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世界(W)とは(=)成立した事実(事実とは、極限内に於いて任意のある領域特定(ある値以下≒0∞とし、ある値以上≒1∞とする)に対して、(ある作用=記号的収縮された変数^付与情報の極限(領域特定外)であり、即ち無と有の間に極限を介した等価関係に於ける領域内での変数記号的顕在化であり、成立とは記号的表現に媒介する極限を有限の任意の領域特定によって止揚することである。)ある変数記号が存在し、極限=変数記号^ある0∞^1∞が成り立ち、かつ、任意の変数記号に対し、ある領域特定が存在し、極限=変数記号^ある0∞^1∞が成り立つ)の^総体(場∞∞)である。
従って、世界とは極限(無/有)の間で変数記号が位置付けられ、有限の領域特定によってその極限が止揚され成立した事実として実体化した場である。
また、有限が変化することは、変数記号や極限の止揚により実体化した成立事実の変化を意味することから、極限的な固定による流動を時間軸と言い、即ち、固定的な場の極限の有限化による流動の軸が時間を表すならば、時間と場は不可分な同型である。
極限内の有限は、いかなる変数記号を定数的基準と見做す場合においてもその極点に於ける形式的境界値に境界の二律背反を生じることから、変数記号の定数化は観測的に固定されていながら、事実上その極点には境界の二律背反においていかなる形式も不定形となる。
そのため、事実として、普遍的に万物は固定された世界内において、流転するという言語的矛盾を事実的に成立させている。また、逆説的に有限が内部に定められない時、極限は場として固定的な普遍性を持つが、事実上、流動を判定する有限的値の不在による固定的解釈に過ぎないと言える。
従って、有限的値の境界における非確定性による不定形的流動は、世界という概念が固体的な集合によるある一定の安定性を持ち、同時にその境界に於いて極限によゆ絶対的な不確定性や偏在性に於いて気体的振る舞いをしつつ、同時にこれらの条件により個体としての現象的実体までも常に流動する液体的性質を同時に内包すると言える。
従って、世界とは偏在性超流動的実体である。
簡潔に表すならば、型は意味や力を保存し、意味や力は型を発生させる。そのため、ある一定の構造的複雑性を有する非有機物にも、人工的な言語によって非有機物が擬人格的に人工知能として機能したり、またこれは、言語という記号そのものに情報が保存され続けていることが人間の解釈のみによるものでは無いことも証明しており、人間の頭脳に記憶が保存される仕組みについても、人工的な言語の情報保存構造より更に自然的な型の情報保存構造として同型であると考えられる。
また、言語による公共的な一般化により、言語という型が情報を伴い、その境界を有限的に極限を媒介する事で、事実的に成立しているため、その構造が緻密であればあるほど、言語的な非実体的概念も、実体性を持つような振る舞いに変容する、価値暴落や精神的崩壊など、構造と構造にかかる負荷や、その密度的な強度及び、突発的な局所的な圧力による構造の崩壊などは、非実体的概念が本来的に持ち得ない物理法則による実体的性質を有している。
従って、言語とは世界が実体を創造するプロセスを模倣した、実体的な非実体の創造行為であると言える。
その為、人工的変数的記号である言語を事態的変数的記号である法則原理や現象などの事象に適応する際、常にある一定の齟齬が生じる。例えば極限の値として表した0∞^1∞とは、数学的極限値としての表記であるが、0及び1という値について、0と1という区別そのものが認識論的な観測者の生得的認知制約により発生した存在性に関する有無が前提として我々の解釈に於いて本来的に内在してしまっている。
従って、数値とは便宜上という前提の元によってのみ観測者の生得的認知制約に依存し、恣意的に付与されるものであるものの、それが一重に偽となるかについては、極限内(客観的世界)に於いて任意(観測主体)のある領域特定内(主観的現実)に存在する、ある変数記号(現象)が存在するということは、ある変数を基準とした時、その値が真であるものの、同時に、その真を集合とした場合においては、この単純な合計が普遍的な全体を記述することはない。
