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大喜利のお題の星

15803人が搭乗中
参加

兵庫の星

3250人が搭乗中
参加
兵庫県のいろいろな話題、写真をお送りしていたいと思います。

兵庫県民集まれ!

572人が搭乗中
参加
同じ兵庫県民の方と仲良くなりたいと思ったので作ってみました!是非是非兵庫県の良さをみんなで共有しましょう!

第1回大喜利大会の星

106人が搭乗中
参加
【お題】アットホームな惑星です ※ルール 1.ルールは極力作らない 2.作りたくなったら1を参照 音声ルームにてやっている「第1回 大喜利大会」のコミュニティです。 だいたい夜からスタートします。 企画や運営について、ぼちぼちやっていければと考えております。 よろしくお願いします。

自衛隊・米軍の星

93人が搭乗中
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自衛隊や米軍イベントなどについてのトーク、車両や航空機、艦艇などの写真投稿を楽しむ惑星です。 来日した他国の機体や艦船ネタでもOKです。広くゆるく、ミリタリー全般ネタで。 ガチなマニアさんから、興味あるけどよく分からない、今度イベント行ってみようかなというビギナーさんまで幅広く歓迎します。楽しくやっていきましょう😉 知識のある方はビギナーさんにいろいろ教えてあげるようにしましょうね😊

大喜利教室

70人が搭乗中
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左利きの集まる星

44人が搭乗中
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左利きの方と仲良くなりたいという思いで作った星です。

自衛隊員or希望者の星

33人が搭乗中
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自衛隊入隊希望者や一般曹候補生、自衛官候補生などに応募した方、現役自衛官や退役自衛官の方が来て欲しいです。勿論自衛隊に興味がある方もwelcomeです

自衛隊の星

32人が搭乗中
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左利き・レフティの星

28人が搭乗中
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左利きの人はもちろん、家族・友人・パートナーが左利きの人、左利きに憧れる人、左利きに興味がある人、誰でもウェルカムです。 左利きのお悩み相談、左利きあるある、左利きの有名人発見情報、左利きグッズ情報など、楽しく盛り上がりましょう‼️

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睡眠

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辻利兵衛本店
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いちいち

いちいち

昨夜、急に思い立って今、なぜか京都。
京都は暑い。
目的は丸久小山園のロールケーキ。
二条城の近く。
相変わらず二条城のチケット売り場は外国の観光客で溢れている。
暑いのにご苦労様。
その光景を後目に、お店に到着。
お庭を観ながらスイーツを頬張る。

本当はそのあと宇治まで足を運んで辻利兵衛本店の抹茶パフェを食べに行きたかったのですが、暑さで断念。
また次回。
京都の暑さを舐めてました。

40年前、京都の大学に行ってたときとは、まるで別世界のような変わりようでした。

東寺でおみくじ引いたら、人生初の凶!
凶って。
どうしよう?
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🌴たかし⛺

🌴たかし⛺

とりとめのない話し(その48)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その8)

江戸後期、八幡商人は「最上紅花」を求めて、寛政年間1789年〜1801年、東北の出羽最上地方に10家の八幡商人が進出していた。湖東商人では小林吟右衛門家(丁吟)、塚本定右衛門家(紅定)、阿部市郎兵衛家(紅市)、伊藤忠兵衛家(紅忠)なども「紅花」を扱っていた。また、近江出身で山形に定着し、活躍した商人もいた。十日町の西谷家・中村家・長谷川家・村居家などがあり、現在も近江屋の屋号を残している。

近江商人など「紅花交易」により財を成し、その資金を元手に明治維新や産業革命の時代の波に乗り、伊藤忠兵衛(伊藤忠商事や丸紅の祖)や阿部市郎兵衛(近江三福の商家の1つ)など、活躍した企業も数多くあったが、一方で明治維新や産業革命の変革の波に乗れず、没落した近江商人も数多くあった。

●最上紅花
室町時代頃から山形の出羽最上(現・村山地域) で作られた「紅花」。最盛期は江戸時代中期、米の百倍、金の十倍の価値とされていたため、近江商人などの間で主力商品となりつつあった。奥州仙台や奥州福島などでも作られたが、 特に山形の紅花はその質の良さから、近江(現滋賀県)との紅花交易により「最上紅花」は全国に名を馳せていた。近江商人や山形商人が率いた最上川舟運によって京都へと運び、華麗な西陣織や化粧用の紅などに加工された。江戸後期には奥州より劣り、評判を失い、明治時代に入ると、化学染料の普及や安価な中国紅花の輸入により大打撃を受け、山形の紅花栽培は急速に衰退し、近年には栽培されなくなった。最近は染体験など少しずつ観光用の郷土品として、紅花生産が復活している。

