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なおすけ

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仲良い義兄弟。
弟モルは、兄ちゃんの体重を余裕でぬいていきました。慶長期も後半だけどね。
兄モルはやっぱ小柄だなぁと思った次第。
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ℕ𝕒𝕥𝕤𝕦☘

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#日光街道巡り / 栗橋八坂神社
2024年10月から2025年3月にかけて、日本橋から日光東照宮まで歩いた時の写真を載せています。

埼玉県久喜市栗橋北に鎮座する神社で、主祭神は素戔嗚尊です。


利根川近くにあり、2021年に利根川防災対策のため移転しました。


この神社は、「狛犬」ではなく全国的に珍しい「狛鯉」です。

口を開けた鯉(阿)と閉じた鯉(吽)が対になり、一部は亀に乗った姿も見られます。
昭和61年(1986年)に設置され、境内には錦鯉の池もあります。

慶長年間(1596-1615年頃)の利根川洪水時、神輿が鯉と泥亀に運ばれて同地に漂着した伝承に基づきます。

この逸話から勝負運や家内安全のご祈祷で知られています。


#久喜市 #栗橋宿 #栗橋八坂神社
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臼井優

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豊臣秀吉の主な「誤算」は、天下統一後の権力基盤の脆弱さ、特に後継者問題における甥・秀次粛清と実子・秀頼への執着が、結果として豊臣家を滅ぼす原因を作ったこと**、そして朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の失敗が、国内外の不満を高め大坂の陣への遠因となった点です。秀吉は信長の後継者として天下を統一しましたが、晩年の独善的な判断と、家臣団(特に徳川家康)への配慮不足が、秀吉の死後の豊臣政権崩壊を招いたとされています。
豊臣秀吉の主な「誤算」
後継者問題(秀次粛清と秀頼への偏愛)
秀次粛清の失敗: 愛息・秀頼誕生後、後継者と定めていた甥の秀次とその一族(30人以上)を大量処刑(秀次切腹事件)。これは豊臣政権の基盤を揺るがし、家臣団に不信感を与えたとされます。
家康の存在: 秀吉は家康を警戒しつつも、その力を過小評価し、晩年の強引な政策(秀吉の死後、秀頼の後見人としての家康の権力増大)で、結果的に家康の台頭を許しました。
朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の失敗
明(中国)征服を目指した出兵は、朝鮮の抵抗と明の支援により大失敗。莫大な費用と人的資源を消耗し、国内の不満と財政悪化を招きました。
この失敗で、秀吉の「天下人」としての求心力が低下し、大坂の陣(豊臣家滅亡)の遠因となったとされます。
組織運営・人心掌握の甘さ
晩年は独裁的になり、家臣の意見に耳を傾けなくなり、組織運営に綻びが生じました。
豊臣家を支えるべき譜代の有力大名たち(特に徳川家康)との関係悪化を招き、秀吉の死後、豊臣政権が孤立する要因となりました。
これらの「誤算」は、秀吉が「鳴くまで待とう時鳥」と評される忍耐力と才覚を持ちながらも、晩年にはその判断力に陰りが見え始め、天下統一後の体制構築に失敗したことを示しています。
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臼井優

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関ヶ原の戦いで敗れた宇喜多秀家は八丈島へ流罪となり、
 最愛の妻・豪姫は同行を許されず、八丈島で離れ離れに生涯を終えました。
 豪姫は金沢で夫を思い、秀家は島で子孫と暮らし、現在も八丈島の南原千畳岩海岸には、西(岡山)を向いて並ぶ二人の像と碑が建てられ、その悲恋の物語を伝えています。

経緯と関係性
流罪と別離: 慶長11年(1606年)、秀家は2人の息子と共に八丈島へ流刑となりましたが、豪姫は同行を許されず、本土で別居することになりました。

八丈島での生活: 秀家は八丈島で厳しい生活を送りましたが、家臣や実家(前田家)からの仕送りを受け、子孫(秀高、秀継など)と共に暮らし、八丈島最初の流刑者となりました。

豪姫の思い: 豪姫は夫を案じながら金沢で暮らし、再会は叶いませんでしたが、前田家からの物資支援が幕末まで続いたとも言われています。

八丈島に残る史跡
宇喜多秀家と豪姫の像・碑: 八丈島西岸の南原千畳岩(南原園地内)に、岡山城の方向を向いて仲睦まじく座る秀家と豪姫の像(座像)が建立されています。これは岡山城築城400年を記念して平成9年に設置されたものです。

供養と交流: 秀家の末裔は現在も八丈島に残り、秀家を顕彰する団体「久福会」が岡山市や金沢市などと交流し、供養を行っています。

この像は、離れ離れになった夫婦の悲しい運命と、その愛を今に伝える象徴となっています。
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臼井優