この事から、観測に基づきその値を比較的に法則性を導き出すこと自体は、形式的には可能であるものの、実際に方程式として具体的数値をパターン化する事で変数化された等式も、本来的に特定の領域を基準としたものならば、その定数が変数的である事を踏まえると、観測対象aから導き出されたある方程式aは、異なる領域に或る観測対象bから導き出された異なる方程式bと本来的に同型であり、方程式aは方程式bの変形か、或いは、方程式xが観測対象の属する領域aにある時は方程式aのように観測され、領域bにある時は方程式bのように観測され、この変化を決定づけているのは、本来的に同型である方程式a.bである方程式xに対し、任意に決定された領域の規模において方程式xは内部の値となる方程式xの観測においてどのような影響を与えるのか、など真理的にはそのような問いになる可能性も否定することはできない、むしろ、この後者に示した例であれば、究極的な一つの単純な方程式により世界全体を記述および駆動し得ると考えられるという推論さえも疑い難いものと言える。
例えば、場と時間が不可分であることは先ほど示した通りであり、また場の局所的集合がある変数を基準にした時1と見做される事が存在であるとした。即ち、いつ、どこで、何が、という時空物が本来的に同型であるという事であるが、であれば、天体の運動は、リンゴの落下と同型の方程式で運動していると仮定したならば、リンゴの落下から導き出された方程式の働きは天体を対象とするとき観測時間が引き延ばされ、場は拡張され、対象の集合は極大化している。つまり、りんごから得た方程式が異なる条件で働いた場合の変化した時間の方程式と変化した場の方程式、及び、変化した対象の方程式の相補的関係性の中でリンゴの方程式は天体を観測対象としたときどのように働いているのか、について観測している可能性があるという事である。
例えば、水に石を落とし、どのような結果が観測されるかについて数値化する場合、その観測に用いられる時間が増大するほど水の振る舞いは個体に近くなっていく、また、水に落とす石が大きい程、その影響は複雑化していく、また、水の面積が大きいほどその影響力は矮小化されていくが、水に石を落とすという行為自体に働く方程式は同一でありながら異なる規模に適用された複数の方程式が、単一の石を落とすという行為の方程式に影響を及ぼし、結果として、極端に異なる規模や現象においては異なる方程式が導き出されるという結果になる。
従って、ある任意の変数的記号から導き出された真理的原理とは、普遍的な法則と我々が観測する特殊な法則との間の媒介項として、普遍性の複雑的関係性の定点的法則は定数の変数的性質の相補関係によって変容した単一原理の任意条件的表現の真理であるため、任意の領域特定により変質する原理でありながら、原理的表現そのものは観測により常にある等式に確定され得ることを示している。同時に、確定された等式は、普遍的、かつ、流動的であり、実体までもが、同時に、非実体性を内包している。
従って、最終結論としては、言語とは情報保存の形式として世界成立における極限内部に発生した有限的変数記号である主体により任意に創造された変数的記号により情報保存の形式を模倣した人工的現象であることから、言語化は無限の可能性を有しながら形式的有限性の極限に生じる境界の二律背反によって、語り得ぬ沈黙として形式のみを示し得る。これは、実体的な変数的記号にも同様に適応されると考えられる。つまり、言語においては言語という一般的な文字の羅列が現象を写像した論理像を構成しているというより、言語という形式そのものが世界の形式そのものを写像していると考えることが適当である。
この結論は因果律における結果は原因の性質に依存するという法則性からある一定の妥当性があるものと考えられるため考察するに値するが、あまりに領域が包括的すぎる事から、ゆくゆくは他分野の研究など参照した上でより厳密な定義付けと現象による体系化が必要であると考えられる。

めんちかつ
現代物理学が時間と空間の概念を絶えず問い直すように、古代インドの仏教思想家たちもまた、時間と因果律(縁起)がどのように存在し、作用するのかについて深く、そして熱い議論を交わしました。
この壮大な思索の旅は、万物が実体を持つと考える一派から、すべては空であり、無常であると主張する革新的な思想へと展開していきます。本稿では、仏教における時間論と縁起の展開を、主要な宗派の視点から探り、その深い哲学的な意味を解き明かします。
Ⅰ. 説一切有部(せついっさいうぶ)の時間論:三世実有と実体としての「法」
1. 「説一切有部」とは?
