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ずん子

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上平沢と下平沢に分かれてしまった。なお下平沢は行方不明です。
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🌴たかし⛺

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とりとめのない話し(その53)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その13)

江戸時代の幕末に名を馳せた「小野組」という高島大溝系近江商人がいた。
盛岡に移った高島大溝系近江商人の村井新七に世話になった小野権兵衛は、村井権兵衛と名を改め、盛岡で「志和近江屋」で酒造を開業し、甥の三兄弟も大溝から呼び寄せた。のちに小野組の祖と言われた善助は「井筒屋」を開業し、京都に出店。唯貞は村井権兵衛を継ぎ、京都で「鍵屋」を出店した。清助は兄の盛岡の「井筒屋」を引き継いだ。 七代目善助の時代(幕末から明治維新)に「三井組」、「島田組」に並ぶ豪商に成長したが、政府の金融政策の急変に対応できず、明治前期に破綻した。

●糸割符商人
幕府は1604年(慶長9年)、御用商人茶屋四郎次郎を主導者として京都・堺・長崎の特定商人に糸割符仲間をつくらせ、その糸割符仲間に輸入生糸の価格決定と一括購入を許し、それを個々の商人に分配させた。当初3か所であったが、後に1631年(寛永8年)に江戸・大坂を加え5か所となった。

●小野組
江戸時代の豪商で、小野組の名は明治に入ってからの通称で、初代小野善助に始まり、「井筒屋」を名乗っていた。糸割符商人。数多くあった分家との区別を図るために、その名前から特に「善印」とも称す。幕末・維新にかけて明治新政府に御為替方と称されるほど成長したが、政府の金融政策の急変に対応できず、明治前期に破綻した。
小野家は、初代新四郎則秀が江州高島郡大溝(滋賀県高島市)で、陸羽の物産と上方の物産を交易していたとされる。
1662-63年ころ次男の主元が盛岡に下り、近江屋を開業し、村井権兵衛を名乗った。盛岡は、1615年頃に盛岡城が完成し城下町が建設されると他領の商人が続々と入ってきて領内の商業活動を牛耳っていた。権兵衛も同郷の近江商人を頼りに盛岡に入り、志和村で酒造業を始めて成功し、砂金を買い集めて京都に送っていた。
権兵衛は甥である善助、唯貞、清助の三兄弟も盛岡に呼び寄せた。善助(包教)は1689年に盛岡紺屋町で井筒屋と号して開業、1708年に京都に進出して大店となり、のちに江戸にも進出した。その弟唯貞は叔父の村井権兵衛家を継いで襲名し、1690年に京都に進出して鍵屋と号し、苗字を小野に戻して小野権右衛門と名乗った。その弟清助は権兵衛の婿養子となり、兄善助の紺屋町の店を引き継いだ。それぞれ「善印」「郡印」「紺印」と通称され、小野一族が形成された。小野一族は、上方から木綿・古手などの雑貨を運び、奥州から砂鉄・紅花・紫根を上方に送り、物産交易を営み財を成していった。
京都の井筒屋善助・鍵屋権右衛門らは南部藩からの仕入れ店であったが、1776年幕府の「金銀御為替御用達」となり十人組に加入し、御為替名目金を自己の営業資金に流用し、京都では和糸・生絹・紅花問屋を、江戸では下り油・下り古手・繰綿問屋、盛岡では木綿商・古手商・酒造業を営んでいた。江戸の小野組は、日本橋本石町(現日本銀行敷地内)に為替会社を置き、日本橋田所町に油店を持っていた。1866年に明治政府は財源確保のために「金穀出納所」を設けた際に、三井三郎助・島田八郎左衛門とともに小野善助を「金穀出納御用達」とし翌慶応4年1月には「出納所御為替御用達」に任じた。三井組、島田組と並び豪商として名を馳せたが、明治新政府による官金預り金の担保に関する急激な規制強化に対応できず、1874年11月に破綻した。