●最上義光
戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名。最上氏第11代当主。出羽山形藩の初代藩主。南羽州に勢力を広げ、縁戚である伊達輝宗・政宗と争う。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、慶長出羽合戦にて上杉家の直江兼続を退け、57万石の版図を築き、東北最大の城下町となる。最上川舟運の開発を進め、元禄年間には上流から下流まで全域にわたり最上川の掘削や拡張を進め、商才のある近江商人を山形へ誘致した。山形城の城下町、現在の十日町~七日町界隈に土地を分けて店舗を構えさせ、山形商人とともに紅花交易を盛んとなる。義光死後、1622年息子の義俊はお家騒動により近江大森藩一万石に移封されたのも、近江商人の交易の繋がりとなったとされる。江戸後期には次第に藩の衰退により、城の荒廃とともに城下町に武士が減り、商業の中心地として発展していった。

●最上川船運
最上川は内陸の重要な交通路としても利用された。舟運の発達によって最上川の河道整備も必要となったが、最上川は中流部~下流部に掛けて難所が多く、水運発達の最大の懸念となっていた。河口部の酒田は戦国時代には堺や博多と同様の自治港湾都市として、奥羽随一の商業都市に発展していた。関ヶ原の戦いの後に酒田を統治する事となった最上義光は酒田と山形を水運で結ぶ為に、最上川の河道整備を行った。最上川中流部、通称「最上川の三難所」と言われた碁点・三ヶ瀬・隼の瀬(現在の村山市)の三地点を開鑿して川幅の拡張と川底の掘削を実施し、舟運の円滑化を図った。これにより水運は発達し各所に船着場が建設された。その後、流通経済の拡大によって更なる舟運整備が求められ、1659年には幕領米の輸送を請け負った江戸の商人正木半左衛門らが酒田から江戸を結ぶ西廻り航路を開通させ、酒田は更に重要な経済都市として発展していった。1693年第四代米沢藩主・上杉綱憲の時に米沢藩御用商人であった西村久左衛門は、酒田と米沢盆地を結ぶため、1万7千両の巨費を投じて最上川上流部の難所であった五百川峡・黒滝地点を開鑿し、長崎(のちの中山町)から荒砥(白鷹町)の通船工事を完成させた。米沢藩領内にある最上川の荒砥よりも上流は「松川通り」と呼ばれ、糠の目(高畠町)、宮(長井市)、菖蒲(白鷹町)の河岸には藩の陣屋が設置された。

●七代目阿部市郎兵衛(近江三福と言われた商家1つで主に活躍した近江商人)
1837年− 明治37年(1904年)は、明治維新期の近江商人。繊維産業・鉄道・銀行など各種事業の支援者となり、日本の産業育成に貢献した。
1837年近江国神崎郡能登川村(現・滋賀県東近江市能登川町)に生まれ、幼名を元太郎と言った。父は近江商人阿部市郎兵衛家(屋号『紅屋』)の分家阿部市太郎家の2代目当主(通称吉太郎)である。本家市郎兵衛家には継嗣がなく、元太郎が伯父である6代市郎兵衛の養子になり、1857年家督を継いだ。家督継承後、紅屋家業の麻布商を営むと共に、米穀肥料問屋業務を新たに始め、その発展に伴い千石船を十数隻支配して、北海道・九州など各地の物産を江戸・大阪輸送し、販売を行った。明治12年(1879年)には西洋型帆船を建造し、明治15年(1882年)にも千五百石積帆船を新造した。矢継ぎ早の帆船新造は評判となり、東京商船学校の研修も受け入れたと伝えられる。明治維新による産業興隆機運の中、市郎兵衛も新規事業への参入意欲は旺盛で、様々な事業に進出、または支援を行った。

〇関西鉄道
滋賀県議会議員弘世助三郎・馬場新三・高田義助、滋賀県知事中井弘等は京・三重県・滋賀県の有力者に呼び掛け、京より名古屋を直接結ぶ鉄道敷設を計画し、阿部市郎兵衛を始め、三重県桑名船馬町(現桑名市)の諸戸清六、京都市上京区春帯町の濱岡光哲、東京市華族井伊直憲等11名が発起人となり、明治20年(1887年)3月30日関西鉄道株式会社の設立を申請した。明治21年(1888年)3月1日、関西鉄道会社設立(資本金300万円)に対し免許が交付され、翌年滋賀県内の草津・三雲間が開通し、順次営業区間は広がっていった。

