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ゆき

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逃げ若ジャンプありがとうございましたー( ߹꒳​߹ )
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ベッドは古い。

長い年月を受け止めてきた木のきしみが、いまは呼吸みたいに静かだった。

老人は横たわっている。
身体はもう動かない。指先も、膝も、胸も、言うことを聞かない。
それでも首だけは、ほんの少し動く。
それが、彼に残された最後の“自分で選べる動き”だった。

部屋には人がいる。
家族でも、親戚でも、近所の人でも、誰であってもいい。
彼が生きてきた時間に触れた人たちが、ベッドの周りに集まっている。

泣いている人。
声を殺して、ただ見ている人。
手を握っている人。
「ありがとう」と言っている人。
言葉にならないものを胸に抱えて、立っている人。

老人は一人ひとりの顔を見た。
見て、胸の奥で小さく頷く。
ああ、ここまで来た。
ここまで、歩いた。

その中に、黒い服の男が混じっていた。
黒いコート、黒い手袋。
人混みの中で不自然なくらいに黒いのに、誰も気にしていない。
まるで最初からそこにいたみたいに、黙って立っている。

老人の目が、その男に止まった。

不思議と驚きはなかった。
この男は、人生のある場所でふいに現れる。
“会うはずのない時”に現れて、言うべきことだけ置いていく。

老人は、過去を思い出す。

妻が亡くなった夜のこと。
古いベッドの片側が、急に広くなった夜。
湯呑みを二つ並べてしまって、自分でも笑ってしまった夜。
声をかけても返事がなくて、返事がないことに腹が立つ自分が嫌になった夜。

あの頃、老人は生きる気力を失っていた。
“生きる意味”を失ったのではない。
意味なんて、元から大げさに持っていない。
ただ、毎日を支えていた小さな柱が、一本抜けた。
家が傾くみたいに、心が傾いた。

「そろそろ、行ってもいいかもしれん」

そう思った夜。
玄関の鍵が鳴ることもなく、黒い服の男が現れた。

男は何かを説教したわけではない。
「生きろ」とも、「死ぬな」とも言わない。
ただ、言葉にできない痛みに、言葉の輪郭だけを与えた。

――布団はたたまんでええ。
――寝る前に一回だけ、そこに手を置け。
――言葉はいらん。置くだけでええ。

それだけ。
それだけで老人は、あの夜を越えた。
越えたというより、抱え方を覚えた。

悲しみが消えたわけではない。
でも、悲しみが“自分の全部”ではなくなった。
悲しみの横に、静かな温度が残った。

老人は、いまその男を見ている。
呼吸は浅く、部屋の音は遠い。
光は柔らかい。
身体はもう動かない。
ただ目だけが、男に問いかける。

――これで、良かったのか。

言葉は出ない。
でも問いは、目線に乗る。
人生の最後に残る問いは、いつもこういう形をしている。
正解が欲しい問いではない。
“抱きしめてほしい問い”だ。

黒い服の男は、何も言わなかった。
頷きもしない。慰めもしない。
ただ、ほんの少しだけ――身体を半分ずらした。

その動きは、まるでカーテンを開けるみたいだった。
まるで、邪魔にならない位置へ身を引くみたいだった。

男の後ろに、誰かが立っていた。

白い。
白いというより、薄い光。
でも眩しくない。
目に刺さらない。
胸にだけ刺さる。

亡き妻だった。

若い頃の姿ではない。
看病で痩せていく前の姿でもない。
老人が一番よく知っている、“暮らしの中の妻”の姿だった。
台所に立っているときの、背中の丸み。
湯気の向こうで笑う目。
名前を呼ぶでもなく、ただそこにいるという安心。

妻は何も言わない。
言葉は要らなかった。
言葉より先に、存在が答えだった。

老人の皺が深い目から、涙が流れた。
涙は大きくはない。
音もしない。
ただ、頬の溝を静かに滑り降りた。

それは悲しみの涙ではなかった。
後悔の涙でもなかった。
“よくやった”の涙だった。

人生のほとんどは、派手な場面じゃない。
布団を整え、湯を沸かし、薬を飲ませ、背中をさすり、
明日も同じように朝を迎える。
その繰り返しを、投げずにやり切った。
そのことを、誰かが、ただ見ていた。

妻が見ていた。
妻が、受け取っていた。

老人の胸の奥が、すっと軽くなる。
“これで良かったのか”という問いが、答えを得たのではない。
問いそのものが、溶けていく。
溶けて、ただ温かさだけが残る。

老人は妻を見た。
妻もまた、老人を見ている。
二人の間にあるのは、言葉じゃない。
“同じ時間を生きた”という、沈黙の確かさだった。

老人は、最後にもう一度だけ、周りの人たちを見る。
皆が泣いている。
泣いている人も、泣けない人もいる。
それでいい。
誰も悪くない。
ここまで来たのだから。

妻は、ほんの少し微笑んだように見えた。
それが合図だった。

老人は、息を吐いた。
長い旅の終わりに、人はいつもそうする。
荷物を下ろすみたいに。

次の瞬間、黒い服の男はいなかった。
さっきまでそこにいたはずなのに、
誰も「いつの間に消えた」とも言わない。
最初からいなかったように、空気だけが整っている。

でも老人は知っていた。
あの男は、見せるために現れたのではない。
“邪魔にならないため”に現れたのだ。

妻に会わせるために。
最後の瞬間に、心の支えをずらすために。

老人の涙がもう一筋落ちる。
その涙は、部屋の静けさに溶けていった。

そして、彼は旅立った。
恐怖ではなく、孤独ではなく、
誰にも聞こえない「ただいま」と「おかえり」の間へ。

ベッドの片側は空いていたのに、空っぽではなかった。


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