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【今日から変わる】神がモーセに教えた「今、ここ」を生きる極意 〜出エジプト記3章14節の深い意味〜

僕が見つけた、「今、ここ」を生きる言葉

最近、僕はよく考えます。
明日の仕事のことが気になって、目の前のコーヒーの味がわからない。
過去の失敗が頭をよぎって、今やるべきことに集中できない。
そんな「今、ここ」から心が離れてしまう瞬間が、たくさんあるなと。

そんなある日、モーセ五書を読み返していて、神様がモーセに語られた一節で、はっとさせられたんです。
それが、出エジプト記3章14節。
神が燃える柴の中からモーセに現れ、イスラエルの民をエジプトから導き出す使命を告げる、あの有名な場面です。

モーセは神に尋ねます。
「彼らが『あなたを遣わしたのはどんなお方ですか』と私に尋ねるとき、私は何と答えたらよいでしょうか」
すると神はこう答えられました。
「わたしは『わたしはある』という者である」。

僕はずっと、この「わたしはある」という言葉を、神の自己紹介、あるいは神秘的な宣言としてしか捉えられていませんでした。
でも、ヘブライ語の原文を見て、その意味の深さに気づかされたんです。

原文は 「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」(אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה)。
これを直訳すると、「わたしは、わたしがそうありつづけるものでありつづける」というような、とても動的で「在り続ける」という現在進行形の響きがあります。
神の名前の核心は、「在る」という状態そのもの。
しかも、それは過去や未来に限定されない、まさに「今、ここ」に在り続ける「在り方」を表しているんだ、と学びました。

神はモーセに、「わたしは『今、ここであなたと共に在る者』だ」と語りかけていた。
壮大な歴史の計画を前に、不安でたまらなかったモーセに、神が伝えたかったのは、「未来の結果」ではなく、「今、この瞬間に、わたしが共に在る」という確かな現実だったんじゃないか。
僕はそう思うようになりました。

僕たちは、モーセのように大きな使命を前にしているわけではないかもしれません。
でも、目の前の小さな課題、人間関係、自分の内なる不安に直面した時、「今、ここ」から心が離れ、足がすくむことはあります。
そんな時、この「エヘイェ」という言葉を思い出したい。
神は、「今、ここに在る」ことをご自身の名前の本質にまで高められた。
ならば僕も、過去の後悔や未来の不安に心を奪われるのではなく、「今、ここ」に自分が在ること。
そして、その「今、ここ」に、支えや意味を見出してくださる方が共に在ることを、信じて一歩を踏み出してみよう。

そう思わせてくれる一節でした。


聖書の言葉は、時代を超えて、僕たちの「今」に直接語りかけてくる力がある。
モーセ五書には、こんな気づきの瞬間が、まだまだたくさん眠っているように感じます。
僕自身も、この学びを続けていきたい。

もし、このモーセと神の出会いの物語を、もっと鮮やかに、臨場感を持って感じてみたいと思われた方がいらっしゃったら。
ぜひAmazonで「モーセ五書 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。
無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。
マンガという形だからこそ伝わる、神とモーセの「今、ここ」での対話を、感じていただけたら嬉しいです。

#今ここを生きる
#モーセ五書マンガ
#聖書の気づき
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Stupid

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お写真は、TAMLA1975年発表Smokey Robinson
「A Quiet Storm」よりタイトル曲
TAMLAって何?田村?ホームレス中学生?
Berry Gordyが、MOTOWN を法人登記するまで使用した名前。現在も子会社として存続している。ヘブライ語の女性を指す言語と言われる。MOTOWN は、現在MCA傘下
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Quiet Storm

スモーキー・ロビンソン

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阿僧祇【アソウギ】🐑

阿僧祇【アソウギ】🐑

皆様、本日もお疲れ様でした✨
年末まであとちょっとですね✨٩( ᐛ )و
2025年は聖年とされていました。
旧約聖書の『ヨベルの年』50年毎の恩赦に由来し、近年では25年に一度の聖年に。土地の安息や負債免除、奴隷の解放が定期的にめぐってくるというヘブライ人の考え方を反映している。