〇阿部ペイント製造所
明治21年(1888年)阿部ペイント製造所を大阪に設立し社長に就任した(昭和4年(1929年)鉛粉塗料に買収され現在大日本塗料)。

〇金巾製織
明治21年(1888年)8月滋賀県知事中井弘の勧奨に応じて、阿部周吉・小泉新助・山中利兵衛・伊藤忠兵衛・中村治兵衛・西川貞二郎等滋賀県有力者(近江商人)と共に発起人となり金巾製織株式会社を設立(本社、大阪四貫島)。明治23年(1890年)1月初代社長となり、他に役員として阿部周吉・3代目阿部市太郎・小泉新助・中村治兵衛・高田義甫・田村正寛、監査役として西川貞二郎が就任した(明治39年(1906年)大阪紡績(明治15年(1882年)設立し市郎兵衛は発起人)と合併、大正3年(1914年)三重紡績と合併し、後の東洋紡になる)。

〇阿部製紙所
明治24年(1891年)洋紙需要の急増に国産で対応すべく阿部製紙所を大阪西野田新田に設立し、社長に就任。製紙工場は火災にあうなどしたが、明治31年(1898年)新工場を建設、明治34年(1901年)に個人経営から阿部製紙合資会社に改組した(日本製紙(株)を経て富士製紙と合併し、現在王子製紙)。

〇近江銀行
明治27年(1894年)近江銀行創設に加わり、監査役に就任した。

〇近江鉄道
滋賀県湖東の内陸部(中山道沿い)は官設鉄道のルートから外れ、同じ湖東の琵琶湖側(能登川、八幡側)に官設鉄道が敷設され、湖東平野の内陸部を縦断し東海道線彦根駅と関西鉄道深川駅(現甲南駅)を結ぶ鉄道計画が持ち上がった。明治26年(1893年)11月大東義徹(司法大臣)・林好本(彦根市長)・西村捨三等の旧彦根藩士族と中井源三郎・下郷傳平等有力近江商人を中心に44人が発起人となり明治29年(1896年)資本金100万円で近江鉄道株式会社が設立した。設立当初発起人等が役員となったが、資本金100万円では計画の半分も鉄道敷設できず、設立当初より資金繰りが厳しく、明治31年(1898年)役員全員が辞任し、新たに市郎兵衛が社長に就任し、阿部市三郎等が役員となった。明治34年(1901年)3月優先株式2万株(100万円)の発行を決定し、そ大半を丁吟(3代小林吟右衛門)と阿部一族(阿部市郎兵衛家・阿部市三郎家等)が引き受けた(大正13年(1914年)までに彦根-貴生川・多賀線が開通した後宇治川電気(関西電力の前身の一つ)の系列に入り、西武鉄道グループの傘下となる)。

〇その他
・大阪の繰綿問屋の共同出資により明治20年(1887年)設立した有限会社内外綿(後にシキボウ傘下)
・明治28年(1895年)1月設立真宗信徒生命保険(現東京生命)・創業大日本製糖株式会社(現大日本明治製糖)
・明治29年(1896年)開業京都企業銀行(大正元年(1912年)9月破産申請)・愛知県の明治銀行(昭和13年(1938年)8月業務廃止)
・明治31年(1898年)開業七尾鉄道株式会社の他に浪花紡績・京都絹糸紡績・京都硫曹(現日産化学)等の設立発起人、役員になった。
・渋沢栄一が創立委員長を務めた京北鉄道(1894〜1902)では由利公正や大和田荘七、岡部広、岩下清周らとともに役員に名を連ねた。

市郎兵衛は、これら新規事業創設に当たり、阿部一族として活動した。金巾製織では弟である3代目阿部市太郎が市郎兵衛の後社長になり、阿部利兵衛家3代周吉や市太郎の養子房次郎(後に東洋紡績社長)も役員として活躍した。近江鉄道では市郎兵衛の同じく弟である2代目阿部市三郎が、市郎兵衛の後に社長となった。また、従兄弟である阿部市次郎家の2代目阿部彦太郎は、市郎兵衛が展開した回船事業の後を受け大阪商船等の役員となり、内外綿の初代社長となった。

晩年は弟である2代目市三郎の長男を養子とし、市郎兵衛家8代目として家督を譲ったが、養父に先立ち明治35年(1902年)死去した。このため7代目市郎兵衛が亡くなるまでの間家政を見、明治37年(1904年)死去した。
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とりとめのない話し(その49)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その9)