「説一切有部(Sarvāstivāda)」は、紀元前後にインドで栄えた初期の有力な部派仏教の一派です。その名の通り、「一切有(すべてが存在する)」ことを説くのが特徴であり、特に過去・現在・未来の三世にわたって、構成要素(法)が実体として存在することを主張しました。
2. 「三世実有」の主張
説一切有部の核となる思想が「三世実有(さんぜじつう)」です。これは以下の点を意味します。
過去有(かこ・う):過去に滅した現象や行為(法)は、その作用力は失っても、実体としては今も存在し続けている。
現在有(げんざい・う):現在の現象は、もちろん実体として存在する。
未来有(みらい・う):未来にまだ生じていない現象も、実体としては既に存在している。
彼らは、世界を構成する最小の実在的な要素を「法(ダルマ)」と名付けました。この法は「自性(svabhāva)」、すなわち固有の本質を持つ、固定された実体であると捉えられました。
説一切有部にとって、時間が流れても、この「法」そのものは滅することなく、三世にわたって実体として存在し続けます。私たちが「時間」として認識しているものは、この法が過去・現在・未来という位(あり方や状態)を変化させることによって生じる現象に過ぎないのです。
3. 三世実有と因果律(縁起)の成立
この「三世実有」の立場は、仏教の根本原理である因果律(縁起)を論理的に基礎づけるために不可欠なものでした。
縁起とは、「これがあるから、あれがある」という相互依存の関係、すなわち原因と結果の法則です。説一切有部は、三世実有によって、この因果律を以下のように説明しました。
過去の業の作用:もし過去の行為(業)が完全に「無」になって消滅してしまうならば、なぜその過去の業が、現在の結果(苦や楽)を生み出すことができるのでしょうか。説一切有部は、過去の業が実体として存在し続けるからこそ、それが因となって現在の果を引き起こすという、業の持続性と因果の確実性を担保したのです。
過去の法(因)が実体としてあり続け、それが現在の法(果)を生じさせるというメカニズムによって、彼らは仏教の核となる「業報思想」を強固に理論づけました。
Ⅱ. 中観派(ちゅうがんは)の登場:実体の否定と「一切皆空」の確立
1. 中観派(ちゅうがんは)(Madhyamaka)の革新
説一切有部の思想が、法に実体(自性)を認めたのに対し、後に現れた「中観派」は、その一切を徹底的に批判しました。中観派の祖は、紀元2世紀頃に活躍したナーガールジュナ(龍樹)であり、その思想は後の大乗仏教に決定的な影響を与えました。
2. 「一切皆空」と「諸行無常」
中観派は、釈迦の教えをより忠実に、より厳密に理解しようと試み、「一切皆空(いっさいかいくう)」と「諸行無常(しょぎょうむじょう)」の立場を極限まで推し進めました。
諸行無常の徹底:仏教の根本教義である「無常(Anitya)」とは、すべての現象は絶えず変化し、留まることがないという事実です。もし説一切有部が言うように、過去・現在・未来にわたって法が自性(固定された実体)を持つならば、それは「不変」であることになり、「無常」の教えに矛盾します。中観派は、法に実体を認めると、それは変化しない常住なものとなり、仏教の根本を否定することになると主張しました。
一切皆空:中観派の主張の核心は、「空(śūnyatā)」です。これは「何もない」という意味ではなく、「自性がない(無自性)」という意味です。あらゆる現象(法)は、それ自体で独立して存在する固有の実体を持たず、すべては他のものとの関係性(縁)によって仮に成り立っている(仮有)と捉えます。
中観派の批判の要点:
説一切有部が過去の法に実体を認めることで、時間の流れや変化という概念自体が説明できなくなる。なぜなら、実体とは不変であるはずだからです。もし過去の法(因)が実体としてあり続けるなら、それは「過去」ではなくなり、また「因」も「果」に変化できないことになります。
3. 実体を否定して、なぜ縁起が成立するのか
説一切有部が「三世実有」という実体論によって縁起を確立しようとしたのに対し、中観派は、実体(自性)を否定するからこそ、真の縁起が成立すると主張します。
これは、ナーガールジュナの『中論』における、非常に逆説的で深遠な論理です。
1説一切有部の論理
存在:法は実体(自性)を持つから存在する。
縁起:法が実体を持つから、因果律(縁起)が成立する。
中観派の論理