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砂の惑星 ( + 初音ミク )

米津玄師 & 初音ミク

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「これでいいのかな」が心を占めるときに、思い出したい一節。創世記の一コマから学んだ、不安に押しつぶされない生き方

こんにちは、石川尚寛です。

昨日、ふと立ち止まってしまいました。目の前にはいくつも締め切りが迫っているのに、手が全く動かない。頭の中をぐるぐると、「間に合わないかもしれない」「これで本当にいいのだろうか」という思いが駆け巡るばかり。そんな自分がいて、ただ窓の外をぼんやり眺めていました。

ふと、そんな「行き詰まった自分」と重なる聖書の一場面を思い出したんです。それは『創世記』の、あの有名な物語の、少し意外な「その後」の部分でした。

僕が向き合ったのは、創世記32章の場面です。兄エサウと、長い年月を経て再会する前夜のヤコブの物語です。彼はかつて兄を騙し、祝福を奪いました。明日はその兄との対面。当然、報復されるかもしれない恐怖に満ちています。

ここで僕が注目したのは、32章22節から24節の一連の流れです。特に24節にはこうあります。「ヤコブはひとりあとに残った。すると、ひとりの人が、夜明けまで彼と格闘した。」(新改訳2017)この「格闘する」という行為、ヘブライ語の原文では「אָבַק (avaq)」という言葉が使われています。

この「אָבַק (avaq)」には、「もみ合う」「取っ組み合う」という物理的な格闘の意味と同時に、とても興味深いことに、「塵(ちり)を巻き上げる」という語源的な意味があるそうです。激しい取っ組み合いで砂塵が舞い上がる様子が、言葉そのものに込められているんですね。

これを読んだ時、僕はハッとしました。ヤコブは、不安や恐怖で頭がいっぱいになり、夜も眠れず、一人もがいていました。彼の心の中は、あの「אָבַק (avaq)」が象徴するように、「これでいいのか」「どうなるのか」という思いの「砂塵」で、何も見えないほどかき乱されていたのではないでしょうか。

でも、彼はその「砂塵」の中で、ただじっと不安に耐えていただけではありませんでした。彼はその混沌の中で、自ら「取っ組み合い」を選んだ。それは神との取っ組み合いでした。彼は自分の恐れや不安、過去の後悔をすべて抱え込み、それでも「祝福をください」と、夜明けまで神にしがみついたのです。

僕が窓辺で立ちすくんでいた時、心の中で巻き上がっていたのは、まさにその「不安の砂塵」だったな、と気づかされました。そして、ヤコブが教えてくれたのは、その砂塵の中でただうずくまるのではなく、その混沌自体を、神との対話のきっかけに変えていく可能性でした。

不安は、心を曇らせる塵になることもあれば、それ自体が「取っ組み合い」の始まり、自分の中の本心と、そして大きな存在と、真正面から向き合うための入り口になる。そう思うと、あの行き詰まった感覚が、少しだけ違って見えてきました。

今、自分が抱えているこの「もやもや」と、どう向き合おうか。逃げずに、しかし押しつぶされずに、そこにどんな「取っ組み合い」の可能性が隠れているだろう。僕はまだ答えを持っていません。でも、少なくとも、あの時のヤコブのように、夜明けまで「取っ組み合う」覚悟だけは、持ち続けたいと思っています。

聖書の言葉は、時にこんな風に、数千年の時を超えて、現代の僕らの心のうつろいを深く照らし出してくれます。もしこの創世記の物語、とりわけ人間くさいヤコブの歩みに興味を持たれた方は、ぜひAmazonで「創世記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。僕自身、描きながら多くの気づきをいただいている物語です。

#創世記 #聖書マンガ #不安との向き合い方 #モーセ五書
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隣人を愛するって、結局どういうこと?