「八幡御三家」とは、近江商人の中でも特に有力だった西川甚五郎家、森五郎兵衛家、西川正六家(伴 伝兵衛家)の3つの商家。江戸時代に近江八幡を拠点に活躍し、全国に商品を流通させ、近江商人の発展に大きく貢献した。

西川甚五郎家は、西川仁右衛門を初代とし、二代目を甚五郎が継ぎ、三代〜八代まで利助を名乗る。九代〜十四代は甚五郎を名乗った。近江商人の「三方よし」の精神で、事業を発展、継承してきた。2代目甚五郎が近江蚊帳を販売し、から11代甚五郎がふとんの西川産業を設立し、入り婿の西川康行(通称:八一行)が経営手腕を買われ、15代目として、2018年西川リビング、東京西川、京都西川の3つを経営統合した西川株式会社の会長に就任している。七代西川利助の代に積立金や利益分配、責任の分担など、本家、分家、奉公人に対しての制度改革が現代まで続いている要因とされる。

●伴 伝兵衛
いち早く江戸日本橋に進出した近江商人、屋号は江戸で『近江屋』、八幡で『扇屋』。歴代当主が襲名した名称。伴伝兵衛家は西川甚五郎家・森五郎兵衛家と共に八幡御三家とされる(資料によっては伴伝兵衛に替わり西川庄六家が入るものもある)。

伴太郎左衛門尉資家:近江国甲賀郡(後の伴谷村、現滋賀県甲賀市水口町)の郷士より織田信長に従い天正10年(1582年)本能寺において討死。
伴伝兵衛 (初代)資則:武士を捨て行商を行い、大名屋敷御用を得た。慶長15年(1610年)近江商人の中で最も初期の段階に江戸出店を行った。
伴伝兵衛 (2代):正月名物近江屋の松飾。
伴伝兵衛 (7代):御朱印騒動解決に尽力。

●3代目西川 庄六
1694年−1795年 近江商人西川利右衛門家分家西川庄六家(現、メルクロス株式会社)当主。庄六家最盛期を築くと共に、俳諧においても多くの秀作を残した。3代西川庄六は、1694年に 近江国蒲生郡八幡(現滋賀県近江八幡市)に生まれ、幼名を五郎と称した。父は庄六家の本家に当たる4代目西川利右衛門数常。16歳の時に2代目西川庄六(通称利兵衛)の養嗣子となり、1744年に養父の死去により家督を継ぎ3代目西川庄六、諱を数久と改めた。3代目庄六は祖業である畳表・縁地・蚊帳の他に琉球黒糖を取り扱い、貴重品である砂糖は引く手数多で商いは盛況を極めた。また、実父4代目利右衛門の支援を得て江戸日本橋に出店、西川庄六家の最盛期を築いたと言われる。また、原元佃房の門に入り「可昌」と号し、多くの秀句を残した。北陸地方・中国地方の俳人とよく交わり加賀千代女とも交友があったと伝えられる。出店や商い先への往来に伴い各地で吟行を行った。当時近江商人の家庭では、謡曲・和歌・俳諧・囲碁・蹴鞠・浄瑠璃・華道・茶道等を嗜み、家業の為高度な商才が必要とされると共に高度な教養も求められた。1795年に死去したが、9人の子宝にも恵まれ、長男は本家利右衛門家を継ぎ(西川利右衛門 (7代))、3男が4代目庄六となった。なお、次男は亀蔵家・4男は理左衛門家を新たに興した。

●森 五郎兵衞 (初代)
生年不明 −1703年4月2日、江戸時代中期の近江商人。後に八幡御三家の一つと言われた森五郎兵衛家の創始者で、屋号は『近江屋』、近三商事株式会社の遠祖。八幡新町(現滋賀県近江八幡市新町)に生まれたとされる。同地の豪商伴伝兵衛家に奉公に入り、五郎兵衛は性質温厚忠実、陰日向無く仕事に勤しんだと伝わっている。五郎兵衛も中年になり奉公の年季も満ちた時、主家の主である伴伝兵衛自らが五郎兵衛奉公中の忠勤を事細かく記した褒賞状を作り、資金と共に五郎に手渡し、別家を立て独立することを許した。独立した後も主家の報恩を忘れず五郎兵衛は、主家より渡された褒賞状を何よりの宝物とし、主人であった伴伝兵衛が亡くなった後、伝兵衛の位牌を自家の仏壇の中央に据え、毎朝夕位牌への合掌を欠かさなかったと伝えられている。

