そう答え、メーターを入れて車を出す。
洗車したばかりのボンネットに、いつの間にか花びらが一枚、張りついていた。走り出すと、風にあおられて、しぶとく残っている。
「熊本は長いの?」女性が聞いた。
「四年くらいです」
「じゃあ、もう慣れたでしょう」
和弘は、少しだけ間を置いた。
「……まだ、そんな感じはしません」
自分でも、正直な答えだと思った。
女性は窓の外を見たまま、静かに言った。
「私もね、ここに来たとき、同じこと思ったの」
ミラー越しに見る横顔は、穏やかだった。
「お仕事の都合ですか」
「いいえ。逃げてきたの」
冗談めいた言い方だったが、声は軽くなかった。
「若い頃は、教師をしてたの。国語」
和弘は、少しだけ驚いた。
「言葉を教える仕事よ」
「……そうなんですね」
「でもね」
女性は、少し笑った。
「自分の大事なことほど、言葉にできなかった」
信号が変わり、タクシーは静かに進む。窓の隙間から入る風は、まだ冷たいが、冬ほど刺さらなかった。
「結婚して、子どももいたわ」
「……そうなんですね」
「でも、“いい母親”でいることに夢中で、自分が何をしたいか、考えないふりをしてた」
言葉は淡々としていたが、長い時間を生きてきた人の重みがあった。
熊本城が見えてきたとき、女性が言った。
「ここ、少し止めてくれる?」
車を寄せ、エンジンを切る。城の下の道には、掃ききれなかった花びらが、ところどころ残っている。
夕暮れの城は、長い時間そこに立ち続けてきたものの顔をしていた。
「ここね」
女性は城を見上げたまま言った。
「昔、“また今度”って言って、来なかった場所なの」
しばらく沈黙が続く。
「“あとで”って、便利な言葉よね」
「……」
「やさしくて、残酷で」
そして、和弘の方を見ずに続けた。
「あなた、やさしい人ね。でも……やさしいまま、逃げてきたでしょう?」
胸の奥が、少しだけ締まる。
考える前に、言葉が出た。
「……逃げたいうより、どこにも行かへんかっただけです」
一瞬だけ、大阪の響きが混じった。
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
女性は振り返らず、静かに頷いた。
「……そう。それ、一番しんどいやつね」
それ以上、何も言わなかった。
病院に着くと、女性は丁寧に頭を下げた。
「今日は、ありがとう。ずいぶん、話しちゃったわね」
「……いえ」
ドアが閉まり、女性の背中が遠ざかる。
その夜、川沿いで車を止めた。エンジンを切ると、街の音が少しだけ遠くなる。
スマートフォンを開くと、古い留守電が残っている。
再生すると、若い頃の自分の声が言った。
「……また連絡します」
それだけだった。
和弘は、小さく息を吐き、削除を押した。
確認画面。迷いはなかった。
留守電は、音もなく消えた。
翌朝。空は思ったより早く明るくなっていた。
和弘は運転席に座り、メーターを入れる前に、一度だけスマートフォンを伏せた。
昨夜、留守電を削除したときの、あの静けさが、まだ残っている。
何かを決めたというより、決めなかったことを、確かめただけの感触。
営業灯を点ける。
駅前で、若い男が手を挙げた。リュックを背負い、周囲を一度見回してから、後部座席に乗り込む。
「行き先は?」
「……まだ決めてなくて」
男の声は、少しだけ硬かった。
「そうですか」
タクシーが動き出す。朝の街は、昨日より少しだけ輪郭がはっきりしている。
信号を二つ過ぎたところで、和弘のほうから、ふと思いついたように口を開いた。
「……この街、どうですか?」
男は一瞬、言葉に詰まった。
「え?」
「住む人の目から見て、です」
自分でも、なぜそんなことを聞いたのか、はっきりとは分からなかった。ただ、昨夜、削除したあの声が、まだ胸のどこかに引っかかっていた。
男は、窓の外を見た。
「……まだ、よく分からないです」
「昨日、来たばっかりなので」
和弘は、ハンドルに指をかけたまま、小さく息を吐いた。
「ですよね」
信号が赤になる。街が、一度止まる。
その静けさの中で、和弘は、ほとんど独り言のように言った。
「分からんままでも、止まっても、走っても、どっちでも大丈夫な街やと思います」
それは、街の話のようで、昨夜の自分への返事のようでもあった。
信号が青に変わる。
タクシーが動き出したとき、和弘は、もう一度だけ、言葉を外に出した。
「行き先が決まってなくても、走りながら決めても、ええと思うんです」
男は何も言わなかった。
その沈黙が、昨夜、留守電が消えたあとの静けさと、よく似ている気がした。
和弘は、前を見た。
タクシーは、いつもの速度で走っている。
#短編小説
#創作
#行き先未定

カイザー
ハンギョドンの横顔ありがとうございます

さんちゃん✨
👍数TOP3分かりました〜👏👏👏👏
1.女性の横顔ver4.0(左
2.女性の横顔ver1.0(真ん中
3.女性の横顔ver2.0(右
123を女性シリーズ占めましたぁ!
みんな好きね💕︎
年内、切り絵の投稿は最後になります🥺
右手の怪我さえなけりゃ年末いっちょ作る予定立てれたのにぃ〜😭
切り絵繋がりの方も
カラオケ繋がりの方も
普通に仲良しの方も
右手治ったらまた作業して投稿再開しますね!
良き年末をお過ごし下さいm(_ _)m




たまごやき
横顔ばっかみちゃうのかな(//∇//)
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ミチフミ龍之介
趣味は音楽・映画・ドラマ鑑賞。
人生はスパイス❗️
明けない夜はない、止まない雨はない、など名言至言が大好き。
投稿の方は絵画・その他のコラムなどを発信しております。
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イニM
絵を描くという趣味に囚われて人生で迷子になりました。絵を描くことでしか絵を描くことに代償を払えない。自分の意味を作りたくて自分の意味を切り崩している落伍者。自創作語り、制作のバックヤード(治安悪い)を頻繁に垂れ流します。
Twitter→libs920、IG→libs920。
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カイザー
24歳男です
「夢見る男カイザー参上!!」が本名です
人と話したり、歌ったり、芝居したり、映画見たり、アニメ見たり、漫画読んだり、古着屋巡ったり、靴を見たり買ったりするのが好きです
感謝、謝罪、感動を忘れずに精進します
頑張って生きていきます
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さんちゃん✨
趣味で切り絵やカラオケなどしております。
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