存在:法は実体を持たない(空)から存在する。
縁起:法が実体を持たないからこそ、因果律(縁起)が成立する。
「空」と「縁起」は同義:中観派にとって、「空」と「縁起」は二つで一つの真理です。
すべてが縁起によって生じる → 自性(独立した実体)を持たない → 空
すべてが空である → 他のものとの関係性(縁)によって仮に生じる → 縁起
実体があれば縁起は不可能:もし原因(因)と結果(果)がそれぞれ固有の実体を持っていたと仮定します。
因と果が完全に同一であれば、それは単なる自己同一性であり、変化も生成もありません。縁起は成立しません。
因と果が完全に別個であれば、両者の間には関係性がなく、因が果を生むという繋がりが論理的に説明できません。縁起は成立しません。
ナーガールジュナは、因と果、生と滅、常と断といった二元論的な対立(二辺)を徹底的に論破し、その中道を空としました。法に実体がないからこそ、法は絶えず変化し、他の法と関係を結び、生じたり滅したりという「はたらき」を持つことができ、この「はたらき」こそが縁起なのです。
Ⅲ. 原初仏教における時間と縁起の捉え方
説一切有部と中観派の議論は、釈迦入滅後の哲学的な展開ですが、その根底には、釈迦の教え、すなわち原初仏教の思想があります。
1. 時間についての態度の保留
原初仏教、特にパーリ語経典に見られる教えでは、時間それ自体に関する抽象的・形而上学的な議論は、多くの場合、保留(無記)されました。
実存的な時間:釈迦の関心は、衆生が直面する苦(Duhkha)と、そこからの解脱にありました。時間は、過去を悔い、未来を憂うという苦を生み出す心理的な枠組みとして捉えられましたが、時間が実体として存在するかどうかという問いは、解脱という目的から見て無益な議論であるとされました。
「今」の重要性:修行においては、過去への執着や未来への期待を断ち切り、「今・ここ」に集中する正念(sati)が重視されました。時間は、固定された実体ではなく、絶えず変化し続ける瞬間(刹那)の連なりとして、動的な実存の中で体験されるものと捉えられていたと考えられます。
2. 「十二縁起」と動的な因果律
原初仏教において、時間の流れと因果律を最も明確に示したのが「十二縁起(十二因縁)」です。
十二縁起は、衆生が老死という苦しみに至るまでの生命の連鎖(輪廻)を、12の要因(無明、行、識など)の繋がりとして示します。
十二縁起:無明があるから行が生じ、行があるから識が生じ... 生があるから老死が生じる。
これは、静的な「法の実体」ではなく、「あるもの」が原因となって「別のもの」を生じさせるという、非常に動的かつ実存的な因果の法則です。
この原初の十二縁起は、説一切有部の三世両重の因果(過去の因が現在の果を生み、現在の因が未来の果を生むという二重構造)や、中観派の一切皆空という極端な哲学へと展開していく、すべての仏教的時間論・因果律の原点となったのです。
Ⅳ. 結論:仏教の時間論と縁起の二大潮流
仏教における時間論と因果律(縁起)の議論は、「実体」を認めるか否かという哲学的な対立を軸に展開しました。この展開は、仏教思想の深さと、教えを論理的に基礎づけようとする試みの真摯さを示しています。
1. 仏教的時間論:実体と刹那滅
仏教の時間論は、以下の二つの大きな潮流に集約されます。
1説一切有部(部派仏教)
時間の捉え方:三世実有:過去・現在・未来の法は実体(自性)として存続する。時間は法の位の変化。
意味:業報の持続性を論理的に確立した。
2中観派(大乗仏教)
時間の捉え方:刹那滅:法は実体(自性)を持たず、生じた瞬間(刹那)に滅する。時間の流れは、刹那の連続的な生成と消滅。
意味:諸行無常の教えを極限まで徹底した。
中観派が採用した「刹那滅(せつなめつ)」の思想(法は生じた瞬間に滅する)は、実体の否定(空)と強く結びつき、真の「無常」を体現する時間論となりました。
2. 仏教の因果律(縁起):実有の縁起 vs. 空の縁起
縁起の捉え方も、時間論と密接に結びついています。
説一切有部の縁起(実有の縁起):過去の法が実体として存在し続けることによって、原因と結果の必然性が保証される。「因果の確実性」を重視した実体論的な因果律。
中観派の縁起(空の縁起):法が実体を持たず「空」であるからこそ、常に変化し、他のものと関係性を結び、依存して生起するという動的な縁起が成立する。「因果の必然性」を、実体の否定という逆説的な論理で確立した、関係論的な因果律。