五郎兵衛は独立した後、煙草商として江戸から関東一円を行商したところ、五郎兵衛の商才と顧客の利益を第一にする態度、誠実な人柄からすぐに顧客の信頼を得ることができ、数年で利を重ねることができた。その後、江戸に出店を設け、近江の麻布に関東地方の呉服を扱った。着実な仕事ぶりは顧客を集め、次第に販路も広がり大発展を遂げていった。五郎兵衛の店の奉公人達も一生懸命に働いていたが、これも五郎兵衛がそうであったように、真面目に働いた奉公人には年季が満ちた際に必ず独立することを許し、資金も相応に渡していたことによる。当時は五郎兵衛や伴伝兵衛のような商人ばかりでなく、猾商と呼ばれる狡猾な商人も多くいた。別家やわずかな資金をも惜しみ、年季近い番頭に人を使って遊びを教え、金を使い込ませたり、女性との間にもめごとをつくる等して首にするような商人も多くいただけに、五郎兵衛の店は奉公人にとり働きがいがある商家であった。五郎兵衛はこの様な話を聞くたびに「猾商は商界の罪人だけではなく、世間の罪人だ。奉公人は店の宝、主人の手足であり、猾商は自らの手足を切断しているようなものだ」と憤っていたことが伝えられている。1703年4月2日、五郎兵衛は亡くなった。生前、五郎兵衛は弟和助が分家する際、伴伝兵衛に頼み一旦和助を奉公に出し、奉公人としての立場を経験させた後に分家させたとされ、奉公人を第一とする森五郎兵衛家の考えがわかる逸話と言える。五郎兵衛が亡くなった後も、後継者はよく遺志を継ぎ、代々森五郎兵衛と称し、屋号を近江屋三左衛門、また『扇叶』と称して八幡御三家の一つに数えられるに至った。

●西川 甚五郎家
江戸時代初期から活躍した老舗近江商人、屋号は『山形屋』。西川創業家の歴代当主が襲名する名称。西川庄六家又は伴伝兵衛家・森五郎兵衛家と共に八幡御三家の筆頭とされた。

・西川仁右衛門 - 山形屋(西川甚五郎家)創業者
・西川甚五郎 (2代) - 八幡蚊帳の特色とされる萌黄蚊帳を創案した。
・西川利助 (5代) - 弓の輸送と一手販売の権利を手に入れる。
・西川利助 (7代) - 隠居後甚五郎を称し、山形屋中興の祖。
・西川甚五郎 (11代) - 八幡銀行設立に参画し八幡製糸・西川産業等設立。広島尾道・大分・京城・奉天支店等開設し、大阪・京で布団販売を開始する。現在の西川産業の礎を築く。
・西川甚五郎 (12代) - 1929年「西川」の商標を制定。貴族院多額納税者議員。
・西川甚五郎 (13代目) - 政治家としても活躍。北海道開発庁長官を務めた。
・西川甚五郎 (14代) - 元西川産業会長、日本橋西川ビル社長。(東京商工リサーチによる)16年没。

〇西川株式会社
日本の寝具メーカー。羽毛布団やマットレスといった布団関連製品の製造・卸販売を主要事業としている。

近江の商家西川家に生まれた仁右衛門が1566年に蚊帳の販売を始めた(西川グループではこれを創業年と位置づけている)。この後、豊臣秀次による八幡(現在の滋賀県近江八幡市)への八幡山城築城に際して、西川家はこの城下に移住(八幡商人)した。仁右衛門は1587年に同地で山形屋を開設し、蚊帳の製造・販売を開始、のちに畳表の製造・販売も行った。

江戸幕府が開かれて江戸の日本橋(現在の東京都中央区)付近へ商人を誘致したことに伴い、山形屋は1615年に江戸の日本橋に支店 「つまみだな」を開設した。仁右衛門の息子甚五郎が考案したとされる近江蚊帳のヒットで商売は軌道に乗り、日本橋を本拠として数代に渡って蚊帳問屋、弓問屋と商売を広げていった。1750年に京都に京店を開設。当主が7代利助の代に、「三ツ割銀」(年2回の決算後に利益の三分の一を奉公人に分配する、賞与のような制度)、「定法目録」(奉公人に分家の資格を与える制度のルールを明文化)、「定法書」(火事など不時の出費に備えた資金の積立と運用)などの制度を導入した。

