パリの大砲の押収は、明らかにパリの一般的な武装解除、つまり9月4日の革命の前段階として行われたものであった。しかし、この革命はフランスの法的地位を確立していた。共和国、その業績は、降伏の条件において、征服者によって承認された。降伏の後、それはすべての外国勢力によって認められ、その名において国民議会が召集されていた。9月4日のパリ労働者革命は、ボルドーに置かれた国民議会とその執行部の唯一の法的地位であった。それがなければ、国民議会は、1869年にプロイセンではなくフランスの支配下で普通選挙によって選出され、革命の武器によって強制的に解散させられたレギストラティフ隊に道を譲らざるを得なかっただろう。ティエールと彼の離党票を持つ者たちは、ルイ・ボナパルトの署名入りの安全証書で降伏し、カイエンヌへの航海から救われるはずであった。国民議会は、プロイセンとの和平条件を決定する委任状を持つが、それは革命の一例に過ぎず、革命の真の体現者は、革命を起こし、そのために5ヶ月間の飢餓の恐怖を伴う包囲を経験し、トロチューの計画にもかかわらずその長期にわたる抵抗によって、地方における頑強な防衛戦の基礎を作った武装パリにほかならないのだ。そしてパリは、ボルドーの反抗的な奴隷所有者の侮辱的な要求に応じて武器を捨て、9月4日の革命がルイ・ボナパルトから王家のライバルへの単なる権力移譲に過ぎないことを認めるか、あるいは、ルイ・ボナパルトとして前へ進むかのどちらかであった。あるいは、第二帝政を生み出し、その育成のもとで腐敗しきった政治的・社会的状況を革命的に打破しなければ、フランスの破滅からの救済と再生は不可能であるとして、自己犠牲の擁護者として前に立たなければならなかった。5ヶ月の飢饉でやせ細ったパリは、一瞬たりともためらうことはなかった。プロイセンの大砲が自国の砦から顔をのぞかせるなかでも、フランスの陰謀者たちに対してあらゆる危険を冒して抵抗することを英雄的に決意した。しかし、中央委員会は、議会が挑発し、行政府が簒奪し、軍隊がパリ周辺に脅威的に集中しているにもかかわらず、パリが巻き込まれる内戦を嫌って、単なる防衛的な態度をとり続けたのである