●小野新四郎(則秀) - 初代。近江の大溝で開業
●小野善五郎(直嘉) - 則秀の長男。大溝の井筒屋2代目。

●村井権兵衛(主元) - 則秀の次男。盛岡で志和近江屋を開業。
南部氏が盛岡に城下町を建設すると他領の商人が続々と入ってきて領内の商業活動を牛耳るようになるがその中でも目ざましい活躍をしたのが近江(滋賀県)出身の商人であり、その代表者が志和の初代「村井権兵衛主元」とその一族であった。初代権兵衛主元は近江国高島郡大溝の出身(小野新四郎則秀の二男)で本姓は小野であったが、盛岡に下った際、知人の村井新七の家にわらじを脱ぎ志和に独立するまで世話になったので姓を「村井」と変え、屋号を「志和近江屋」といった。志和の上平沢へ移った年代は明らかでないが、この地が八戸藩に編入された寛文の頃と推定される。権兵衛はここに新居を設けると良質の水と志和米をもって灘仕込みの清酒(すみ酒)を造って売出した。当時この地方はもっぱら濁酒であったからこれは酒造業に対する一つの革命であり、後に優秀な志和杜氏を生む原因となった。この外、滝名川の砂金採取、味噌醤油の製造販売、質屋の営業、塩の一手販売、京都の質流れの古着販売など広範囲の仕事に手をつけて僅々十数年の間に莫大な財産をつくりあげ、一代のうちに盛岡には井筒屋善助、井筒屋清助、芳野屋宇兵衛、日詰には井筒屋権右ェ門、桝屋佐兵衛などを分家させた村井家は大正13年に至って没落したが、それまでは代々酒屋を経営し、明治30年頃には最高三千石にまで達した。その銘柄は福鯛と称して有名であった。 村井家の人々は商人として活躍しただけでなく、第8代目の義堂などは志和代官所の助役に起用され、また文人としても地方に名をなす程であった。

●小野組初代「小野善助包教」
村井善助(包教、1739年没) - 直嘉の長男。盛岡・京都で井筒屋(善印)開業。小野組の祖。江戸時代前期の近江商人の豪商。近江国高島郡大溝(滋賀県高島市)出身。名は包教。屋号は井筒屋善助。近江商人。小野家は万治年間(1658~1661年)頃、近江国高島大溝より盛岡に出て、奥羽物産と上方物産の交易で財をなした。その一族の一人である初代小野善助(包教)は、享保8年(1723年)京都に町家を求めて移住し、和糸・生絹・紅花・古手問屋ならびに両替業を開業、京都小野本家を開いた。初代小野善助包教は、盛岡の叔父、高島大溝出身の豪商「初代村井権兵衛主元(旧姓小野主元)」に呼ばれ、天和2年(1682年)京都から盛岡に進出し、「井筒屋善助店」を開き、陸羽(東北)地方との交易で成功した。以降、小野一族は、木綿、古手などの雑品 を南部にもたらし、砂金、紅花、生糸などを持ち下り、のち、江戸、次第に各地に支店にも開店。本為替仲間に加入して幕府の金銀御用達ともなり栄えた。初代以降、「善助」が小野家の京都井筒屋善助本家の通り名となり明治期の8代まで続いた。

●小野権右衛門
(唯貞、1662-1732) - 直嘉の二男。盛岡近江屋2代目。京都で鍵屋、郡山城 (陸奥国紫波郡)下の日詰で井筒屋(郡印)開業。2代目村井権兵衛唯貞。71歳没。幼名伊兵衛。武士から商人に転身した村井新七、そしてその新七を頼って東北に行った小野組の祖となった小野権兵衛主元(初代村井権兵衛主元)の養子・2代目村井権兵衛唯貞。江戸時代前期-中期の豪商。滋賀県高島市出身の近江商人。「小野権右衛門唯貞」は叔父の村井権兵衛主元の養子となり、2代目「村井権兵衛唯貞」となり、志和近江屋2代目、京都鍵屋・郡山井筒屋の祖となった。村井家の中興の祖となった。元禄2年陸奥上平沢村(岩手県紫波町)にいた叔父「村井権兵衛主元」(志和近江屋)の養子となって伊兵衛(のち村井権兵衛唯貞)を称し、3年京都に「鍵屋」を開店、本姓にもどって「小野権右衛門唯貞」を名のる。 奥州の砂金と京坂の木綿・古着・雑貨類との交易で財をなし、江戸、大坂に進出。郡山城下(紫波町)に井筒屋をひらき、盛岡藩御用達を勤めた。

