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甲斐性無しの甲斐の人
土肥氏による築城とされる。
鎌刃城を堀氏の築城によるものとするならば、こちらは土肥氏が詰城として築いたものということになり、鎌刃城の築城者を土肥氏とするとこちらはその支城という位置付けになるだろう。
鎌刃城の登山道入口に向かうと、主張の強い鎌刃城の方向を示す標柱が立ち並ぶ中、1本だけ番場城の標柱が立っていた。
これを番場城側に向かって行くと15分ほどで主郭にたどり着き、その途中で堀切状の地形と大きな鉄塔があるが、鉄塔をつくったときの盛土によってそういう地形になっただけかもしれない。
主郭はそれほど大きくないが、外周がわずかに高くなっているため土塁で囲っていたのだろう。
城自体の規模は小さく構造も古い感じがするが、鎌倉期の詰城と考えると納得できる。
#一日一城







甲斐性無しの甲斐の人
豊臣兄弟ゆかりの(?)鎌刃城!
(何でもゆからせとけばいいと思っている)
土肥氏もしくは堀氏の築城とされる。
この地域は鎌倉時代に所領を与えられた土肥氏が相模から移り住んで以来、土肥氏の勢力が根付いていたが、戦国時代までには堀氏が取って代わっていたそうだ。
戦国時代には六角氏、京極氏、浅井氏、織田氏などがこの城をめぐって攻防を繰り広げた。
織田氏と浅井氏の戦いが激化すると、城主の堀秀村は織田氏側につき浅井軍の猛攻を受けて落城するも、浅井氏が滅ぼされると城主に返り咲いた。
ただ堀氏はのちに越前一向一揆との戦いで勝手に和睦したとして改易され、この城も廃城となった。
麓はかつて番場宿という宿場町として栄えたらしい。
竹林の登城路を登っていくと、城跡のある頂上に近づくにつれ雪が積もっており、足場もだんだんと悪くなっていく。
斜面が崩れることを防ぐために築かれたとされる大石垣も登城途中で観ることができたが、私は足場の悪さでビビり散らかしながらの観察になった。
北郭にたどり着くと石垣でつくられた虎口や、これまた不安になるような木造の展望台などがある。
そこからさらに進むと北郭の虎口以上に迫力のある石垣づくりの虎口を備えた主郭にたどり着く。
このあたりから積雪量が多くなっていたが、まだ先人の足跡があったためそれを頼りに南郭と進んでいくとさらに積雪量が増え、さすがにすべては周れずに撤退した。
ただ南郭から見た細尾根との間にある大堀切は大迫力だった。
細尾根の先には滝があるらしく、そこから城内へ水を引き入れていたらしいので、雪のない時期にまた行くことがあれば見たい。
#一日一城










甲斐性無しの甲斐の人
豊臣兄弟ゆかりの田上山砦!
賤ヶ岳の戦いに際して羽柴秀長が築いたとされているが、元は織田氏と朝倉氏の争いに際して朝倉軍が陣を張った地ともされていて、その時の陣城を改修したものかもしれないようだ。
羽柴軍と柴田軍の対峙が長引くと、織田信孝が滝川一益と手を組んで羽柴軍に背いて美濃を脅かし、秀吉は美濃へ向かうことになったため、秀長の拠る田上山砦は羽柴軍の事実上の本陣として機能した。
前線で柴田軍の佐久間盛政の軍勢から攻撃を受け、岩崎山砦を放棄した高山右近の軍勢もこの砦に退却したという。
現地で観てみると、確かに羽柴軍の砦の中でも特に労力を使って築かれた砦であることを感じた。
賤ヶ岳砦と比べて、佐久間勢に落とされた大岩山砦や岩崎山砦は遺構もあまりはっきりとせず防御性が低そうだったが、この田上山砦はそれらとは明確に異なり横堀や堀切、土塁、枡形虎口などが設けられていて技巧的なつくりだと感じた。
また賤ヶ岳の戦いにおける他の砦が築かれた山々も眺めることができ、この地が実質的な本陣の場所として選ばれたことも納得できた。
#一日一城









甲斐性無しの甲斐の人
築城年代ははっきりしていないが、京極氏が築いた支城のひとつで浅井氏が奪い取って改修したものとも、そもそも浅井氏が築いたともいわれる。
浅井朝倉軍が姉川の戦いで織田徳川軍に敗れると浅井氏の拠点で、小谷城からも近い距離にあったため織田軍の攻撃を受けて落城。
木下秀吉を城将に抜擢し、浅井氏への攻撃の重要拠点として活用された。
のちに虎御前山城に陣が移され小谷城が攻略されると、長浜城が築かれたためその頃廃城になったと思われる。
長浜市の石田側から登ったが、登山道は勾配こそあるものの綺麗に整備され歩きやすくなっていた。
尾根上に曲輪がつくられているため規模は大きくないが、二重堀切や土塁なども設けられ戦国時代の山城らしさを感じた。
主郭は狭いものの伊吹山も琵琶湖も見え眺望は抜群だったが、小谷城側は木に阻まれあまり見えなかったことだけが残念だった。
#一日一城









