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#エピクロスの処方箋 #夏川草介 #読書


にんじん
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ataraxia(アタラクシア)
アタラクシア(Ataraxia)とは、古代ギリシャ哲学に由来する「心の平静」「不動」「無動揺」の状態を指す言葉で、激しい感情や欲望に乱されない、穏やかで安定した精神状態のことです。エピクロス派の哲学では、このアタラクシアの実現が人生の究極の目標(最高善)であり、肉体的な快楽(アポニア)とともに精神的な幸福(快楽)をもたらす理想的な境地とされました。
哲学におけるアタラクシア
語源:「動揺」を意味するギリシャ語「タラケー」に否定の接頭辞「ア」がつき、「動揺がないこと」を意味します。
エピクロス派:哲学の目標は、心身の苦痛がない状態(アポニアとアタラクシア)を実現すること。友情を大切にし、外部の煩わしさから離れて静かに生きることを理想としました(「隠れて生きよ」)。
懐疑論:懐疑論者たちも、何が真実か判断を停止すること(エポケー)によって、この平静な状態を目指しました。
現代における使われ方
小説:金原ひとみさんの小説『アタラクシア』では、現代人が抱える愛や欲望、満たされない心境を描くテーマとして用いられています。
ゲーム:『Fate/hollow ataraxia』のように、心の平穏や、ループする時間の中で真実を探求する物語のタイトルにも使われています。
まとめ
アタラクシアは、単なる「静けさ」ではなく、困難や欲望に直面しても動じない、深く安定した心の状態であり、古代哲学の理想であり、現代の文学やサブカルチャーでも「心の平穏」を象徴する概念として使われています

シズ
回答数 27>>
この問いには 三つのレベルの答え が同時に存在します。
事実としての答え(自然・科学のレベル)
人は絶対に死にます。
これは現時点では反例がありません。
生物は必ず老化する
細胞は無限に自己修復できない
医学は「死を遅らせる」ことはできても
「死を消す」ことはできていない
科学的には
人間の死は必然。
哲学的に見ると:それでも「絶対」と言えるか?
ここからが本題です。
ハイデガー
人間は「死へ向かって存在する」
死は未来の出来事ではなく、
生きている今この瞬間を規定している条件。
人は「いつか死ぬ存在」ではなく
「すでに死を含んで生きている存在」
この意味で、
死は逃れられない=絶対。
エピクロス(逆説)
死は、われわれにとって何ものでもない
理由は単純。
生きている間 → 死はまだ来ていない
死んだ後 → もはや「私」は存在しない
だから
死を経験する主体はいない
この立場では、
「人は死ぬが、
人にとって死は存在しない」
という逆説が成立します。
では「私」は死ぬのか?
ここで問いは変形します。
「肉体」は死ぬ
→ これは疑いようがない
「意識」は死ぬ
→ 経験的には確認できない
→ だが継続を証明もできない
「私」という存在は?
哲学はここで割れます。
プラトン的答え
魂は肉体と別
肉体は死ぬが、魂は続く
人は死なない
近代以降(デカルト〜現代)
「私」は記憶・関係・言語の束
身体が終われば、それも終わる
人は完全に死ぬ
現代的解釈(物語としての人)
人は
誰かの記憶に残る
影響を与え続ける
言葉や行為が再生される
この意味では、
人は死んでも、完全には消えない
だがそれは
「本人が生きている」のとは違う。
哲学的に一番誠実な答えとして
人は必ず死ぬ。
だが「死ぬ」ということを
自分で経験することは決してない。

レート
回答数 45>>
『全てから「自由」』っていう文言の全てなるものを明確にできないのが(─自分の力不足を感じて)惜しいけど、1つ言えることがあるとすれば、─人間は生まれながらに不幸者になる定めを持っている。
心理学的・哲学的に共通する見解(*1)の1つとして、幸福とは「欲が満たされた先にあるもの」である。
言い換えれば欲が満たされない状態が幸福のない状態、これを不幸と呼んで良いのかはさておき、欲と幸福_満足と幸福は密接に関わるということだ。
ではここで1つ問いたい。
「人はいったいいくつの欲を持っているのか」
もし仮に、ここでどれだけ少なかろうと複数個あると回答したのであれば、私の言う「人は生まれながらにして不幸者になる定めにある」という意見を受け容れられるだろう。
「生まれながらに不幸者になる定めにある」
人には複数の欲求があるのに、体は1つしかない。この点が決定的に人を不幸に陥れる。
マルチタスクの存在が頭をよぎったかもしれない。だが、あれは高速三角食べのようなもので、処理能力の許容を超えない範疇でタスクの連続的処理を行っているだけだ。決して並列処理ではない。もっと言えば仮に並列処理できたとしても永遠に続けられるものではない。
一時の間に人が集中できる対象は1つでしかなく、果たして、ただ1つの対象から抱えている欲求のすべてを満たすことができるのだろうか。
─不明である。ただし、およそ不可能であろう。
ゆえに、人が抱える欲求が複数あり、人の体が1つであり、人が物事の思考による処理を並列的に_永続的に行えないのなら、人は生まれながらにして不幸者になる。これは定めなのである。
まとめ
①体が1つ=複数の相手ができない
②思考が直列的=複数の相手ができない
③単体の対象=人間の欲の全てを満たせるかは定かでない/おそらく不可能
だから、複数の欲を持つ人間は必ず不満を覚える=必ず不幸になる。
以上
*1 マズローの欲求充足モデル/エピクロスの快楽主義などが幸福の定義を欲求の満たされた先にあるものとしているようだ。ただしアリストテレスの目的論的幸福などはこの定義を共有していないため、必ずしも2学における全体的な共通見解というわけではない。

にんじん
そんな中、久しぶりに古代ギリシャ、エピクロスの言葉を読むと不思議と落ち着く。心の安定剤なのか?欲のない言葉だからか。ようやく深呼吸できた。
むぎ
生と死、医者は何ができるかみたいなのを考えさせられたね
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