明治時代となった11代甚五郎当主の代に、1876年に大阪店を開設し、1887年に後の主要事業となる布団の販売を京・大阪の両店で始めた。1920年に給与制を導入、1929年に牡丹文字を用いた「西川」の商標を制定、同年に製織部門として近江蚊帳製造株式会社(現・西川テックス)が設立された。1941年大阪に心斎橋店を開設。同年に既存の店舗を法人化し、京店を株式会社京都西川、大阪店を株式会社大阪西川(後の西川リビング)とする(法人としての京都西川および西川リビングの設立はここを起点としている)。空襲によって1945年に消失した東京日本橋のつまみだな店を1947年に再建し株式会社西川として法人化、同店舗内に卸部門として西川産業株式会社を設立した。日本橋店を株式会社西川とする(法人としての西川、西川産業、日本橋西川の設立はここから起算)。

2018年7月10日、「西川グループ」の3社(西川産業、京都西川、西川リビング)を経営統合すると発表[3][広報 6]。2019年2月1日に、西川産業株式会社を存続会社に、株式会社京都西川、西川リビング株式会社を吸収合併し、西川株式会社に社名変更した。
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とりとめのない話し(その60)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その20)

明治維新以降、大阪の堺筋に百貨店(デパート)が軒を連ね、百貨店通りと言われるまでに至った。近江商人を源流とされる近江商人出身の呉服問屋(三越、白木屋、高島屋、松阪屋など)が多いのも印象的である。松阪屋は東海地方のいとう屋が屋号の呉服問屋。屋号については伊勢松阪の松阪屋の屋号の呉服問屋を買収したことに由来。昭和初期以降、商業の中心が御堂筋に移ると交通系の百貨店が数多く建設され、堺筋から移転や閉店を余儀なくされた。
因みに大丸は京都で、そごうは奈良で呉服問屋を創業。百貨店に発展。

1922年(大正11)髙島屋は大阪・堺筋の長堀橋詰に近代ゴシック建築の大型店舗、髙島屋長堀店を開店。これが髙島屋の本格百貨店の始まりとなる。当時の堺筋は、三越、白木屋がすでに大店舗を構えており、長堀店開店の翌年には松坂屋が開店。市電が走る堺筋は、大阪随一のメインストリートとして繁栄し、この時期の大阪は人口・面積で日本最大の都市になり、世界でも有数の大都市「大大阪」と呼ばれた。華やかで活気にあふれた「大大阪時代」の象徴の1つが堺筋に並んだ百貨店建築だった。昭和初年、御堂筋の建設計画が始まると、髙島屋が南海店(現大阪店)を開店を皮切りに在阪百貨店の地図は大きく変化した。

1922-1939 髙島屋長堀店 堺筋は江戸時代、商都・大阪の中心を南北に走る最も重要な街道でした。明治のおわりには道路が拡張され、市電が開通、大阪随一のメインストリートとなった。髙島屋は当時心斎橋筋に店舗を構えていたが、本格的な百貨店経営に向けて店舗の大型化を計画。1922年(大正11)、堺筋の長堀橋詰に長堀店を新築開店。
1923―1966 松坂屋大阪店 髙島屋が長堀店を開店した翌年、松坂屋が同じ堺筋の日本橋に大阪店を開店した。大正期の堺筋には既に三越が高麗橋に、白木屋が備後町に、それぞれ大型店舗を建設していた。大正のおわり、堺筋は百貨店が建ち並ぶ「百貨店通り」と呼ばれるまでに発展。大阪が人口・面積で東京を抜き日本一の都市となり、「大大阪時代」が到来した。

●日本の百貨店(デパート)の誕生
三井グループの祖業である合名会社三井呉服店(現在の三越)が1904年(明治37)前後に顧客や取引先に三井・三越の連名で挨拶状を発送。株式会社三越呉服店を設立し三井呉服店の営業を全て引き継いだことを案内するとともに、今後の方針として「当店販売の商品は今後一層その種類を増加し、およそ衣服装飾に関する品目は 一棟御用弁相成り候 設備致し、結局 米国に行はるるデパートメント、ストアの一部を実現致すべく候」とし、1905年(明治38)元旦には全国主要新聞に全面広告を掲載した。のちに「デパートメントストア宣言」と呼ばれ、日本における百貨店の始まりとなった。

●三越
三越伊勢丹ホールディングス傘下の三越伊勢丹が運営する呉服店を起源とする日本の老舗百貨店。1673年創業。株式会社三越は、2011年3月31日まで運営していた企業。戦前の三井財閥及び、三井グループの源流企業。
商号の「三越」は三井財閥の創業者である三井家の「三井」と創業時の日本橋の呉服店「越後屋」からで、1904年に「合名会社三井呉服店」から「株式会社三越呉服店」へ改称。三越日本橋本店は日本の百貨店の始まりとされる。1935年に竣工した日本橋本店の本館は、国の重要文化財に指定。