こんにちは、石川尚寛です。

先日、コンビニで小さなできごとがありました。僕の前に並んでいたお年寄りの方が、小銭を探しながらもなかなか見つからず、後ろに行列ができ始めたんです。その時、後ろにいたサラリーマンの方が、さりげなく「大丈夫ですよ、ゆっくりで」と声をかけ、自分も一緒に待っていました。ふと、その場の空気が優しいものに変わったのを感じたんです。

帰り道、その光景が頭に残っていました。ほんの少しの思いやりが、その場をどれほど軽やかにするのだろう、と。そして、ふと聖書の一節が心に浮かんだんです。レビ記の、あの言葉です。

僕が今、マンガで描きながら学んでいるモーセ五書のうち、レビ記19章18節にはこんな教えがあります。

「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛さなければならない。わたしは主である。」

ここで「愛する」と訳されているヘブライ語は、「アハヴ」(אָהַב)です。この言葉、単なる感情としての「好き」というより、もっと能動的で、意志的な「愛し行動する」という意味合いが強いんです。選択であり、実践なのです。

そして「隣人」と訳された「レア」(רֵעַ)という言葉。これは文字通り「隣に住む人」だけでなく、出会う人、関わる人、つまり自分の周りにいるすべての人を指します。コンビニで出会った、あの見知らぬお年寄りも、サラリーマンの方も、まさに「レア」だったわけです。

この教えの前に、「復讐するな」「恨みを抱くな」とあるのが、とても興深いなと思いました。神が勧めている利他の実践は、ただ「親切にしましょう」という精神論ではなく、まず自分の中にある「復讐心」や「恨み」といった、他者を遠ざけ、傷つける心に気づき、そこから解放されることから始まるのではないか、と。

「あなた自身のように」愛しなさい。
これは、自分を大切にできるからこそ、他者にも同じように心を向けられる、という逆説的な知恵のように感じます。自分を責め、貶めながらでは、本当の意味で他者を慈しむことは難しい。自分への誠実さが、他者への誠実さの土台になる。

あのコンビニで、サラリーマンの方が取った行動は、特別なことではなかったかもしれません。でも、その「さりげなさ」こそが、レビ記の教えの本質に近い気がするんです。大げさな自己犠牲ではなく、日常の一瞬一瞬で、目の前の「隣人」に対して、ほんの少し心を開き、手を差し伸べる選択。神は、そんな実践の積み重ねの中に、共に生きる社会の基盤があることを、教えてくれているように思います。

僕はまだ、レビ記を学びながら、この「アハヴ」という能動的な愛を、自分の生活の中でどれだけ実践できているのか、問い直す日々です。あなたの「隣人」は、今日、どこにいますか?

気になった方は、ぜひAmazonで「レビ記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

#モーセ五書マンガ
#レビ記の教え
#隣人を愛する
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「神様を恐れる」って、怖いことだと思っていました。

こんにちは、石川尚寛です。
皆さんは、誰かにじっと見られていると緊張してしまうことってありませんか。
僕は以前、車の運転をしている時にパトカーとすれ違うと、何も悪いことはしていないのに、なぜかドキッとしてハンドルを握る手に力が入ってしまうことがありました。
「怒られるんじゃないか」「罰を受けるんじゃないか」

そんなふうに、相手の顔色をうかがってビクビクしてしまうこと。僕は長い間、聖書に書かれている「神を恐れる」という言葉も、これと同じような意味だと思っていたんです。
神様に見張られていて、少しでも間違ったら叱られる。だから震えながら従う。そんなイメージを持っていました。

でも、モーセ五書、特に「創世記」を漫画にするためにじっくりと読み込んでいくうちに、僕の中でのそのイメージが少しずつ変わっていったんです。
今日は、僕が創世記の物語を通して出会った、少し新しい「恐れ」の感覚について、皆さんと分かち合えたら嬉しいなと思います。

僕がハッとさせられたのは、創世記22章12節の言葉です。
ここは、アブラハムという人が、自分の最愛の一人息子イサクを神様に捧げようとする、とても緊迫した場面です。その直前で神様が彼を止め、こう言われます。
「あなたが神を恐れる者であることを、私は今、知った」
この「恐れる」という言葉。

ヘブライ語の原文では「ヤレー(yare)」という言葉が使われています。
確かにこれには「怖がる」という意味もあるのですが、深く調べていくと、単なる恐怖心とは少し違うニュアンスが見えてきました。
それは「畏敬(いけい)」、つまり、あまりにも偉大な存在を前にした時に、自然と頭が下がったり、息をのんだりするような感覚です。

