躁を使ってる時の自分と、躁に振り回されてる時の自分、両者はまるで見分けがつかない。主体的に使っているつもりでも、いつの間にか自由が利かなくなってしまう。体感としては鬱の方が安心だ。しかし鬱が続けば続くほど、だんだんフットワークが重くなる。スキゾとパラノの二分法に当てはめるなら、躁はスキゾ、鬱はパラノに近い気がする。
志紀島さんのドゥルーズ論も、(問題提起は良かったのだけど)途中から人間の精神構造をカテゴライズする流れに入り、最終的に「社会に順応してもアウトだし、革命を起こしても宜しくないし、ヤンキーとして生きるしかないかぁ」みたいな話になっていて、何の為にわざわざ「マゾヒズム」や「スキゾ」や「自閉症」といったセンシティブなワードを使っていたのか分からなかった。非常識な思考回路を突き抜けた先に常識的見解に着地するなら、最初から常識の外に踏み出さなくて良かったのでは。
時代に逆行するようだけど、自分は今、「分人から個人へ」「スキゾからパラノへ」「マルチタスクからシングルタスクへ」というのを、一度やってみたい気になっている。平野啓一郎氏の見解(『私とは何か』)によると、個人という概念は西洋からの輸入品。そしてキリスト教的な唯一神と一対一で向き合う所に初めて成り立つ。こうした宗教的基盤の無い日本において、個人として生きるのには無理がある、という論旨になっていたように思う。だが、それなら人工的に、唯一絶対の神を作ってしまえばいいように思う。時間的・空間的な広がりのある神じゃなくていい。ただ「今・ここ」にある自分を、一つの塊として造形してくれさえすれば。