●白木屋
東京都中央区日本橋1丁目に存在した江戸三大呉服店の1つで、かつ日本の百貨店の先駆的存在の1つ。江戸時代創業だったが昭和に入り、東急グループの傘下。1967年(昭和42)東急百貨店と合併し、商号・店名ともに「東急百貨店日本橋店」へと改称。その後1999年(平成11)に閉店、336年の歴史に幕を閉じた。跡地にはコレド日本橋が建設され、2004年(平成16)に開業。
日本国内では(法人は別として)商号は消滅したが、アメリカ合衆国ハワイ州ホノルルのアラモアナセンターでは、かつてのアラモアナ店が「シロキヤ・ホールディング・LLC」として2020年まで営業。初代大村彦太郎可全が、母方の材木商・河崎家の商売を近江国で手伝った後に独立し、1652年京都の寺の内に材木商を開いたのが始まりで、江戸三大呉服店に成長。
1921年(大正10)には心斎橋筋の出張店を閉鎖する代わりに堺筋備後町の角に3075坪の大阪支店を開設して東京と大阪で百貨店を2店舗を展開。

●髙島屋
大阪府大阪市中央区難波に本社を置く、老舗の大手百貨店。難波にある大阪店は同社の登記上の本店。2019年から本社機能の一部を東京都中央区日本橋の髙島屋グループ本社ビルに移転。日経平均株価の構成銘柄の一つ。
1831年京都で飯田新七(現・福井県敦賀市生まれ)が古着・木綿商を開き、義父の飯田儀兵衛の出身地である近江国高島郡南新保村(現・滋賀県高島市今津町南新保)から髙島屋と名付けた。

明治期の半ばから貿易業に参入する。1919年(大正8)には株式会社髙島屋呉服店として、当時の大阪市の目抜き通りであった堺筋の長堀橋に長堀店を構える。大阪市役所によって御堂筋が大阪のメインストリートとして整備されるのに合わせ、1932年(昭和7)には御堂筋の南端に位置する南海ビルディング(南海難波駅の駅ビル)のキーテナントとして、ターミナルデパートの南海店を開店した(のちに長堀店を閉店し、南海店に統合して本店の大阪店に改称)。翌1933年(昭和8)には東京市の日本橋に東京店(現・日本橋店)を開店して、関西資本の百貨店の中ではいち早く第二次世界大戦前に東京進出を果たした。

●松坂屋
J.フロント リテイリンググループの大丸松坂屋百貨店が運営する日本の百貨店。また、株式会社松坂屋は、2010年までこれを運営していた企業。
東海地方を地盤とし、呉服店を起源とする老舗の名門百貨店。名古屋最大の繁華街である栄に本店を置く。本店の名古屋店においては、地域一番店の座を2000年開業のJR名古屋タカシマヤに奪われたものの、とりわけ名古屋市では今なお最有力の百貨店の1つ。イメージフラワーはカトレヤで、キャッチフレーズは「生活と文化を結ぶマツザカヤ」である。三越(現在の三越伊勢丹)や髙島屋などを凌ぎ日本一の売上を誇る百貨店であった時期も存在する。かつては進取の気質に満ち、業界他社に先駆けてエレベーターガール、制服の完全洋装化を採り入れた。に行はるるデパートメント
もともとこの百貨店の屋号は伊藤財閥の創業者・伊藤蘭丸祐道の苗字から採ったいとう屋であった。この伊藤蘭丸祐道の祖先は織田信長の小姓をしていたとされる。「松坂屋」のそもそもの由来は、1707年伊勢松坂(現・松阪市)出身の商人・太田利兵衛が今日の上野店の前身となる呉服店を開業、自分の出身地名から松坂屋と名付けたことによるもので、1767年いとう屋が松坂屋を買収した際、江戸の屋号はそのまま「松坂屋」を使用したが、これは既に江戸市中に松坂屋の名前が知れ渡っていたため、本来の「いとう屋」に変更するよりも得策と判断したからである。1768年江戸進出。上野の「松坂屋」を買収し、同店を「いとう松坂屋」と改称。

1875年、第1大区高麗橋1丁目(現・中央区高麗橋1丁目)の呉服店「恵比須屋」を買収の上、第3大区新町通3丁目(現・西区新町3丁目)に「ゑびす屋いとう呉服店」設置。1909年 「ゑびす屋いとう呉服店」を閉鎖。1923年 南区日本橋筋3丁目(現・浪速区日本橋3丁目)に木造3階建の「松坂屋いとう呉服店大阪店」を開店。1964年大阪府大阪市中央区天満橋京町1-1で「松阪屋」を開店。店舗面積は30750㎡。2004年閉店し、京阪に売却し、京阪シティモールとなる。

