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とりとめのない話し(その48)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その8)

江戸後期、八幡商人は「最上紅花」を求めて、寛政年間1789年〜1801年、東北の出羽最上地方に10家の八幡商人が進出していた。湖東商人では小林吟右衛門家(丁吟)、塚本定右衛門家(紅定)、阿部市郎兵衛家(紅市)、伊藤忠兵衛家(紅忠)なども「紅花」を扱っていた。また、近江出身で山形に定着し、活躍した商人もいた。十日町の西谷家・中村家・長谷川家・村居家などがあり、現在も近江屋の屋号を残している。

近江商人など「紅花交易」により財を成し、その資金を元手に明治維新や産業革命の時代の波に乗り、伊藤忠兵衛(伊藤忠商事や丸紅の祖)や阿部市郎兵衛(近江三福の商家の1つ)など、活躍した企業も数多くあったが、一方で明治維新や産業革命の変革の波に乗れず、没落した近江商人も数多くあった。

●最上紅花
室町時代頃から山形の出羽最上(現・村山地域) で作られた「紅花」。最盛期は江戸時代中期、米の百倍、金の十倍の価値とされていたため、近江商人などの間で主力商品となりつつあった。奥州仙台や奥州福島などでも作られたが、 特に山形の紅花はその質の良さから、近江(現滋賀県)との紅花交易により「最上紅花」は全国に名を馳せていた。近江商人や山形商人が率いた最上川舟運によって京都へと運び、華麗な西陣織や化粧用の紅などに加工された。江戸後期には奥州より劣り、評判を失い、明治時代に入ると、化学染料の普及や安価な中国紅花の輸入により大打撃を受け、山形の紅花栽培は急速に衰退し、近年には栽培されなくなった。最近は染体験など少しずつ観光用の郷土品として、紅花生産が復活している。

●最上義光
戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名。最上氏第11代当主。出羽山形藩の初代藩主。南羽州に勢力を広げ、縁戚である伊達輝宗・政宗と争う。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、慶長出羽合戦にて上杉家の直江兼続を退け、57万石の版図を築き、東北最大の城下町となる。最上川舟運の開発を進め、元禄年間には上流から下流まで全域にわたり最上川の掘削や拡張を進め、商才のある近江商人を山形へ誘致した。山形城の城下町、現在の十日町~七日町界隈に土地を分けて店舗を構えさせ、山形商人とともに紅花交易を盛んとなる。義光死後、1622年息子の義俊はお家騒動により近江大森藩一万石に移封されたのも、近江商人の交易の繋がりとなったとされる。江戸後期には次第に藩の衰退により、城の荒廃とともに城下町に武士が減り、商業の中心地として発展していった。

●最上川船運
最上川は内陸の重要な交通路としても利用された。舟運の発達によって最上川の河道整備も必要となったが、最上川は中流部~下流部に掛けて難所が多く、水運発達の最大の懸念となっていた。河口部の酒田は戦国時代には堺や博多と同様の自治港湾都市として、奥羽随一の商業都市に発展していた。関ヶ原の戦いの後に酒田を統治する事となった最上義光は酒田と山形を水運で結ぶ為に、最上川の河道整備を行った。最上川中流部、通称「最上川の三難所」と言われた碁点・三ヶ瀬・隼の瀬(現在の村山市)の三地点を開鑿して川幅の拡張と川底の掘削を実施し、舟運の円滑化を図った。これにより水運は発達し各所に船着場が建設された。その後、流通経済の拡大によって更なる舟運整備が求められ、1659年には幕領米の輸送を請け負った江戸の商人正木半左衛門らが酒田から江戸を結ぶ西廻り航路を開通させ、酒田は更に重要な経済都市として発展していった。1693年第四代米沢藩主・上杉綱憲の時に米沢藩御用商人であった西村久左衛門は、酒田と米沢盆地を結ぶため、1万7千両の巨費を投じて最上川上流部の難所であった五百川峡・黒滝地点を開鑿し、長崎(のちの中山町)から荒砥(白鷹町)の通船工事を完成させた。米沢藩領内にある最上川の荒砥よりも上流は「松川通り」と呼ばれ、糠の目(高畠町)、宮(長井市)、菖蒲(白鷹町)の河岸には藩の陣屋が設置された。

●七代目阿部市郎兵衛(近江三福と言われた商家1つで主に活躍した近江商人)
1837年− 明治37年(1904年)は、明治維新期の近江商人。繊維産業・鉄道・銀行など各種事業の支援者となり、日本の産業育成に貢献した。
1837年近江国神崎郡能登川村(現・滋賀県東近江市能登川町)に生まれ、幼名を元太郎と言った。父は近江商人阿部市郎兵衛家(屋号『紅屋』)の分家阿部市太郎家の2代目当主(通称吉太郎)である。本家市郎兵衛家には継嗣がなく、元太郎が伯父である6代市郎兵衛の養子になり、1857年家督を継いだ。家督継承後、紅屋家業の麻布商を営むと共に、米穀肥料問屋業務を新たに始め、その発展に伴い千石船を十数隻支配して、北海道・九州など各地の物産を江戸・大阪輸送し、販売を行った。明治12年(1879年)には西洋型帆船を建造し、明治15年(1882年)にも千五百石積帆船を新造した。矢継ぎ早の帆船新造は評判となり、東京商船学校の研修も受け入れたと伝えられる。明治維新による産業興隆機運の中、市郎兵衛も新規事業への参入意欲は旺盛で、様々な事業に進出、または支援を行った。