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石田三成と細川忠興の確執は、関ヶ原の戦い前、三成が徳川方についた忠興の妻・細川ガラシャ(玉子)を人質にしようと大坂屋敷を襲撃したことから始まり、ガラシャは人質になることを拒み、キリスト教の教えに反する「切腹」ではなく、家臣(小笠原少斎)に介錯を頼んで自害し、三成の作戦を阻止し、忠興は妻を失う悲劇へと繋がりました。この事件は三成の評判を悪化させ、大名の妻子を人質に取る戦略の失敗を決定づけ、忠興はガラシャの葬儀を行い、三成への憎悪を深めました。
確執の背景
忠興の徳川方への参加: 忠興は関ヶ原の戦いに先立ち、家康に従い東軍として出陣。三成は忠興を味方につけるか、少なくとも参戦させないため、大坂の留守宅にいたガラシャを人質にしようとしました。
三成の策略: 三成は忠興を味方につけるため、あるいは西軍に引き入れるため、その妻ガラシャを人質として大坂城に入れるよう要求しました。
ガラシャの決断と自害
人質拒否: ガラシャは夫の足手まといになることや、人質として屈辱を受けることを嫌い、この要求を断固拒否。
キリスト教徒としての苦悩: 自殺はキリスト教で禁じられていたため、家臣の小笠原少斎(秀清)に介錯(切腹の介添え)を依頼。
壮絶な最期: 屋敷に火を放ち、遺体が残らぬようにした上で、介錯を受けて享年38歳で自害しました(慶長5年9月17日)。
辞世の句: 「散りぬべき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」(散るべき時を知るからこそ花は美しく、人もまた散り時が大切)。
確執と影響
三成への打撃: ガラシャの死は三成の目論見を外し、他の大名たちの反感を買い、人質作戦の失敗を招きました。
忠興の悲しみと怒り: 忠興は帰還後、最愛の妻の死に深く悲しみ、三成への憎悪を募らせました。
追討: 忠興は三成追討を望みましたが、家康が三成を捕らえたため、家康の家臣となることでその望みを断念しつつも、三成の処刑を見届けています。
ガラシャの葬儀: 忠興はガラシャの遺骨を堺のキリシタン墓地に葬り、教会で葬儀を執り行い、彼女の死を悼みました。
この出来事は、石田三成の冷酷な戦略と、細川ガラシャの誇り高くも悲劇的な生涯、そして忠興の妻への深い愛情を示すエピソードとして歴史に刻まれています。
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臼井優

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戦国時代最高にシャレオツな勝利
→田辺城の戦いとは、関ヶ原の戦い(慶長5年、1600年)直前に丹後国(現在の京都府舞鶴市)で起こった、西軍が細川幽斎の守る田辺城を包囲した戦いです。
 わずか500人ほどの兵力で1万5千の西軍を50日以上も足止めし、関ヶ原本戦の東軍勝利に大きく貢献したため「もう一つの関ヶ原」とも呼ばれ、文化人としても優れた細川幽斎の知略が光った戦いとして知られています。

戦いの背景と経緯
開戦のきっかけ: 徳川家康が上杉討伐に出た隙を突き、石田三成率いる西軍が挙兵。
田辺城の状況: 城主・細川忠興は本隊と東国へ出陣中。城には父・幽斎と兵士、町民ら約500名のみ。
西軍の包囲: 小野木重勝(福知山城主)を大将とする1万5千の西軍が田辺城を包囲。

細川幽斎の活躍
長期籠城: 兵力差が圧倒的に不利な中、50日以上にわたり籠城を敢行。
文化人の才覚: 幽斎は『古今和歌集』の伝授者でもあり、その文化的な教養と人脈を使い、後陽成天皇を動かすことに成功。

関ヶ原への影響: 天皇の勅命により西軍は開城を余儀なくされ、田辺城に釘付けになっていた1万5千の兵は関ヶ原の決戦に間に合わず、東軍有利に働いた。

戦いの意義
単なる局地戦ではなく、関ヶ原の戦いの勝敗を分ける重要な前哨戦であり、細川幽斎の戦略と文化的な影響力が、天下分け目の戦局に決定的な影響を与えた戦いとして歴史に名を刻んでいます。
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ロケマサ37

ロケマサ37

八百富神社in愛知

こないだ山口の赤間神宮行ったのだけども そこで安徳天皇のご冥福をお祈りしたあと 偶然にここの神社に来たのは なんだかおぼしめしだなぁ

以下八百富神社ホームページより

八百富神社は、「竹島弁財天(市杵島姫命)」をお祀りしております。

 八百富神社は、安徳天皇の養和元年3月18日(1181)の創建と伝えられています。これは、1145年三河国司の三河守となった藤原俊成卿が、在任中に未開だったこの地の開拓に当たられた際、風光明媚で江州竹生島によく似ているこの島に竹生島弁才天を勧請せられたことから始まったとされています。常に清波に島脚を洗われ、自ずと禊ぎ、不浄を近づけないようで、真の霊境との名の通りであり、養和(1181)の頃俊成が当社奉斎の神境に定めました。
 「江州竹生島弁財天を勧請した際、雑木林におおわれ竹がなかったこの島に、竹生島の竹を2本根こそぎ持ってきて、ご神体として植えた」との記述もあり、そのことから『竹島』と名付けられたとも伝えられています。(「竹島縁起」元文元年(1736)仲夏書)

慶長5年6月(1601)、徳川家康公が会津の上杉征伐に向かう途中船で竹島に着き、郷士である内田弥右衛門義隆が沢山の蜻蛉貝や鯛二匹を献上したという記録があります。その際縁起が良いとたいそう喜ばれ、その後竹島に参拝されたと伝えられます。このことからもわかるように、この地は海上交通の港場でありました。その後歴代の将軍たちもこの地に船を命ずることが度々あり、その間当社と徳川家との関係は深く強くなっていきました。

以上八百富神社ホームページから

江の島もそうだけど 島の神社と市杵島姫様(弁天様)はつながりがあるなぁ

江の島もそうだったし

市杵島姫様にやたら好かれてるロケマサより

#神社
神社の星神社の星
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信州a.k.a.なる

信州a.k.a.なる

1600年関ヶ原の戦い
慶長5年
西軍石田三成 東軍徳川家康
今日は寝返りの話し
毛利輝元を総大将にし
毛利秀元 脇坂安治 朽木元綱
赤座直保らが参戦するも
毛利も動かず小早川秀明は裏切り
毛利輝元は西軍にありながら
徳川家康と内通していた
毛利秀元 脇坂安治 朽木元綱
赤座直保は徳川方に味方した
わずか合戦の時間は6時間で
終わってしまった。

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