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シン
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ゆえに、個々のパースペクティヴを超えた最大公約数的利益が何かを示さねばならない。その国民国家に住む構成員にとって、その属性を超えて、利益として認められるもの。
それこそが人権の保障であろう。人権という基盤を損なった状態で生み出される利益は市民社会の秩序や安定性、公共の福祉を損なうものだ。
すべての社会的行為の基盤として、その国家の構成員に人権をあまねく保障することこそが、必要最低限度の国益を叶えるものであり、さらなる利益追求、社会の安定化のために不可欠なのだ[穏やか]

金属バット
M.シュタウディヴィグル(2015 “"Philosophie der Gewalt”)は暴力を現象学的に考察する際、本質的意味に還元することをせずに、個別の暴力的事実を間主観的なパースペクティヴのもとに考察しました。その際、暴力は被害者と加害者双方に関係するものとしています。その際、両者には情動性がともに関与しているとしました———加害者であれば感受性の欠如、被害者であれば苦痛を感じるといったようにです。(1)
しかし暴力は加害者と被害者という一対なのでしょうか?どこまでも広がっていく可能性があるのではないでしょうか。その広がりを間主観的という形である種、区切ってはいないでしょうか。ここで僕は「悪の現象学」みたいなことを展開するつもりは毛頭ありません。一つのミッシングリンクともいえるような思想を提示したいだけです。具体的には、J.ナベールの『悪についての試論』です。
ナベールは悪に関して、悪は実在の苦しみであることを基本としつつ少し風変わりな考えを提示します。(2)それは「可能事」という意味での悪です。どういう意味かというと、ある悪い行為を現実に行うことに限らず、ある悪い行為が少しでも頭に浮かべばそれだけでその人は悪であるという主張です。あまりに極端ですが、これはナベールの悪の別な側面とあわさることで一種独特の主張となります。それは与える悪と被る悪です。悪は与える側と、悪を被る側に分かれるとしたうえで与える側が被る側を逆に被る側が与える側を見えないままに、与え被るものであるとナベールは考えているわけです。これは当事者たちが、想定しえないことにまで悪が波及しうることを示しています。「可能事」というあまりに広い定義はこの無限に広がる悪をの性質の一種の極限的表現であると言えるでしょう。
この意味で悪を考えたうえで先ほどの暴力に話を戻します。悪の具体的な形態として暴力を考えてみることは可能かと思われます。そしてこの悪が無限に波及するならば暴力もまた無限に波及するのではないでしょうか。私たちはときどき広い意味で「暴力」を使ったり、比喩めいた言葉で「暴力」を使います。しかし、これは悪の無限的な波及に由来すると考えれば比喩ではなく暴力の性質そのものと言えるかもしれません。
だいぶというかかなり勇み足になりましたがこんな感じです。知らんけど。昼休み終わっちゃう。