●小野善五郎 - 直嘉の三男。大溝の井筒屋3代目。
●小野清助(嘉品) - 直嘉の四男。盛岡の井筒屋(紺印)開業。
●小野善助(政房) - 3代目善助
●小野善助(包該) - 4代目善助。政房の長男
●小野助次郎 - 政房の二男
●小野又次郎 - 政房の三男

●小野善助(包賢、1831-1887) - 7代目善助。第一国立銀行頭取。破綻時の小野善助家当主。
明治維新期で、糸・絹・古手・油などについての商業活動を行うとともに、新政府の御為替方として、巨額の御用金を拠出し、為替方として公金を取り扱い、全国的規模で金融活動を繰り広げ、「小野組」と呼ばれた。包賢は初代小野善助包教から数えて120年余後の7代小野善助店当主であった。7代目善助包賢の時、三井、嶋田とならんで出納所御為替御用達となり、明治維新には莫大な御用金などで奉公の誠を尽くして新政府に加担した。生糸貿易に乗り出したほか、東京築地・前橋・福島・諏訪などの製糸場、釜石・院内・阿仁などの鉱山,製紙経営などに事業を拡大、三井と覇を競った。明治5年(1872年)三井組と小野組の出資のもと、渋沢栄一らが三井小野組合銀行を創設し、明治6年(1873年)には、後身の銀行法による初の銀行となった第一国立銀行を創設に至ったが、明治7年突如、官金回収の命を受けたことを契機政略などに抗しきれず破産に追い込まれた。

●小野善右衛門(1826-1900) - 京都下鴨村の農家の子・田和長之助として生まれ、10歳より京都井筒屋で長年奉公し、その手腕が評価されて、34歳のとき小野家から西村勘六と名乗ることを許される。その後、小野家大番頭が代々襲名していた善右衛門を勝手に名乗り、1872年に戸籍法ができるや西村善右衛門を本名として登録、その後娘夫婦に西村家を継がせ、自らは小野善右衛門と呼称したことから、一族内に物議が起こり組織に乱れが生じた。政商として小野組を興隆に導いた一方、その専横ぶりから小野組の弱体化を招き、破綻の一因を作ったとも言われる。甥の小野政吉(小野敏郎の父)を養子とした。

●小野組の破綻
1871年(明治4年)の廃藩置県以後、三井・島田・小野三家の為替方は府県方と称し、三府七二県に支店。出張所を置き公金の収支に従事していた。小野組は為替方であることによって多額の金を無金利で運用して、生糸貿易を手がけ、また1871年には築地生糸所を創立、その後も前橋製糸場をはじめ、長野県各地、福島県二本松などに製糸場を経営し、また、釜石、院内、阿仁など東北各地の鉱山経営に着手した。生糸取引は古河市兵衛が、為替店は小野善衛門(西村勘八)が統括していたが、1872年(明治5年)、渋沢栄一の仲介によって、三井組と共同で「三井小野組合銀行」(第一国立銀行の前身、現在のみずほ銀行)を設立するが、三井組は独自に金融機関(三井銀行の前身、現在の三井住友銀行ほか)を設立、三井組は規模を拡大した。小野組は、1873年(明治6年)には、全国に支店四十余、大阪府の外二十八県と為替契約を結び、三井組を凌駕していたが、1874年(明治7年)になって、政府の為替方に対する方針は担保額の引き上げなどの一方的な金融政策の急変によって、小野組は御用御免を願い出て、資金全部を大蔵省に提出して精算をし、1877年6月処分を完了した。岩手県で創県以来、政府の公認を得て、年貢金及び官金の為替方を東京・田所町(日本橋堀留町のあたり)の小野善助の出店である盛岡呉服町の小野善十郎に取扱わしていた。1874年(明治7年)11月20日小野善助は県御用達免除を出願、同27日には盛岡の小野善十郎も同様出願して、県為替方を閉店した。11月22日大蔵省は小野組の官金委託を第一国立銀行に切換え、同組の財産を没収した。1884年9月、小野組の権利義務を移して小野商会を創立し、1897年頃まで営業を続けていたが、その後、解散した。
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