〇関西鉄道
滋賀県議会議員弘世助三郎・馬場新三・高田義助、滋賀県知事中井弘等は京・三重県・滋賀県の有力者に呼び掛け、京より名古屋を直接結ぶ鉄道敷設を計画し、阿部市郎兵衛を始め、三重県桑名船馬町(現桑名市)の諸戸清六、京都市上京区春帯町の濱岡光哲、東京市華族井伊直憲等11名が発起人となり、明治20年(1887年)3月30日関西鉄道株式会社の設立を申請した。明治21年(1888年)3月1日、関西鉄道会社設立(資本金300万円)に対し免許が交付され、翌年滋賀県内の草津・三雲間が開通し、順次営業区間は広がっていった。

〇阿部ペイント製造所
明治21年(1888年)阿部ペイント製造所を大阪に設立し社長に就任した(昭和4年(1929年)鉛粉塗料に買収され現在大日本塗料)。

〇金巾製織
明治21年(1888年)8月滋賀県知事中井弘の勧奨に応じて、阿部周吉・小泉新助・山中利兵衛・伊藤忠兵衛・中村治兵衛・西川貞二郎等滋賀県有力者(近江商人)と共に発起人となり金巾製織株式会社を設立(本社、大阪四貫島)。明治23年(1890年)1月初代社長となり、他に役員として阿部周吉・3代目阿部市太郎・小泉新助・中村治兵衛・高田義甫・田村正寛、監査役として西川貞二郎が就任した(明治39年(1906年)大阪紡績(明治15年(1882年)設立し市郎兵衛は発起人)と合併、大正3年(1914年)三重紡績と合併し、後の東洋紡になる)。

〇阿部製紙所
明治24年(1891年)洋紙需要の急増に国産で対応すべく阿部製紙所を大阪西野田新田に設立し、社長に就任。製紙工場は火災にあうなどしたが、明治31年(1898年)新工場を建設、明治34年(1901年)に個人経営から阿部製紙合資会社に改組した(日本製紙(株)を経て富士製紙と合併し、現在王子製紙)。

〇近江銀行
明治27年(1894年)近江銀行創設に加わり、監査役に就任した。

〇近江鉄道
滋賀県湖東の内陸部(中山道沿い)は官設鉄道のルートから外れ、同じ湖東の琵琶湖側(能登川、八幡側)に官設鉄道が敷設され、湖東平野の内陸部を縦断し東海道線彦根駅と関西鉄道深川駅(現甲南駅)を結ぶ鉄道計画が持ち上がった。明治26年(1893年)11月大東義徹(司法大臣)・林好本(彦根市長)・西村捨三等の旧彦根藩士族と中井源三郎・下郷傳平等有力近江商人を中心に44人が発起人となり明治29年(1896年)資本金100万円で近江鉄道株式会社が設立した。設立当初発起人等が役員となったが、資本金100万円では計画の半分も鉄道敷設できず、設立当初より資金繰りが厳しく、明治31年(1898年)役員全員が辞任し、新たに市郎兵衛が社長に就任し、阿部市三郎等が役員となった。明治34年(1901年)3月優先株式2万株(100万円)の発行を決定し、そ大半を丁吟(3代小林吟右衛門)と阿部一族(阿部市郎兵衛家・阿部市三郎家等)が引き受けた(大正13年(1914年)までに彦根-貴生川・多賀線が開通した後宇治川電気(関西電力の前身の一つ)の系列に入り、西武鉄道グループの傘下となる)。

〇その他
・大阪の繰綿問屋の共同出資により明治20年(1887年)設立した有限会社内外綿(後にシキボウ傘下)
・明治28年(1895年)1月設立真宗信徒生命保険(現東京生命)・創業大日本製糖株式会社(現大日本明治製糖)
・明治29年(1896年)開業京都企業銀行(大正元年(1912年)9月破産申請)・愛知県の明治銀行(昭和13年(1938年)8月業務廃止)
・明治31年(1898年)開業七尾鉄道株式会社の他に浪花紡績・京都絹糸紡績・京都硫曹(現日産化学)等の設立発起人、役員になった。
・渋沢栄一が創立委員長を務めた京北鉄道(1894〜1902)では由利公正や大和田荘七、岡部広、岩下清周らとともに役員に名を連ねた。

市郎兵衛は、これら新規事業創設に当たり、阿部一族として活動した。金巾製織では弟である3代目阿部市太郎が市郎兵衛の後社長になり、阿部利兵衛家3代周吉や市太郎の養子房次郎(後に東洋紡績社長)も役員として活躍した。近江鉄道では市郎兵衛の同じく弟である2代目阿部市三郎が、市郎兵衛の後に社長となった。また、従兄弟である阿部市次郎家の2代目阿部彦太郎は、市郎兵衛が展開した回船事業の後を受け大阪商船等の役員となり、内外綿の初代社長となった。

晩年は弟である2代目市三郎の長男を養子とし、市郎兵衛家8代目として家督を譲ったが、養父に先立ち明治35年(1902年)死去した。このため7代目市郎兵衛が亡くなるまでの間家政を見、明治37年(1904年)死去した。
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