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takashi.A

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おはようGRAVITYおはようGRAVITY
今日はYoung Guitarで多くのミュージシャンPhotoを
撮影したウィリアム・ヘイムズさんの写真展に行くんだ💨
お目当ては…Young Guitarの今月号の表紙となった
John SykesのPhoto❣️

#今日は休日
#写真展
#ギター
#エレキギター
#ギタリスト
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Valley of the Kings

ブルー・マーダー

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マサヤス   龍之介

マサヤス 龍之介

Uber Jazz ♯ 43

 ☆『スイングジャズの花形ボーカリスト.18』
 
フランクシナトラがハリージェームス楽団を離れてその後任として就いたヴォーカリストはディック・ヘイムズだった。一説によるとシナトラを引き抜いたトミードーシーからの紹介でシナトラの後任としてハリーが迎入れたという記事も読んだが、この時代を知る音楽評論家の岩浪洋三氏の書く顛末の方がより具体的で説得力があるので、そちらの説を紹介する。シナトラ退団直後の或る日、ニューヨーク5番街でリハーサルをしていたハリー、楽譜出版社のラリー・シェインが若いソングライターを連れて楽譜の売込みに来たがハリーは、つまらない…と楽譜をその場で返した。しかし、そこでその曲を唄ったそのソングライターはハリーが声を気に入り話を聞くと、彼は有名なヴォーカルコーチのマーガライト・ヘイムズ女史の息子のディックだと判った。シナトラよりも若干低いバリトンだが高音域も易々と出せたのでハリーは採用することにした。タイプとしてはクロスビーの流れを汲むクルーナーだが男性らしい太いバリトンが魅力だった。1940年2月以降に録音を開始してヒットこそ逃したが当時の新曲♫ハウ・ハイ・ザ・ムーン や'38年にホーギー・カーマイクルの書いた新曲でこちらも未だに歌い継がれている♫ニアネス・オブ・ユー などをリリースしてバンド内の評判は軒並み良かった。因みに後者の楽曲は同年グレンミラーが吹き込みレイ・エバリーが唄い、其方らの方がヒットした。こうしてハリーの専属になったディックは約2年間在籍した。ディックヘイムズが加入した当初、つまり1940年のハリージェームス楽団はコロムビアを一時的に離れインディペンデント系のレーベル、ヴァーシティに移籍していた。これはその前年の1939年にビクターのプロデューサーだったエリ・オバスタインがビクターを退社してそのノウハウを持って廉価レーベルを立ち上げた。それが
VEARSITYレーベルだった。専属ミュージシャンはハリーの他にジャックTガーデンやフランキー・トラムバウアーなどもいた事がある。又、黒人の後のR &Bの先駆けとなったレス・ハイトも専属して彼の代表作♫T・ボーン・ブルース がリリースされた。結局1940年一杯ハリーはヴァーシティに専属したが満足する成果は挙げれず、1941年1月からは再びコロムビアに戻る。そしてこの第二次コロムビア期からハリーは一気にそれまでのジャズ色を払拭してストリングスを配してスイートで上品な楽曲へと路線転換してゆく。これが結果的にハリージェームスが売れるバンドへと導いていくキッカケとはなった。1941年に吹き込まれてヒットしたリムスキーコルサコフのクラシック楽曲
♫熊蜂の飛行 をハリーの巧みなtp.で推進してゆくレコードが好評だった。更に同じ日に録音された♫トランペット・ラプソディ もジャズイディオムを効かせたインストでハリーらしさを前面に押し出してよく売れた。ハリーは結局こうしたリーダー ハリージェームスの個性を全面に目立つ格好で成功したのだった。そんな折、ベニーグッドマンのバンドで人気を博した可憐なガールシンガーのヘレン・ワードがハリージェームスのバンドの1941年5月20日の録音にただ一度だけ付き合った。そしてこの日に録音された♫ユー・メイド・ミー・ラブ・ユー(あなたのとりこ) がハリージェームスの代表作となるほどのヒットを飛ばすことになる。本回はこのヘレン・ワードをフューチャーした♫ダディ をお聴き頂く。

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Daddy (05-20-41)