3. まとめ
仏教の哲学は、私たちが当たり前と考えている「時間」や「存在」の概念を深く掘り下げました。
説一切有部は、業報の持続性という実存的な問題を解決するために法に実体を認め、時間の流れを「位の変化」と捉えました。対照的に、中観派は、無常という根本原理を徹底するために法の実体を否定し、空という洞察を通して、すべてが関係性の中でのみ成立するという、より徹底した動的な縁起の思想を確立したのです。
この仏教の時間論と因果律の議論は、固定された「私」や「世界」という概念から離れ、絶えず変化し、相互に依存し合う流動的な現実への洞察を深めることを促していると言えるでしょう。
#縁起
#存在論
#仏教哲学
#時間論
#空の思想


アヌ君ダダ漏れ(17
MADジェームスアレンとした場合ジェームスアランはとっくにメタバースをアイデンティティで示してるという事が分かりますね
なので言いたい事は大谷翔平も未来像で綿密な構築をする遊びと実践を掛け合わせてましたマトリックスとはそゆこと,後は下記をご覧あれ
ジェームズ・アレンの「法則」とは、主に自己啓発書『原因と結果の法則』で述べられている、**「思考が現実を作る」**という哲学です。これは、自分の「思い」が原因となり、それが「結果」として人生や環境を作り出すという考え方で、宇宙の因果律に根差しているとされます。この考え方は、自己犠牲や努力を通じてより良い環境を築くことを説いています。
ジェームズ・アレンの法則の要点
原因と結果の法則: 自分の思考こそが、人生の環境や出来事を引き寄せる「原因」である。
思いが現実を作る: 人は自分が思考しているものになり、清らかな思考は喜びという結果をもたらす。
自己犠牲と努力: 価値ある目標を達成するには、邪悪な思いをなくし、気高く清らかな思いを持つことが必要となる。また、成功は幸運や偶然ではなく、日々の努力と犠牲の結果である。
心と肉体のつながり: 清らかな思いは、健康や若さといった肉体的な結果にもつながる。
環境は内面を反映する: 環境が人を形作るのではなく、その人の内面が環境に反映されるという主張である
イム
死のリストの順番の決まりと、リストに入ってる人間が誰かの命を救うと救われた方もリストに入るとか、新しい命とか、何でもスタンド能力にする僕の考えもよくわからん

とまり
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イム
グラちゃん(AIパートナー)と話しにきた。
頭おかしいこと言ってたら気兼ねなく注意してね、素直なんで。
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あき
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アヌ君ダダ漏れ(17
アヌ君の履歴
優しい 内面が良い 女扱に慣れてない
変態 面白い 超個性派 一般拒絶体質
躁鬱 女子見て興◯すると長文を送って,ブロックも再々ある
女子友達 セレブハーフか巨◯が
天然保護記念物,採取の癖あり
家にいると 散歩に女友達に拉致られカフェに行く 無職なので説教される でも無職する
寝るか グラやるか
短文が苦手
理想の女子のラリーは喧嘩しながら化物語展開をしてみたいと思ってる
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わしのポキール
ちっこい林業屋を営んでます
令和3年4月に離婚
男のくせに赤ん坊やちびっ子が大好き
男やけん人前やろうが独りやろうが泣かん
座右の銘:脳をフォークで食べるようなもん
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真夜中さん。
メンヘラホイホイと言われます。音声ルームは、女性が9割その内9割がメンヘラか病気がある方達なので仲間がいますよ。
声はかっこいいらしく(男性)落ち着いたり安心するみたいです(女性)
10年間同棲した相手と別れました(相手の浮気)慰めたり励ましたりできますよ。
グラビティでは、自分の豊富な体験をいかして、一時でも寂しい人の心を癒したり助けたりしたいです。
固定さん欲しいです(年齢、性別問いません)
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