甲斐性無しの甲斐の人
織田軍が浅井氏の小谷城を攻めた際に築いた陣城。
織田信長は浅井攻めの際に浅井方の横山城を攻略し前線基地としていたが、やがて小谷城により近い虎御前山に陣を移した。
尾根伝いに多数の砦を築いたが、小谷城の攻略に成功するとすぐに破却したようだ。
虎姫時遊館でハンドブックと御城印を買ってから登った。
織田軍の各将が陣を構えた地を示す標柱が立てられているが、ハンドブックによれば、堀秀政陣跡、織田信長陣跡、木下秀吉陣跡あたりが本当に陣城だった部分で、それ以外は江戸時代の歴史家が古墳の遺構を陣と考えただけだろうと書かれていた。
はじめ多賀貞能陣跡や蜂屋頼隆陣跡を歩いて見たときは、いやいやこれも陣の跡っぽい雰囲気があるだろうと思っていたが、堀秀政陣跡まで到達すると確かに一気に雰囲気が変わる。
明確に防御性を意識して堀切や横堀が掘られており、織田信長陣跡はいくつもの高い切岸がそびえ立つ。
木下秀吉陣跡は規模こそ小さいが土塁でしっかり守られ虎口もつくられていた。
柴田勝家陣跡までいくと一気にまた城跡の雰囲気がなくなり、古墳の様相が強くなるが、小谷城に最も近いことからイメージで猛将の勝家の陣跡ということにしてしまったのだろうか。
ところで虎御前山城に関する展示を行っていて、御城印やハンドブックも売っている虎姫時遊館だが、今年の3月を最後に閉館することになったらしく、まだ行っていない人は極力早く行くべし。
#一日一城










甲斐性無しの甲斐の人
浅井氏の本拠である小谷城の支城の丁野山城の出城の中島城に登る途中にある砦。
まるでマトリョーシカだ。
ちなみに読み方も調べてみたが、よくわからなかった。
ダイホウサン か オオトリヤマ あたりだろうか。
砦の構造としてはとてもシンプルで、小さな丘の尾根上に曲輪が造成されているが、ほとんど単郭で土塁や堀もない。
ただ尾根筋を中島城側に向かうと堀切があり、中島城を守るために即席で築かれた砦だったのだろうと感じた。
というわけで新年一発目の投稿は謎のマトリョーシカ砦になりましたが、今年もよろしくお願いします。
#一日一城





甲斐性無しの甲斐の人
小谷城の支城とも、小谷城の支城である丁野山城の出城ともいわれる。
築城年代ははっきりとはしていないが、織田軍が小谷城を攻めたときには中島直親が守将だったそうだ。
浅井側だった山本山城の阿閉貞征が織田側に寝返ったことで浅井軍に動揺が広がり、それを機に織田軍が猛攻撃を仕掛けると中島城を含む支城群は次々と落とされたという。
中島城は丁野山城と尾根伝いに繋がっている城だが、実際に観てみると城郭の規模の小ささという点は似ているが、設計はかなり異なっているようだ。
土塁を設けず大きな横堀や堀切で防御を固めていた丁野山城と違い、堀切は虎口のあたりに一本あるだけ。
むしろ土塁を重ねることで目隠しのようにして細い帯曲輪を形成し、主郭も元々はひとつの曲輪になっていたであろう平地を土塁によって区切っていた。
丁野山城のほうは小谷城の戦いのときには朝倉軍が入っていたらしいので、浅井軍と朝倉軍の城郭に対する思想の違いなのだろうか。
#一日一城









甲斐性無しの甲斐の人
ようのやま と読むらしいが初見で読むのは不可能だろう。
浅井氏の本拠である小谷城の支城。
元は浅井氏三代の基礎をつくった浅井亮政による築城で、織田軍による小谷城攻撃のときに浅井氏側への援軍として駆けつけた朝倉軍が籠もったものの、攻め落とされたという。
城郭の規模こそそれほど大きくはないが、大きくしっかりと掘られた横堀や堀切によって守られ、南北にそれぞれ外曲輪のようなものも造成されている。
技巧的で綺麗なつくりは亮政時代の築城だけではないだろうという感じがした。
小谷城はもちろん琵琶湖や山本山城方面もよく見え、景色もとても良かった。
#一日一城








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