●大丸
J.フロント リテイリンググループの大丸松坂屋百貨店が運営する日本の百貨店である。また、株式会社大丸は、2010年までこれを運営していた企業。京都発祥の老舗百貨店で呉服店を起源。大阪(心斎橋・梅田)・京都・神戸・東京・札幌に主力店舗を構えており、心斎橋店が本店にあたる。主力店舗はいずれも高い売上を誇り、この6店舗で単体の91%の売り上げを占める。特に本店の心斎橋店と、神戸店は高級百貨店として近畿地方において高いブランド力を誇る。また大手百貨店では唯一京阪神を網羅している。
1717年下村彦右衛門正啓が現在の京都市伏見区京町北8丁目77に呉服店「大文字屋」を開業し、呉服商を出発点として両替商を兼営していた。1726年に大坂心斎橋筋に進出。1728年に名古屋本町に名古屋店を開き「大丸屋」と称した(のち閉鎖)。幕末には髙島屋に対抗して幕府側についた。
1908年個人商店「大丸呉服店」を株式合資会社に転換。1910年東京信託会社の岩崎一が改革案を作成し、ついで大隈重信の斡旋により、日本生命社長の片岡直温が改革に乗り出す。同年秋には東京・名古屋の両店を閉店する一方で、京都・大阪・神戸店を拡張して再建に乗り出した。下村家も秘蔵の書画骨董を売却して約30万円を調達して資力を増強、1911年別宅会を解散して積立金を割り戻す決定をした。1914年には大阪店が不渡り手形を出して京阪2店が休業するなど、呉服店から百貨店への転換過程では問題が続発したが、幾度もの困難を乗り越え、1928年に大丸と改称して近代化に成功した。
高度成長期は三越(現:三越伊勢丹ホールディングス、同社傘下の三越伊勢丹ほか)と並び「西の横綱」と呼ばれた。しかし、梅田店出店に関する三菱銀行からの借入金など1000億円もの有利子負債を抱え、経営が一時悪化した。1990年頃には梅田店や東京店の黒字転換が実現し、神戸店の周辺開発を進めたものの、バブル崩壊後に再度業績は低迷。奥田務が社長就任後、他の百貨店よりも一足早く1998年より事業構造改革に乗り出し、国内不採算店舗の閉鎖や海外店舗の全面撤退、人員削減に取り組んだ。一方で2003年には札幌店を開店し軌道に乗せている。結果として改革は成功し、収益力を業界首位級に押し上げた。

●そごう
株式会社そごう。かつて百貨店の「そごう」を運営していた日本の企業。ミレニアムリテイリングの完全子会社。2009年8月1日にミレニアムリテイリングおよび同じくミレニアムリテイリング傘下の西武百貨店と合併し、そごう・西武となった。
1830年大坂で古着屋として創業した老舗企業。メインバンクの日本興業銀行(現在のみずほ銀行)出身の水島廣雄のもとで1960年代以降に多店舗展開戦略を推進して大手百貨店グループの一角にのし上がるが、バブル崩壊による経営悪化などにより2000年に経営破綻。その後は西武百貨店の支援の下経営再建を行い、2003年西武百貨店と共に持株会社「ミレニアムリテイニング」の傘下に入る形で経営統合。2009年にミレニアムリテイニングおよび西武百貨店と合併し、そごう・西武が発足。

「そごう」の社名・店名は創業者の名「十合」に由来。大阪が発祥の百貨店で、登記上の本店は創業から大阪店閉店までと心斎橋本店開店からそごう・西武への再編前まで、大阪の心斎橋に長年あった。それまで、大阪・心斎橋と神戸・三宮の2店舗だったが、1957年有楽町に東京店を開業し、「有楽町で逢いましょう」を宣伝文句に東京に進出した。同名の歌謡曲をはじめ歌番組や映画が制作され大流行となった。映画では大阪店・東京店が撮影に使用され、そごうが衣装提供も行った。
大和国十市郡十市村で絹屋として商売を営んでいた十合徳兵衛の息子として生まれた十合伊兵衛が、1830年に坐摩神社(火防陶器神社)の南隣、大坂上難波町に古手屋(古着屋)「大和屋」を開業したのが始まり。1872年(明治5)古手屋を廃業して呉服店へ転換し、1876年(明治9)安堂寺橋通三丁目に移転。翌1877年(明治10)には心斎橋筋一丁目に移転すると共に十合呉服店へ改称。
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