面白いことに、この場面でアブラハムは、この場所を「アドナイ・イルエ(主は備えてくださる)」と名付けます。この「イルエ」という言葉は「見る」という意味を持っています。
実はヘブライ語では、「恐れる(yare)」と「見る(ra’ah)」という言葉は、音がとても似ていて、深いところでつながっているそうなんです。
僕はここで、ふと気づかされました。

アブラハムにとって「神を恐れる」とは、お化けや猛獣に怯えるようなことではなかったんじゃないか。
そうではなくて、「神様が今、私をしっかりと見ておられる」ということを、全身で感じることだったのではないか、と。
僕たちは日常生活の中で、誰も見ていないところでは、つい気が緩んだり、時には自分勝手な振る舞いをしてしまいそうになります。逆に、人目があるところでは、よく見られようと背伸びをしてしまいます。

でも、アブラハムの姿を見ていると、彼は誰がどう思おうと関係なく、ただ神様という「たった一人の方」の視線を意識して生きていたように思うんです。
それは、監視カメラで見張られているような冷たい視線ではありません。
自分の最も大切なものを手放してでも信頼できるような、そんな圧倒的な愛を持った方が、自分のすべてを「見て」いてくださる。
その視線を常に感じて生きること。

神様の存在を、目の前の現実よりも「リアル」に感じること。
それが、聖書が教えてくれる「神を恐れる」ということの正体なのかもしれない、と僕は思うようになりました。
そう考えると、なんだか肩の力が抜けていくような気がします。
ビクビクして縮こまるのではなく、むしろ「神様が見ていてくださるから大丈夫だ」と、背筋がスッと伸びるような感覚です。

誰にも理解されないような苦しい時も、孤独を感じる時も、神様だけは見ていてくださる。
その安心感の中で、嘘をつかず、誠実に生きていこうとすること。それが、僕たちが今日からできる「神を恐れる」方法なのかもしれません。
僕自身、まだまだ人の目ばかり気にしてしまう弱いところがあります。
だからこそ、アブラハムのように、神様の愛ある眼差しだけを意識して歩んでいきたい。そう願いながら、今日も聖書の言葉に向き合っています。

皆さんは、今日、どんな時に神様の視線を感じるでしょうか。
もし、この創世記の物語をもっと深く味わってみたいなと思われた方は、僕が描いた漫画も読んでみてください。
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小さな不安から見えた「信じる」ということ

こんにちは、石川尚寛です。
最近、夜にふと目が覚めてしまうことがありました。理由は特にないのですが、静かな部屋の中で「この先どうなるんだろう」と漠然とした不安が浮かんでしまうのです。眠れない時間は長くはないのですが、その瞬間だけは心が揺れてしまいます。そんな時に思い出したのが、創世記のある場面でした。

創世記15章6節。「アブラハムは主を信じた。すると、それが彼の義と認められた。」
この短い一節に、僕は立ち止まらされました。ヘブライ語原文では「וְהֶאֱמִן בַּיהוָה」(vehe’emin b’Adonai)と書かれています。「信じた」という動詞は「アーマン(אָמַן)」から来ていて、もともとは「支える」「揺るがない」という意味を持っています。つまり、アブラハムが神を信じたというのは、ただ心の中で「そうだ」と思ったのではなく、存在そのものを委ねて支えられることを選んだ、というニュアンスがあるのです。

僕はこの言葉に触れて、自分の不安が消えるわけではないけれど、「支えられている」という感覚を思い出しました。信じるとは、未来を完全に理解することではなく、揺れる心をそのまま差し出して、支えに身を置くことなのかもしれません。アブラハムもまた、約束がすぐに見えたわけではなく、ただ「信じる」という行為を選んだ。その姿に、僕自身の小さな夜の不安が重なって見えました。

この一節を読むたびに、僕は「信じる」ということを新しく問い直しています。信じるとは、方法ではなく、日々の中で「支えられている」と感じる瞬間を受け取ることなのだと。まだ答えは出ていませんが、その問いを持ち続けること自体が、僕にとっての学びになっています。

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