ハリー・ジェームス

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マサヤス   龍之介

マサヤス 龍之介

Uber Jazz ♯ 44

 ☆『スイングジャズの花形ボーカリスト.19』

 1940年7月27日、ビルボードが初めてヒットチャートをリリースした。その時の1位はトミー・ドーシー楽団の♫I'll Never Smile Again だった。
 当時専属だったパイドパイパーズのふんわりしたコーラスは聴く者を夢心地にさせてくれるムードを醸し出す。若き日のジョー・スタッフォードがメンバーに居た。そして甘い男性ボーカルは前年までハリー・ジェームズ楽団員だったフランク・シナトラである。大志を抱いてハリーに見送られて落ち着いたトミードーシー楽団で人気チャートの1位を成し遂げたのだから、ハリーもさぞ喜んだろう。ハリージェームズの頃にはまだ荒削りだった唱法もトミードーシー楽団のところでバラード唱法を会得した痕跡が確認できる。格段の進歩をレコードは今に伝えてくれる。ビルボードチャートは当時はまだ10位までのリリースしか無かったがその後急成長し、その後シングルとアルバムに分けてチャートをリリースするようになり、現在の様なベスト100位になったのはロックが台頭して来た1956年になってからだった。ライバル誌も次々発刊されて、ジャズに特化したチャート誌メトロノーム誌も創刊し市場は賑やかになってゆく。やがて『メトロノーム』はその年の人気ミュージシャンをピックアップしてレコード会社と提携してメトロノーム・オールスターズの名の下にレコードまで作ったりもした。ハリージェームズは1940年代に限って言えば、ビルボードの人気ランク5位と云うスターミュージシャンとなっていた。チャート1位にランクされた曲が3曲、TOP10ランクした楽曲が13曲にのぼる。ハリージェームズ楽団が初めてチャート1位に躍り出たのが当時の専属歌手ディック・ヘイムズがメインヴォーカルで唄った♫I Get By だった。  
 1941年4月7日にRec.同年8月8日にリリースされた。私が所有しているブライアン・ラスト編集の『jazz record』と言う最も信頼を置くディスコグラフィーにはこの曲は載っていない。ブライアンはそのレコードがジャズ的感興があるかなしか?で恣意的に掲載を決めていたようで、このレコードはジャズではないと判断したと思われる。  
 前回紹介した♫You Made Me Love You は載っているのに。共にハリージェームズの甘いtp.ソロが入っている、いや、寧ろこの♫I'll Get By でのハリーのtp.はミュートを効かせてシャープに鋭くキレがありそんなに甘さはない。そもそもこの楽曲自体が甘いのだからそれに反するような鋭さでソロを紡いでいる。ブライアンがこの曲をそのディスコグラフィーから外したのはディックの唄が必要以上に甘かったからではなかろうか。その様に推察出来る。ディック・ヘイムズに関してはロイヘミングがその著作で書いているが、1940年代を通してバラードを歌わせたら、クロスビー、シナトラ、ペリーコモよりも人気と実力を兼ね備えたシンガーとして扱っている。ただアップテンポなスウィンギーなナンバーでは上手くいかなかったと云う弱点も同時に書いている。彼はスコットランドとアイルランドの血を引くイギリス人の父親を持つ家系で、ディックが生まれた時は父は南米ブエノスアイレスの外れで牛の放牧場を経営していたが、ディックの生まれた3年後にイナゴの被害に遭い壊滅状態となり、家族ごとニューヨークへ辿り着き、今度は一足飛びにフランス・パリへ移住し約10年間をパリで過ごす。1930年代に再びニューヨークに戻り腰を落ち着ける。ディック18歳の時に初めて雇われたジョニージョンソンバンドを辞めてハリウッドを目指したが、金になる仕事には中々有り付けず、最初の結婚も破綻してしまう。1939年、作曲術を習得した彼は唄うソングライターとして盛んに売り出す。そしてハリージェームズと運命的な出会いを遂げる。全ての編曲はダンサブルでなくちゃいけないと、ハリーは常々説きディックもハリーの要求に沿うようにバラードのフレージングを身に着けていった。「ハリーは僕にどの曲も心を込めて唄うことを教えてくれた」ディックは後年のインタビューでそう語った。やがてハリージェームズ楽団を契約通り2年間履行してベニーグッドマン楽団を経由して1943年にはトミードーシー楽団の専属歌手となった。
 またもや、シナトラの後釜だった。だが時期が悪かった。その折も折、ミュージシャン組合によるレコーディングストライキが勃発してレコードのリリースが出来ない自体となったのである。
 しかし、首尾よくMGM映画『デュバリーワズ・ア・レイディ』の人気ブロードウェイミュージカルの映画化に際しトミードーシー楽団も出演する運びとなりハリウッドへ行く。そしてその年に独立を果たしたがニューヨークのナイトクラブで唄っているところに二十世紀フォックスからお声が掛かる。丁度対戦末期でハリウッドの俳優たちは粗方兵隊に取られて男優の数が激減していた折だった。ヘイムズはアルゼンチン国籍であり、米国の徴兵令にはパスしていた為ハリウッドではこの人気歌手が手薄だった主役級の穴埋めに程よかった。その後約3年間ディックは唄える俳優として活躍した。だが3年も経ってみると、大した話題作もないことに二十世紀FOXの幹部連はディックにはスターの素質はないと諦めてしまう。その後もユニヴァーサルなどの映画会社へ移籍して凌いでいたが、移籍する映画会社は移籍するたびに弱小会社を余儀なくされて行き、結局はまたナイトクラブでの活動に戻って行くしかなかった。時々、テレビショウではレギュラー番組を持ったりして唄ったりしていたが、その頃荒れた私生活をマスコミに取り沙汰されて下降していた人気に、更に追い討ちを掛けたりしていた。2度目の結婚で彼は二児の父親となっていたが、その離婚により払うべき養育費を支払わず係争していた。又、その後も女優との結婚と離婚を繰り返して、人々の反感を買ったりしていた。私生活では酒浸りの日々で声も衰えて仕事も減る一方となる。1965年、彼はダブリンにいえを買って7番目の妻、イギリスのモデル ウェンディ・ジョーンズと結婚して更に2人の子供を儲け、1970年代には再起を賭けてアルバムを出したりして、未だ健在であることを世間に示したが、セールスは奮わなかった。1980年3月、肺がんと肝臓病によりロス・アンジェルスでその生涯を終えた。享年61歳であった。
 
 
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I'll Get By

ハリー・ジェームス & Dick Haymes

スイングの星スイングの星
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